『死穢の陰陽師』
危険な状況だ。盤上のほとんどを、
(何故、こんなことに!)
序盤は確かに、仙足坊がペースを握っていたはずだ。軽快な打ち回しであっちこっちに手を付けて、疾風迅雷の勢いで盤面を支配していた。小さな地を増やし、着実にポイントを稼ぐ「
(この少年が何者であるにせよ、拙僧はコツコツ地を囲い、コツコツ勝利するまで)
一方、鷺若丸は焦らずどっしり構え、力を貯めた。仙足坊の真逆を行く追い上げ型の、「厚い」戦略だ。しかしその構えは、仙足坊の目には隙があるように映った。
隙が見えたからには、突いてやらない道理はない。仙足坊はしたり顔で石を置いた。それが鷺若丸の掌の上だとも知らずに。そこから始まった鷺若丸の怒涛の反撃は、あれよあれよと言う間に、仙足坊をこの窮地へと追い込んだ。
(ま、まさか……最初からこれを狙っていたのか? この展開を?)
仙足坊はまんまと誘い込まれたのだ。
汗が顎から滴り落ちる。もはや彼の石は脱出不可能だ。逃げ場などない。
(南無三! しかし、勝負はまだ分かりませんよ。この石が死ぬと決まったわけでは……!)
仙足坊は頭を絞り、生存の手を尽くす。しぶとく、巧みな打ち回しだ。「腕に覚えがある」と自分で言うだけのことはある。
しかし鷺若丸は容赦しない。鋭く、痛烈な攻撃が、仙足坊の逆転の目を潰していく。
仙足坊は戦慄した。向かいに座っているのは、ただの人間の少年のはず。しかし石を通して伝わってくるその圧倒的な力は、神の威圧をも想起させた。
(こ、この少年!……いったい何者!?)
丸呑みにされた仙足坊の石はよく粘った。しかし、程なく四肢を縛り上げられ、巨大な白地の胃袋へ溶かされ消えた。もはや盤面がひっくり返ることはありえない。
仙足坊の肩から、力が抜けた。
「ありません」
投了だ。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
決着を見届けた
「では仙足坊。厄介なおまえには、ここで消えてもら――」
しかし鷺若丸が腕を伸ばし、彼女を引き留めた。
「殺したり殺されたりは、碁盤の上だけで十分。彼もまた、碁打ちの一人だ」
天涅はなにか言いたげに口を開いたが、今回はその言葉を呑み込んだ。
「……分かった。消滅はさせない。代わりに、
仙足坊は苦々しく口元を歪める。しかし《
「なに、大したことではございません。長い雌伏の時を過ごした我が主――漆羽鬼神様の、兼ねてよりの目的を遂げようというだけのことでございます。力をつけ、消滅の淵より這い登り、領土を広げるのです」
「この山に来たのは何故?」
「ここが龍脈の通る場所だからですよ。狭間の領域への出入り口が開くでしょう?」
天涅が目を細める。
「まさか、
「いかにもその通りです。あちらの領域の掌握は、未だかつて誰も成し得なかった偉業ですよ」
「……そこまでする目的はなに?」
「ふっ。浪漫と郷愁――ですかね」
天狗の面が虚空を見上げた。
「誰にでも辛酸を舐めた過去があり、欠けている心の空白がある。それを埋めてくれる栄光の瞬間を求めて、
「回りくどい。要点だけ話して」
「ふっふっふ。我が主の胸の内をこれ以上、拙僧の口から語るのは無粋というものでしょう」
突然、彼の背中から片翼が飛び出した。
「この結界、本当に厄介極まりない代物ですが、今回は術に綻びがありますね」
「……! 待て!」
制止も空しく、仙足坊の姿がかき消える。光の結界が破られていた。宙を舞っているのは、天涅が咄嗟に放ったものの、風に跳ね返された御札だ。どこからともなく声が響いた。
「今日はいい勉強になりましたよ、少年。機会がありましたら、是非またお手合わせを」
声が消えると、ほどなく風も収まった。
「……まんまと逃げられた」
今回の《夢幻の間》は、発動呪文の半分を鷺若丸が詠唱した。そのため、敗者への強制力が普段より落ちていたのだ。ある程度まで情報を引き出すことはできたが、「洗いざらい」という指示は踏み倒されてしまった。
「いえ、無事にこの局面を切り抜けただけでも良しとしましょう……」
「無事……か?」
消えていく碁盤を離れ、鷺若丸が天涅の方ににじり寄る。恐くて直視できないが、心配なのは彼女の腕と脚だ。緊張の糸が切れた天涅は、豪快にその場へ倒れ込んだ。
「確かに酷い有様だけど、問題はない。わたしは人間じゃないから」
「……妖、なのか?」
「あるいは、その辺の妖の方がよっぽど人間的かも」
彼女はもげた方の腕を掲げる。その先端から落ちてきたのは、血でも肉でもなく、黒ずんだ土くれだった。
「《
「……なに?」
「五年前、
「そう、なのか……?」
彼女は淡々と説明する。
「肉体が欠損しても修理すれば元通り。すべての感覚が魂から遠いから、痛みも苦しみも“そういう状態”としか感じない。だから本当に大丈夫なの」
その言葉は、とにかく淡々としていた。ただ事実を事実として口にしているからだ。
彼女は囲碁を仕事の道具と見なしていたが、それだけではなかった。彼女にとっては自分自身でさえ、同じことなのだ。
「不満はないのか?」
「そうね。その感情はない。言ったでしょ、すべての感覚が魂から遠いって。それはなにも五感に限った話じゃない。……感情も同じなの」
つまり、彼女は喜びや悲しみを感じることも、ほとんどないのだ。だからこそ彼女は、ロボットのように黙々と、与えられた役割を全うできる。しかし同時に、だからこそすべてが虚しくて仕方がない。
「もちろん、心の動く瞬間がまったく存在しないわけじゃない。例えば美味しそうな食べ物を目にしたとき、目障りな半妖を挑発するとき。自分の内側に生まれる、小さなさざ波が分かる。それが情動と呼べるものかは知らないけど……、どんな合理性をかなぐり捨ててでも、飛びつかずにはいられなくなる」
それはきっと、自由な感情というものに飢えた、魂の本能だ。
「《夢幻の間》の中でおまえと対局したときも、それを感じた。敗北が色濃くなっていく中、着々と強くなっていく、胸のざわめき。今までに感じたことのない、心の揺らぎ。ずっと気になっていた」
それこそが、鷺若丸への執着の理由だった。
「おまえは、あれがなんだったのか知ってる?」
他人の心の中の問題など、鷺若丸に答えられるはずもない。だが、確信していることもあった。
「我が思うに、その問いの答えは――」
「答えは……?」
鷺若丸はどや顔で、自信満々に指を立てた。
「囲碁の中にある!」
「……、結局それ?」
「よ、良いではないか! おかしきことを言ったか?」
「別に。でもおまえと違って、わたしにとって囲碁は仕事の道具。それ以上でも以下でもない」
彼女は崩れ落ちた腕を、鷺若丸の方に見せつける。
「さっきのムキムキ天狗仮面が言ってた通り、わたしは陰陽師としては三流もいいところ。この身体が
死は穢れだ。神々や高位の精霊は、これを特に嫌う。彼らにとって生ける死人である天涅は、言わばゲロの臭いを振りまく巨大ゴキブリのようなものなのだ。陰陽師としては、致命的な欠陥だった。
「……こんなわたしが強敵と渡り合う唯一の方法、それが囲碁という道具。だからわたしには《夢幻の間》と【
「それを変えるには及ばず。取り返す必要があると言うなら、我も手を貸す。勝てと言うなら、漆羽ごにょごにょ何某にも勝つ」
その言葉に、天涅は少し目を見開く。今日のデートは、まさにその言葉を引き出すために催されたものだ。だが、彼女の側から請うまでもなく、鷺若丸自らがそれを切り出してくるなんて、考えてもいなかった。
天涅は片腕と片足で身体を起こす。そして慌てて支えにくる鷺若丸の手を、捕まえた。
「いいの? 本当に?」
怪異との闘いが命がけであることは、今しがた身に染みて学んだはずだ。それでも鷺若丸は迷いなく頷く。
「その代わり、そなたは囲碁部に入れ。囲碁部でまことの囲碁を打て。そなた自身が考え、そなた自身が打つ囲碁を」
示された条件と報酬が釣り合っていると思えず、天涅は疑問符を浮かべる。
「そこまでするのは
「そしてそなたのためでもある。知りたいのであろう、そなた自身の心を」
鷺若丸の目が光り輝いた。
「ならば打つしかあるまい! 囲碁ほど心躍るものは、この世にあらず!」
「……それが事実なら、もっと流行ってると思うのだけど」
「うぐ……」
今日一番のダメージを受けている鷺若丸を一瞥し、天涅は眉を動かした。
「とんだお人好し。……もっと自分の利益になることを条件にしたらいいのに。たとえば、『千年前に戻る手段を一緒に研究してくれ』、とか」
「それは……!」
今更気付いたのか、鷺若丸が狼狽えている。天涅は呆れ気味に、軽く目を閉じた。瞼の裏で、素早く算盤を弾く。もちろん、取引の答えは決まり切っている。あまりに好条件が揃いすぎていて、断る理由を探す方が難しいくらいだ。
「分かった。わたしは囲碁部に入って、おまえはわたしに力を貸す。それでいいのね?」
「う、うむ!」
「それから、もし【黄金棋眼鏡】を取り返せたなら、その時は土御門が研究に手を貸してあげる」
「え、よいのか!?」
「別に憐れみとか、お節介とか、そういうのじゃないから。ちゃんとした成功報酬を用意しておかないと、手を抜かれるんじゃないかって、忌弧が心配する。それだけ」
「ともあれかくもあれ、かたじけなし!」
契約成立だ。デートの目的は果たされた。天涅は岩の欠片にもたれる。
「じゃあ、帰投しましょう。忌弧を探してきてくれる? その辺に落ちてると思うから」
「承知した!」
鷺若丸は骨を追う犬のように走り去っていく。それを見送りながら、天涅は小さく呟いた。
「やっぱり興味深い。……ねえ、おまえもそうは思わない?」
彼女は暗くなってきた森の中へ、突然そう呼び掛けた。
「そろそろ顔くらい出したら、ストーカーさん」
「人聞きの悪いこと言わないでもらえる? クソ陰陽師」
大木の陰から出てきてマスクとサングラスを外したのは、今日一日ずっと、天涅たちの後をつけていた、もう一人の監視者――
「あんたが真摯に恋愛するような奴じゃないってことくらい、あたしにはお見通しなのよ。薄汚い土御門の都合ありきだって、バレバレだから」
「失礼ね。彼のこと、面白いかもって思ってるのは本当だし、彼に良く思われたいと思ってるのも本当。彼が素直に味方になってくれたことも、良かったと思ってる。これで脳を摘出して片眼鏡に加工しなくて済むから」
「……は?」
雪花の表情が凍りついた。天涅は表情を変えず、もう一度繰り返す。
「これで脳を摘出して片眼鏡に加工――」
「いや、二度言わなくていい。二度言わなくていい」
土御門のえげつない倫理観にゾッとしながら、雪花は吐き捨てた。
「やっぱりあんたたち一族、滅びといた方がいいわ。妖怪なんかよりよっぽど外道じゃない」
「だったら、どうして助けたの?」
「……。ふん」
雪花は無言で手を持ち上げる。その上に、キラキラと輝く物質が浮かび上がった。氷だ。それは仙足坊が二度目の天狗ミサイルを仕掛けた際、彼の攻撃を阻害したのと同じ物だった。左頬のあたりに蒼く光る幾何学模様を浮かべながら、彼女は言い放つ。
「勘違いしないでよ! あたしがあんたを囲碁で倒すまで、死なれちゃ困るの」
天涅は雪花が最も嫌う、土御門の陰陽師だ。姿を見るだけで心がざわつき、殴りかかりたくなるような相手だ。しかしそんな彼女に、よりにもよって囲碁で勝ちたいだなんて思ってしまった。思わされてしまった。
土御門家への恨みは山より高く、海より深い。しかし敗北の悔しさは、それをも超えたのだ。
「あんたはムカつく。だけど、だからこそ、部活に来ることを、もうとやかく言いはしないわ。あの囲碁部で、あたしはあんたを超えてやる! 言いたいことはそれだけよ!」
「……。……。……ふ」
「……ふ?」
その瞬間、天涅は仰け反るように夕焼け空を見上げた。
「ふ゛えぇひゃひゃひゃひゃひゃひひゃひゃひゃへぇぁあ!!」
「……!?」
哄笑。大きく開いた口から迸ったのは、まさかの笑い声だった。
全身を震わせ、徹底的に、ひたすらに、とにかく笑えるだけ笑い尽くした彼女は、始まった時と同じくらい唐突に笑うのを止め、スンッと元の無表情に戻った。
「ええ? なに? なになになに!?」と怯える雪花に向けて、抑揚なく語り掛ける。
「そう。そういうことなら……、半人、次は囲碁部で会いましょう」
すっかりいつもの調子だが、雪花の方は完全に腰砕けになってしまった。
「い、いい、言われなくても! く、首洗って待ってなさいよね!」
威嚇として歯を剥くことで挨拶代わりとし、逃げるように歩き去っていく。
その背中を見送る天涅の口角は小さく、ほんの小さく吊り上がるのだった。
が。
「あ! そうだ!」
その場を離れかけた雪花が、ふいに足を止めた。
「言いたいこと、もう一つあったわ!」
天涅の方を振り返って、指を突き付ける。
「あんた、あの囲碁バカが平安生まれだからって、デタラメ吹き込んでんじゃないわよ。ペンギンは地球生まれだし、ティラノサウルスは火を吐かないし、クレープ占いと恵方は関係ない。あんな三流都市伝説が知識として定着しちゃったらどうすんのよ、まったく! まさかとは思うけど、あんた、あれ信じてんじゃないでしょうね?」
雪花は眉をひそめながら、今度こそ姿を消す。あとに残された天涅は、一人ポツンと呟いた。
「莫迦な……、嘘だったのか、インターネット」
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