『襲撃!』
待ち合わせの時刻は草木も眠る丑三つ時だが、時計を持たない鷺若丸は何時間も前からこの場所でスタンバイしていた。今のところ、待ち合わせの相手が来ている気配はない。
彼は一人、声に出して呟く。
「しかし
まだ現代の文字が分からない鷺若丸に代わって、メモを読み上げてくれたステラも首を傾げていた。彼女は鷺若丸の身を心配したが、厳しい門限に追われてやむを得ず同行を断念。スクールバスの窓越しに無念そうな眼差しを残し、一足先に山を下りて行った。
四百メートルトラックの中心に立ち、鷺若丸は天を仰ぐ。黒いカンバスに撒かれた星々が、まるで砂のようだ。そこに浮かぶ、鏡のような月に見惚れる。
「……いつの世も、月は月か。あはれよのう」
千年。生まれ育った平安の世から、気が遠くなるほどの未来へやって来てしまった。心細くないと言えば、それは嘘になる。だが、なにもかもが様変わりしたこの世の中で、奥ゆかしく夜空に輝くその月が、ざわめく心を鎮めてくれた。
「ふぅ……」
短く一つ息を吐く。これから囲碁を打つのに、不安になっている場合ではない。
とにかく、今はステラの団体戦の仲間を集めることだ。そのためにも、まずは今夜の頼まれごとを鮮やかに完遂し、褒美の権利を獲得するのだ。
後ろ手を組み、サンダルの先を鳴らしながら、待つことさらに数時間。不意に冷たい風が吹き込んできた。同時に、女の声が響き渡る。
「よかった、まだいてくれたぁー!」
姿は見えないが、声で分かる。自称・謎の美少女、田中(暫定)だ。
「ちょっと、なんで灯りも持たずにボケーっと突っ立ってんのよ! 危ないでしょ!」
「かくいうそなたの灯りは?」
「あたしはいいのよ! あたしは!」
彼女は暗闇の中、鷺若丸の手を掴む。その指のあまりの冷たさに、鷺若丸は身をすくめた。まだ多少、肌寒いとはいえ、今は春の盛り。まるで吹雪の中を彷徨ってきたかのような彼女の体温は、さすがに不自然だ。動きが鈍った鷺若丸を、彼女は無理やり急き立てる。
「なにボーっとしてんのよ。とにかく、早くこっちにきて。あいつらもうすぐそこに!」
「あいつら? いったいそれは誰――」
その瞬間だった。突然どこからともなく光る矢が飛来し、田中の肩に突き刺さった。
「あぐっ!?」
光は異様な威力で肉体を貫通し、冷たい血をまき散らした。田中はなんとか踏みとどまる。
「ド畜生、がぁ! お気にの服に穴、開いちゃったじゃない! これ高かったんだから!」
彼女は歯を食いしばり、根性で走り続けた。それを阻止するように、どこからともなく呪文が聞こえてくる。
「万物は
今度は二人の周囲に光の壁が出現した。
「この!」
田中はモロに頭から突っ込んだ。硬質ガラスにぶつかったような音を立てて、あえなく跳ね返される。
床に投げ出された彼女の姿に、鷺若丸は目を奪われた。光に照らし出された左の頬のあたりに、蒼く輝く線で幾何学的な紋様が浮かんでいたのだ。奇妙な形だ。まるで雪の結晶のようにも見える。
彼女は苦悶に顔を歪めながら、起き上がった。
「っうう。鷺若丸、……怪我はない?」
「そ、そなたこそ大丈夫か? 肩と、それからその顔は……?」
彼女は慌てて頬を隠し、誤魔化した。
「そんなことはどうでもいいでしょ! それより、結界に閉じ込められたことの方が問題よ」
鷺若丸はなんとか混乱を呑み込んで、ひとまず周囲を見回す。半透明の光の壁は前後、左右、上下、すべての方向を隙間なく覆っていた。床には畳のような仕切りが入っている。ちょうど九畳ほどの空間のようだ。
「あはれ。これが令和のカガクギジュツ……!」
「いや、どう考えても科学じゃないでしょ! あいつの仕業よ、あいつの!」
指差された先に、田中と鷺若丸以外の人の姿があった。
とても小柄なショートヘアの少女だ。歳は鷺若丸よりかなり下に見える。
「彼女は?」
田中は忌々しそうに答えた。
「
「陰陽師? まさか我と戦わせたい相手というのは……?」
「そう、あいつ」
田中は頷いて、結界の中央を指さす。床の上に光の線が走り、立体的な形を作り上げているところだった。出来上がったものを見て、鷺若丸は目を丸くする。四つの足の上に、大きな立方体。その上面には縦横十九本ずつの線が刻まれている。そして脇には球状の入れ物が二つ。そう、碁盤と碁石だ。
「あなや! これで囲碁が打てるのか!」
すると陰陽師の懐から、ケタケタと笑い声が聞こえてきた。
「左様、嫌と言っても打ってもらうぞ。その一局が終わるまで、この空間から外に出ることはかなわん。そして……」
狩衣の袖から、狐のぬいぐるみが飛び出してきて、破裂した。湧き上がる白い煙の中から現れたのは、狐耳の女だ。彼女は威嚇するように扇の音を立て、告げた。
「敗者は勝者から下される命令を、なんでも一つ、聞かねばならぬ」
「なんでも?」
「そう、なんでも、じゃ。無論、生殺与奪に関わる命令でも、のう」
狐耳の女が舌なめずりすると、口の端から異様に鋭い牙が覗いた。
「ククク。囲碁によって獲物を支配し、蹂躙するための空間。それがこの《夢幻の間》というわけじゃ。面白かろう?」
今度は鷺若丸が問う前に、田中が教えてくれた。
「そいつは、そこのクソ陰陽師が飼ってるクソ式神よ。ドブ川の底で熟成された腐肉みたいな女だから、気を許しちゃだめ」
「よく分からぬが、そなたの口もかなり悪いな?」
「うっさいわね、どうせ育ちが悪いわよ!」
田中は叫びながら鷺若丸を押し出すと、陰陽師陣営に向かって声を張り上げた。
「こっちは彼を代理に立てるわ」
「ほう? 小童の方はそれでよいのかえ?」
狐耳が扇を持ち上げ、鷺若丸に問う。
「その女は半人半妖の雪女じゃぞ」
暴露は突然だった。しかし、不思議とすんなり信じることができた。おそらく事実なのだろう。彼女が近寄る度に感じる、あの不自然な冷気にも、顔面に浮かび上がる妖しい模様にも、すべて説明がつく。なにより、狐耳に指をさされた瞬間、田中がビクッと震えた。それは図星を突かれた者の反応だ。
「分かっていて手を貸していたのか? いやいや、そうではなさそうじゃな。甘い言葉を囁かれ、なにも知らぬまま、まんまと利用されそうになっていた口じゃろう。どうじゃ、小童?」
狐耳は牙をむく。鷺若丸に語り掛けながらも、嗜虐的な視線は田中の上から離れない。
「こやつはおぬしを騙しておったのじゃ。そんな奴にこれ以上、手を貸す必要もあるまい? うん? 恨みが怖いなら、安心せよ。そこの悪い女は、我々が速やかに消し去ってやる。人類に仇を成す、妖の尖兵じゃ。心置きなく見捨てるがよい」
「ま、待って! 確かに正体を黙っていたのは事実よ。だけどここで一人にされたら……」
田中が慌てふためく。彼女は清廉潔白な身ではない。しかし今、鷺若丸という唯一の味方を失えば、戦う術がなくなってしまう。だから必死だ。
「お願い、あたしを助けて!」
鷺若丸がゆっくり振り返る。田中は息を呑んだ。彼の顔に浮かんでいたのが、強気な笑みだったからだ。
「無論。そなたに味方すれば、我は囲碁が打てるのだろう?」
「あ、あんた……」
「それに、もとよりそういう約束だ。褒美もある。……すべてはステラ殿の団体戦のために!」
言葉を失う田中。その前で、鷺若丸は堂々と宣言した。
「というわけだ、陰陽師たちよ。我が打つ!」
狐耳が舌打ちする。その前を横切って、陰陽師の少女が進み出た。今までずっと沈黙を守ってきた彼女の口から漏れたのは、感情のない呟きだ。
「虚しい。ああ。虚しい」
彼女は袖を払って、碁盤の前に正座する。前髪に隠れがちな光のない瞳は、じっと前方だけを見据えていた。なにもかもが心底どうでもいい。そう主張しているかのようだ。その視界の中には、鷺若丸も田中もいない。
「別にどっちだっていい。……どうせわたしが勝つし。その女も抹消する」
狐耳の女は、たちまち機嫌を直した。
「ククク、確かにその通りじゃ! 小童、もしおぬしにプロ級の腕があるというのであれば、あるいは投了せずに済むかもしれんのう。そうであってくれれば、妾もちょっとは楽しめる。なにせ前回の相手は酷かったからのう~。いきなりマスの真ん中に石を置いて反則負けじゃ! ハ~ッハッハ!」
「なに?」
その哄笑は、鷺若丸の表情を一変させた。将棋の駒やオセロの石とは違って、碁石は線と線の交点に置くもの。つまりこの狐は、それすら知らない初心者を鴨にしたと語り、悦に入っているのだ。一人の碁打ちとして、断じて見過ごせる言動ではなかった。
鷺若丸は雪女の冷気を背に、碁盤の前に立つ。サンダルを脱ぎ捨て正座すると、押し殺した声で目の前の少女へ食ってかかった。
「手合いは?」
「……互先、コミは六
条件は完全にイーブンだ。
「あい分かった!」
鷺若丸は光の
「ニギる」
そう言って陰陽師の少女が、握りしめたいくつかの碁石を盤上にかざす。先攻・後攻を決める〈ニギリ〉だ。これを受け、鷺若丸は黒石を二つ出す。少女が握った白石の数を、偶数と予想したのだ。
少女は、握っていた石を碁盤の上に広げる。鷺若丸の勘の通り、石の数は偶数だった。この場合、的中させた鷺若丸が先手番の黒をもらえる。
ルールすら知らない田中は、この時点で早くもついていけなくなっていた。己の命運がかかった一戦を、ただ見守ることしかできない。
「頼むわよ。マジで頼むわよ」
そんな呟きを鼻で笑い、狐女が陰陽師の少女に目くばせする。少女は片眼鏡を整えた。
「【
レンズに光が宿る。その奥で、眼筋が激しく痙攣した。血管が浮き上がり、眼球はたちまち黒く染まっていく。ただ事ならぬ様子だが、見守る狐耳の女は満足げに口元を歪めた。
「ククク、のしてやるがよい、
狐女は悠然と腰を下ろし、声を張る。
「それでは。黒番、半人半妖の雪女が代理、生意気な小童。白番、土御門家当主、土御門天涅。――両者存分に戦うがよい。立会人、
その合図と同時に、鷺若丸はうやうやしく頭を下げた。
「お願いします」
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