『特訓!』

 翌、活動日。数学棟廊下端で真剣な顔のステラが質問した。


「今のわたくしたちには必要なものがあります。なんだか分かりますか?」


 雪花せっか天涅あまねは、そろって同じ方向に首を傾げる。ステラは声を張り上げた。


「特訓ですわ!」


 彼女らしからぬ、勇ましい声だ。


「知っての通り、わたくしたちは、ひと月後に大会を控える身。勝ち上がれなければ、大会はそこで終わってしまいます」


 ステラは興奮を確かめるように、両拳を握りしめる。


「わたくしたちは本来、巡り会うはずのなかった他人同士。ですが今、こうして一つのチームとして、大会に挑もうとしている。奇跡的なことだと思いませんか? ですからわたくし、ワクワクしすぎて……欲が出てきました!」

「よ、欲……?」


 たじろぐ雪花に、彼女は力強く頷きかける。


「はい! こんなすごいチームが、大会に出るだけで満足するなんて、そんなのもったいないです! 行けるところまで行きましょう。本気で勝ちを獲りに行くんです!」

「故に……特訓なり!」


 今度は傍らの鷺若丸さぎわかまるが声を張り上げた。


「ひと月後の大会のため、そなたらの棋力きりょくを上げに上げる! 我とステラ殿の二人がかりでな。必ずそなたらを勝てる碁打ちにしてみせる」


   ○


 というわけで、まずは鷺若丸の番だ。


 二つの碁盤の前につき、対面にはそれぞれ、雪花と天涅を座らせる。


「上達の基本は実戦。実戦。実戦なり! 二人まとめて相手しよう」


 上手うわて下手したての練習相手になる「指導碁」を、同時進行でこなそうというのだ。


 一局打ち終われば、鷺若丸は卓越した碁打ちの視点から、どこが悪かったか、どうするべきだったかを、その場で教える。実践と反省は、どんな学びにおいても大事な要素だ。


「雪花殿は、覚えがいい。碁石を初めて握ったのがつい先週だなんて、嘘のようだ」

「まあ? あたし天才だし? これくらい普通よ、普通!」

「されど、判断が遅い。圧倒的に経験が足りぬ」

「う……」


 ある程度まで打ち慣れたプレイヤーは、次の手の候補を直感的に思い浮かべることができる。経験則によって石の連携パターンが感覚に刷り込まれているため、思考プロセスを短縮できるのだ。一方、ほぼ初心者の雪花の場合、その場その場で虱潰しに手を考えなくてはならない。それでは判断を下すまでに時間と労力がかかりすぎる。当然、読みの精度も落ちてしまう。


 その点、天涅の直感力は優れている。


「天涅殿は目がいい。第一感で形の急所を見抜く眼力がある」


 これはおそらく、【黄金棋眼鏡おうごんきがんきょう】によって鍛えられた能力だろう。彼女はただ指示されるままに石を並べていただけだが、幾度にも及ぶその反復作業の中で、本能に理想的な石の形が刷り込まれたのだ。本来なら長い修行によってじっくりと育んでいくセンスなのだが、彼女にはそれが既に備わっている。これは大きな強みだ。


 褒められた天涅が、これ見よがしに雪花を振り返る。


「ふっ……!」

「……くっ!」


 いつもの争いが始まる前に、鷺若丸は素早く釘を刺した。


「されど、天涅殿にも弱点はある。れは勘に頼り過ぎること」


 たとえ急所を見抜いても、その直感を結果へ導く二手目以降の〈読み〉に粗があるのだ。たとえ急所を狙っても、そこから始まる相手の反撃を最後までねじ伏せなければ、成果は得られない。それどころか攻撃の隙を突かれ、逆襲を受けることにもなりかねない。実際、天涅の石はしょっちゅう返り討ちに遭っていた。


 つまるところ、雪花と天涅は正反対なのだ。雪花は「理論」を組み立てる才能に恵まれているが、経験によって構築される「感覚」を持っておらず、対して天涅は「感覚」が優れているにもかかわらず、「理論」に不足がある。


「そこで、ステラ殿が二人に、いいものを用意した」


 鷺若丸の説明を受けて、ステラが二人にそれぞれ分厚い紙の束を差し出す。


「わたくしが授業中に作った、詰碁百選ですわ!」

「……ちゃんと授業を聞きなさいよ」

「先生にも、そう怒られてしまいました。くすん……」


 最初から最後まで詰碁たっぷりの問題集だ。だがページを手繰る天涅の眉が、小さく動く。


「これ、半人の方の問題と間違えてない?」


 確かに彼女に渡された本は、彼女にとってはやや簡単な問題ばかりが並んでいた。雪花も自分の問題集を確認する。


「いや、あたしの方も簡単なんだけど」


 どちらの問題集も、難易度の低い問題ばかりが並んでいた。しかしステラは自信たっぷりだ。


「それでよいのですわ」


 基礎の反復が目的なのだ。これで経験と感覚の不足を補い、同時に急所からとどめに至るまでの「読み」の理論を確認する。


「難題に挑むことも勉強ですが、まずは簡単な問題をたくさん解くこと。つまり素振りが大事なのですわ。わたくしの持論では、見てから十秒で答えられるくらいの難易度がベストです」


 ステラは鷺若丸に比べて腕前こそ劣る。だが、ひたすら打って強くなった我流の彼と違って、現代における効率的な勉強方法を熟知していた。そんな彼女だからこそ、二人の成長に合わせて、詰碁の難易度をつぶさに調整することも可能だ。当然、実戦に頻出する形もピックアップして、叩き込んでいく。


 これを残りひと月、みっちりやる。それで棋力きりょくがどこまで上がるかの勝負だ。


「ふーん、なるほどね」


 雪花は詰碁集をめくりながら、天涅に視線を送った。


土御門つちみかど。どっちが先に全問解けるか、勝負しましょうよ」


 天涅も即座に応じる。


「いいだろう。負けた方は、今日一日、語尾にワンをつける」

「へえ~! 土御門のスカした陰陽師がワンワン吠えるのは、さぞ見ものでしょうね!」


   ○


 陽が沈む頃合いに、仙足坊せんそくぼうは上空から陣保じんぼ山の外に飛び出した。結界に人の反応があったからだ。上空に佇み、地上へと目を凝らす。千里までは見えない半端な千里眼に映ったのは、山の入り口のあたりでガードレールに腰かける、一人の少女だった。学校帰りの銀木しろき雪花だ。


「また彼女ですか……」


 結界に阻まれ山を登れないと知っているはずだが、彼女は足繁く山の麓まで通ってくる。漆羽うるしば鬼神への変わらぬ忠誠を伝えようとしているのだろうか。


 しかし仙足坊は勘付いていた。先日の天涅との戦いに水――もとい氷を差したのは彼女だ。


 果たしてどういうつもりなのか、その意図が気になった彼は、彼女の下へ舞い降りた。


「ご機嫌よう、銀木様」


 仙足坊の来訪に気が付いた雪花は、突風に目を庇いながら立ち上がる。


「仙足坊! 待ってたワン」

「……? ……? ……ワン?」

「……気にしないで。今日も今日とて、勝負に負けて罰ゲームさせられてるだけだワン」


 雪花が心底悔しそうに歯噛みするので、仙足坊は曖昧な相槌を返すしかなかった。


「はあ。それはまた……、えー、楽しくやっているようでなによりです。ですが、その……やりづらいので、よければ今だけ、普段通りに喋っていただけると助かります」

「……うん」


 仙足坊は咳払いして、真面目な空気を取り戻そうと試みた。


「とにかく、先日の件について、です。どうやら拙僧は、貴女の面の皮の厚さを見誤っていたようだ。まさかあのような邪魔だてをしておきながら、こうして顔を出せるとは」

「悪かったわね。でも、事情が変わったの。あの女はあたしの獲物よ。手を出そうって言うなら、あんたでも氷漬けにするわ」


 迷いのない目だ。それは仙足坊の心に、ある感情を湧きあがらせた。郷愁だ。


 彼は後ろに手を組み、緩む口元をため息で誤魔化す。


「一度決めたらテコでも揺らがぬ、その眼差し。思い出しますねぇ、貴女の母親を」


 かつて漆羽鬼神の配下だった雪花の母親は、仙足坊とも同僚のような間柄だった。


「やれやれ、是非もない。貴女の母親に免じ、この件には目をつぶりましょう。しかし漆羽様にまで寛容を期待してはいけませんよ。意味は分かりますね?」


 結界さえ攻略できれば、土御門たちはすぐにでも漆羽神社へ乗り込むだろう。その襲撃に備えて今、陣保山は臨戦態勢をとっているのだ。もちろん攻め込んでくる敵に、手心などは加えない。相手が土御門の陰陽師であれば、なおさらだ。


 雪花もまた、仙足坊に忠告を返す。


「身をもって知ったと思うけど、向こうにものすごく強い碁打ちがついたわ。気をつけて」

「……彼はいったい何者なのです? 万が一、我が主の障害になるようなら、排除を――」

「その必要はないわ!」


 強い口調が、仙足坊の台詞を遮る。冷静になった彼女は、バツが悪そうにそっぽを向いた。


「あれはただの囲碁バカよ。囲碁の間合いにさえ入らなければ無害だから、放っておいて。あんたたちには、土御門の片眼鏡だってあるでしょ?」

「……注文の多い方だ。ではそういうことにして、せいぜい戸締りを強化しておくことにしましょうか。なに、問題はないでしょう。今回の漆羽様の結界は、それこそ神話級ですからね」

「……元気? 漆羽様は」


 おずおずと尋ねる雪花に向けて、仙足坊はすぐさま不敵な笑みを返した。


「ええ計画は至って順調。我が主は絶好調ですよ!」

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