『神と巫女』
神社に戻った
本殿の扉を開けると、建物の大きさ以上の空間が広がる。一礼して上がり込み、奥の暗がりに向かって呼びかける。
「おはようございます、我が主よ」
返ってきたのは重々しいしゃがれ声だった。
「仙足坊よ、どこへ行っていた」
同時に仙足坊の背後で、ひとりでに扉が閉じた。暗がりの中、手前から次々と鬼火が出現していく。おぼろげな灯りの中、歪な角を生やした鳥の頭蓋骨が浮かび上がった。仙足坊は恭しく頭を下げる。
「山に近づく人間がいたので、哨戒に。もうしばらくしたら、貴方の力になりそうな獲物を狩りに行こうかと思っております。ご自身でもお気づきとは思いますが、ここに来て力の成長が鈍ってきているように見受けられます。このままでは計画に支障が――」
「
「は?」
仙足坊は訝しんで、思わず声をあげた。
「貴方が山を追い出したのでしょう。お忘れですか」
漆羽鬼神はわずかな沈黙の間、ぼんやりと
「……。ああ、そうだったか」
「我が主?」
漆羽鬼神は苛立たしげに頭を振り、唸り声をあげた。
「なんでもない」
無論、なんでもないはずはない。実は漆羽鬼神は今、非常に不安定な状態にあるのだ。
神という存在には
しかし時と共に信仰は薄れ、漆羽鬼神は今、神とも妖ともつかない曖昧な存在になりかけている。それによって荒魂と和魂のバランスが崩れているのだ。力が伸び悩んでいるのも、そのせいだろう。
「ですが、数週間前まではここまで酷くなかったはずです。こうなってしまった原因は、やはり……彼女の追放」
雪花は半分雪女だが、もう半分は人間だ。そんな彼女が神社に通い漆羽鬼神に尽くすことが、事実上の祭祀として機能していたのだ。祭祀さえされていれば、神は神として、最低限の格を保つことができる。にもかかわらず漆羽鬼神は、雪花という巫女を追い出してしまった。それによって、いよいよ最後のブレーキが無くなってしまったのだ。
「……深刻な巫女欠乏症ですな。彼女を呼び戻しましょう。あの娘もきっと喜びます」
「ならん!」
その瞬間、漆羽鬼神の邪気が爆発した。押し寄せるプレッシャーが、仙足坊をふらつかせる。
「……わ、我が主よ。くれぐれも癇癪などおこされませぬよう! まだ計画の進行段階でございます。ここで騒ぎをおこせば、落ちぶれた
「……ぬうう!」
「なによりこの本殿を吹っ飛ばしてしまったら、直してくれる者がいないのですよ! まさかこの拙僧にDIYをさせるおつもりか!」
漆羽鬼神は長い息を吐き、理性の手綱を握り直した。頭を振りながら、仙足坊に語り掛ける。
「……すまぬ。いつも面倒をかけるな、仙足坊」
「なにを今更。部下として、友として、貴方を支えることが拙僧の使命です」
漆羽鬼神は仙足坊と向き合った。そして憂いを帯びた声で語り掛ける。
「吾輩を憎むもの。慕うもの。すべて吾輩の元から去った。それでも最後に残るのは、やはりおまえなのだな。……おまえがいなければ、とうに終わっていた。大いなる計画を進めることもできず……」
「おっと。感謝の言葉でしたら、あの領域を手に収め、真の野望を遂げられたその時に、改めて聞かせていただきます。ですから我が主。今はただ、自分を見失うことのないよう、気を確かに持つのです」
漆羽鬼神は落ち着くため、足元にある物を撫でた。木でできた台だ。その上面には、かすれた線が縦横に十九本ずつ刻まれている。そう、碁盤だ。厚さはないが、板を組み合わせた枠のような足がついていた。かなりの年季ものだ。
「ふう……。仙足坊よ。狩りはもういい。それよりも、囲碁をやるぞ。久々に相手をしろ」
「
漆羽鬼神はその大きな爪で器用に石をつまむと、嘆息するようにそれを見つめた。
「囲碁はいい。石を持っている時だけは、心が落ち着く」
「では新しい碁盤など、ご用意しましょうか。このような盤では、なにかと不便でしょう」
実際、線がかすれて見えないため、石を置くのに不便だ。しかし漆羽鬼神は喉の奥で笑う。
「いいや、これでいい。これは曰くつきの品でな。昔々、旅の坊主が運んでいたところを、賤しい盗人が襲って奪いとったものだ。その時の坊主の血のシミが、今も残っておるのよ」
「それはなんとも趣味のよろしいことで」
「その後、この碁盤は稀代の碁打ちに使われ、幾多の名勝負を見届けた。その記憶が、染みついた一品というわけだ。くれぐれも大事にしろ」
しかしその直後、漆羽鬼神が石を置いた瞬間、碁盤はまっぷたつに割れてしまった。漆羽鬼神が力加減を誤ったのだ。滑り落ちた石がカラカラと床で揺れる。
肌を刺す静寂の中、仙足坊は恐る恐る視線を上げた。わなわなと漆羽鬼神が震えている。
「わ、我が主。くれぐれも癇癪などおこされませんよう。くれぐれも……」
「うおおおおおおおおおお!」
「我が主ーっ!」
一秒後、荒れ狂う漆羽鬼神のパワーによって、本殿の屋根が木っ端みじんに吹き飛ばされた。
その夜、屋根の修理をしながら仙足坊は確信した。このままでは、漆羽鬼神の計画は遠からず頓挫する。予定外の回り道にはなるが、まずは巫女を選定し直さなくては。
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