千年●○(モノクローム)

空一海

本編

『千年爛柯(らんか)棋譚(きたん)』

 むかしむかし、とある山の中。遭難して死にかけている一人の若者がいた。


 歳は十五、名は鷺若丸さぎわかまる。貴き家の生まれだが、今は行儀見習いとして、坂東ばんどうの寺に預けられている。彼はしばしば、こっそりと寺を抜け出しては山を下っていたのだが、この日はお目付け役の僧に見つかってしまった。その追跡を逃れるべく道を外れたのがよくなかった。茂みを抜けた先で突如として地面が無くなり、急斜面を滑落してしまったのだ。


 したたか頭を打ち、足をくじいた。一本にまとめた長い黒髪には落ち葉が絡まり、面は滴る血で真っ赤に染まった。水干すいかんもあちこちの草木に引っかけ、ずたずた。酷い有様だ。


 拾った木のえだを杖にして下山を再開したものの、追い打ちをかけるように雨が降ってきた。体温が奪われていく。厚い雲で分かりづらいが、夜も近い。もはや自分がどちらの方角に向かっているかも分からなくなっていた。


「……うぎゃっ!」


 ぬかるむ地面に足を取られ、肩から地面に突っ込む。蓄積した疲労が、身体を蝕んでいた。泥の中でピクリともできない。いよいよ進退窮まった。


「もう駄目だぁ、我はここで死ぬんだぁ……!」


 そんな泣き言を吐いた直後だった。


 涼しげでよく響く、硬質な音が耳に届いた。丸い石が、平らな木を叩く音だ。なによりも聴き慣れたその音に、鷺若丸は「はっ……!?」と跳ね起きた。杖を掴みとり、もがくように立ち上がる。


 妖しげな霧をかき分け、音の方へ、音の方へ。頭上を覆う巨人のような木々は、次第に数を増していく。にもかかわらず、辺りはどんどん明るく


 なっていく。雨もすっか


 り止んで――


 ふいに、視界が開ける。そこには何人もの童子たちがいて、四角い木の台を囲んでいた。台の上面には、縦横に十九本ずつの線が刻まれている。その線上には無数のくろいいししろいいしが並び、複雑に入り乱れていた。あれこそは鷺若丸がこの世で最も愛する盤上遊戯――


「ぃぃぃ囲碁ではないかぁ!」


 あくまでも小声で。対局中の大声は、失礼にあたる。


 鷺若丸は杖を地面に突き立て、童子たちに駆け寄った。盤面を覗き込む。白熱の戦況だ。


 そして一目見ただけで分かった。盤面に向かい合っている二人の童子は、自分よりもはるかに上手うわてだ。


 彼らの繰り広げる、知性を尽くした手の応酬。その打ち回しは、鷺若丸が今までに見たことのないものだった。これまで培ってきた囲碁観が、木っ端微塵に粉砕されるほどの衝撃だ。見ているだけでも全身の血液が煮え滾り、脳の回転が止まらなくなる。


「……! ……! ……!」


 夢中で対局に見入っていた。一局が終われば、また次の一局が始まる。それが終わればまた次の一局が。一局、一局、さらに一局、また一局……。そのすべてが革命的。そのすべてが面白い。


 腹が減ったら、童子たちが分けてくれるザクロの実を食べながら、対局を見守った。


 空きが出来たら、自分にも打たせてくれと手を挙げた。


 至福の時間だった。高濃度の囲碁に満たされて、夢のような心地だ。


 童子たちが尋ねる。


――君は誰? どこから来たの?

(我は鷺若丸。森で迷っていたらここに来たのだ)

――君も囲碁が好きなんだね。それとも囲碁以外が嫌いなの?

(この世は生きづらい……。でも我は囲碁さえあれば大丈夫だ)

――君は一手ごとに強くなるね。君ならもしかすると、〈囲碁のきわみ〉に辿り着けるかも?

(……我が?)


 囲碁の道の果てにある、誰も辿り着いたことのない未踏の領域――〈囲碁の極〉。なんと心躍る響きだろう。鷺若丸も一人の囲碁好きとして、その境地に至ることを切望して止まない。


(いいじゃないか。我が先にそこへと辿り着いたら、きっとは泣いて悔しがるぞ!)


 鷺若丸の頭に浮かんでいたのは、終生の宿敵と認めた、ある一人の少年の姿だった。同年代の彼とはこれまで九百九十九局打って、五百勝、四百九十九敗。勝敗の差が二つ以上離れたためしはなく、棋力きりょくは拮抗していた。


 そもそも今日、山を下りようとしたのも、彼と千局目の大一番をする約束があるからだ。今度こそ連勝し、力の差を見せつけなければいけないのだ。


「……そう! そうだった! 我はなんてことを忘れていたんだ!」


 この場所の空気にあてられたせいか、すっかり頭から抜け落ちていた。


 帰らなくては! 鷺若丸は慌てて振り返る。


 そして、その光景に目を疑った。


 地面に突き立てた木のえだの杖が、すっかりくさり果てていた。


   ○


 童子たちに帰りたい旨を伝えると、残念そうにしながらも、快く送り出してくれた。


――〈囲碁の極〉に辿り着いたら、また遊びにおいで。


 鷺若丸は、道案内を引き受けてくれた童子と山を下りた。


 ちょっとはマシになったが、頭と足の怪我は相変わらず痛む。代わりの杖もない。それでも必死に、童子の背を追った。来た時と同じように、帰りの道も


 どこをどう進んでいるの


 か分からな――


 気付けば、墨色の道の上にいた。足元を見て目を疑う。見たこともない材質でできていた。まるで砂利をカチカチに踏み固めたかのようだ。時折かすれた白い線が、記号や縞模様を作っている。妙だ。とにかく、妙だ。


「なあ。本当に道はあっているのか?」


 不安にかられて問いかける。だが視線をどれだけ巡らせても、童子の姿がない。


「……道案内はここまでか」


 胸騒ぎがする。なにか取り返しのつかないことが起きているのではないか。そんな予感に駆られて、引きずる足が速くなっていく。


 見たこともない奇妙なものが、次々視界へ飛び込んできた。精巧な絵や知らない文字が詰まった、硬そうな板。彩り豊かな三角屋根。見上げるほどの石の橋と、その上を轟音と共に駆け抜けていく筒状の物体。


「な、なんなのだ? なんなのだ、これは……?」


 童子たちの森も異様な空間だったが、ここはそことも雰囲気が違っている。むしろ底が抜けたような青い空や、山々の稜線、そしてそれを背景に広がる田畑は、見知った景色に近しい。


 鷺若丸の脳裏をよぎったのは、すっかり朽ちてしまった杖の姿だった。


「まさか……」

「危ない!」


 突然、耳をつんざく警告音を発して、大きな四角い塊が突っ込んできた。同時に、誰かの手で道の端へと引き倒される。すぐ脇を走り抜けていく塊には、四つの車輪らしきものが見えた。


 塊が去り、鷺若丸を引き倒した者が、泡を食ったように後ずさりする。


「あわわわ。申し訳ありません、要らぬお世話だったでしょうか。危ない動画の撮影か、迷惑な度胸試しかもとは思ったのですが、もし本当にただ車に轢かれかけているだけでしたら大変なので、って、きゃああー! その血は? その怪我は!? まさかわたくしのせいで?」


 若い女だった。鮮烈な桜色の髪は、フワフワと大きく波打っている。こんな髪は見たことがない。服装も斬新だ。装飾が多く、太ももは大胆に露出している。しかし清潔でしっかりした布が使われていることは、一目でわかった。農民の格好ではなさそうだ。


 鷺若丸は彼女の肩を掴む。うつむきがちな少女は、不意を突かれて跳び上がった。


「ひいっ!?」

「教えてくれ。今は誰の世だ? 我はいったい、どれだけ山にいたのだ!?」


 しかし悲しいかな、鷺若丸の言葉はほとんど通じていなかった。それは鷺若丸の話す日本語と、少女の知っている日本語が、違う時代のものだったからだ。同じ日本語でも、時代が違えば発音も言葉も変化する。今の簡単な質問でさえ、少女の耳には、まったく意味不明な音にしか聞こえなかったのだ。


「ソ、ソーリー! わ、わわ、ワタァクシ、日本語シカ、ワッカリマセーン! ですわ!」

「……?」

「ワッカリーマセーン! ですわ! ひえぇ!」

「……? ……?」


 コミュニケーションは、なかなか成立しない。鷺若丸が欲した答えを得るには、まだまだ時間がかかりそうだ。ここはひとまず、混乱の渦中で泡を食っている少女に代わって、先に結論を述べてしまおう。


 そう、ここは令和の世。鷺若丸の生まれた平安の世から千年を隔てた、遠い時代だ。


 平安の世から、令和の世へ。鷺若丸はこの時代に存在するはずのない一手として、打ち下ろされたのだ。


 この奇手により、時の河は大きく流れを変え始める。いくつもの運命が歪み、同時に新たな未来が生み出された。光と闇は入り乱れ、混沌の局面を迎える。その果てに待つ終局が、黒に染まるか、白に染まるか……。


 鷺若丸はもちろん、やがて彼と縁を紡ぐ三人の少女たちさえ、知る由はない。

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