『神と巫女』

 神社に戻った仙足坊せんそくぼうは、石畳に降り立つなり、口をへの字に曲げた。周囲の木が二、三本、無造作に引き倒されている。間違いなく、漆羽うるしば鬼神の仕業だ。


 本殿の扉を開けると、建物の大きさ以上の空間が広がる。一礼して上がり込み、奥の暗がりに向かって呼びかける。


「おはようございます、我が主よ」


 返ってきたのは重々しいしゃがれ声だった。


「仙足坊よ、どこへ行っていた」


 同時に仙足坊の背後で、ひとりでに扉が閉じた。暗がりの中、手前から次々と鬼火が出現していく。おぼろげな灯りの中、歪な角を生やした鳥の頭蓋骨が浮かび上がった。仙足坊は恭しく頭を下げる。


「山に近づく人間がいたので、哨戒に。もうしばらくしたら、貴方の力になりそうな獲物を狩りに行こうかと思っております。ご自身でもお気づきとは思いますが、ここに来て力の成長が鈍ってきているように見受けられます。このままでは計画に支障が――」

雪花せっかはどうした」

「は?」


 仙足坊は訝しんで、思わず声をあげた。


「貴方が山を追い出したのでしょう。お忘れですか」


 漆羽鬼神はわずかな沈黙の間、ぼんやりとくちばしを彷徨わせた。


「……。ああ、そうだったか」

「我が主?」


 漆羽鬼神は苛立たしげに頭を振り、唸り声をあげた。


「なんでもない」


 無論、なんでもないはずはない。実は漆羽鬼神は今、非常に不安定な状態にあるのだ。


 神という存在には荒魂あらみたま和魂にぎみたまという、二つの側面がある。ざっくばらんに言うと、外側に表れる暴力的な性質と、内に備える温情の性質だ。もともと漆羽鬼神は、目に映るものすべてを無差別に破壊して回っていた危険な妖にすぎない。それが土地の守護神として祀られたことで、欠けていた和魂を補強され、理性的な性格に落ち着いたのだ。


 しかし時と共に信仰は薄れ、漆羽鬼神は今、神とも妖ともつかない曖昧な存在になりかけている。それによって荒魂と和魂のバランスが崩れているのだ。力が伸び悩んでいるのも、そのせいだろう。


「ですが、数週間前まではここまで酷くなかったはずです。こうなってしまった原因は、やはり……彼女の追放」


 雪花は半分雪女だが、もう半分は人間だ。そんな彼女が神社に通い漆羽鬼神に尽くすことが、事実上の祭祀として機能していたのだ。祭祀さえされていれば、神は神として、最低限の格を保つことができる。にもかかわらず漆羽鬼神は、雪花という巫女を追い出してしまった。それによって、いよいよ最後のブレーキが無くなってしまったのだ。


「……深刻な巫女欠乏症ですな。彼女を呼び戻しましょう。あの娘もきっと喜びます」

「ならん!」 


 その瞬間、漆羽鬼神の邪気が爆発した。押し寄せるプレッシャーが、仙足坊をふらつかせる。


「……わ、我が主よ。くれぐれも癇癪などおこされませぬよう! まだ計画の進行段階でございます。ここで騒ぎをおこせば、落ちぶれた土御門つちみかどだけでなく、全国津々浦々の専門家を呼び寄せてしまう!」

「……ぬうう!」

「なによりこの本殿を吹っ飛ばしてしまったら、直してくれる者がいないのですよ! まさかこの拙僧にDIYをさせるおつもりか!」


 漆羽鬼神は長い息を吐き、理性の手綱を握り直した。頭を振りながら、仙足坊に語り掛ける。


「……すまぬ。いつも面倒をかけるな、仙足坊」

「なにを今更。部下として、友として、貴方を支えることが拙僧の使命です」


 漆羽鬼神は仙足坊と向き合った。そして憂いを帯びた声で語り掛ける。


「吾輩を憎むもの。慕うもの。すべて吾輩の元から去った。それでも最後に残るのは、やはりおまえなのだな。……おまえがいなければ、とうに終わっていた。大いなる計画を進めることもできず……」

「おっと。感謝の言葉でしたら、あの領域を手に収め、真の野望を遂げられたその時に、改めて聞かせていただきます。ですから我が主。今はただ、自分を見失うことのないよう、気を確かに持つのです」


 漆羽鬼神は落ち着くため、足元にある物を撫でた。木でできた台だ。その上面には、かすれた線が縦横に十九本ずつ刻まれている。そう、碁盤だ。厚さはないが、板を組み合わせた枠のような足がついていた。かなりの年季ものだ。かどは欠け、全体的に薄汚れている。


「ふう……。仙足坊よ。狩りはもういい。それよりも、囲碁をやるぞ。久々に相手をしろ」

置き石ハンデをいただけるのであれば」


 漆羽鬼神はその大きな爪で器用に石をつまむと、嘆息するようにそれを見つめた。


「囲碁はいい。石を持っている時だけは、心が落ち着く」

「では新しい碁盤など、ご用意しましょうか。このような盤では、なにかと不便でしょう」


 実際、線がかすれて見えないため、石を置くのに不便だ。しかし漆羽鬼神は喉の奥で笑う。


「いいや、これでいい。これは曰くつきの品でな。昔々、旅の坊主が運んでいたところを、賤しい盗人が襲って奪いとったものだ。その時の坊主の血のシミが、今も残っておるのよ」

「それはなんとも趣味のよろしいことで」

「その後、この碁盤は稀代の碁打ちに使われ、幾多の名勝負を見届けた。その記憶が、染みついた一品というわけだ。くれぐれも大事にしろ」


 しかしその直後、漆羽鬼神が石を置いた瞬間、碁盤はまっぷたつに割れてしまった。漆羽鬼神が力加減を誤ったのだ。滑り落ちた石がカラカラと床で揺れる。


 肌を刺す静寂の中、仙足坊は恐る恐る視線を上げた。わなわなと漆羽鬼神が震えている。


「わ、我が主。くれぐれも癇癪などおこされませんよう。くれぐれも……」

「うおおおおおおおおおお!」

「我が主ーっ!」


 一秒後、荒れ狂う漆羽鬼神のパワーによって、本殿の屋根が木っ端みじんに吹き飛ばされた。


 その夜、屋根の修理をしながら仙足坊は確信した。このままでは、漆羽鬼神の計画は遠からず頓挫する。予定外の回り道にはなるが、まずは巫女を選定し直さなくては。

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