壱:純白

『桜谷敷ステラの望み』

 都心から離れた、山と田畑の町、本居もとい。その平野に鎮座する丘陵の上に、伊那いな高等学校のコンクリート校舎群は展開している。都会の喧騒から切り離された学校だが、その中でも数学棟一階、廊下のつきあたりは特に静かな空間の一つだ。


 照明は切れていて、光源は一面のガラス窓から差し込む外光のみ。教材室の前ということもあり、収まりきらなかった机や椅子、ホワイトボードといった備品があちこちに居座っている。ベンチが常設されているものの、とうてい人が寄り付く空間ではない。


 しかし、そんなこの場所こそが、囲碁部に与えられた活動場所だった。


 部長にして、唯一の部員である二年生、桜谷敷さくらやしきステラはいつもここで、碁盤を広げている。他の部員はいないので、会話もない。黙って座って、孤独に碁盤と向き合っているだけ。目が覚めるような鮮烈な桜色の髪も、薄暗さに負けてくすんでしまう。


 しかし四月もそろそろ終わろうかというこの頃、囲碁部には小さな変化が起きていた。とある人物が頻繁に顔を出すようになっていたのだ。


「待たせたな、ステラ殿!」


 訛りが抜けきらないような独特のイントネーションに、ステラの顔がパッと明るくなる。振り返った先にいたのは、派手なアロハシャツの少年だった。長い黒髪を後ろに束ね、尖ったセンスの星形サングラスを輝かせている。両手のコンビニ袋は、菓子パンや飲料水でパンパンだ。


鷺若丸さぎわかまるさま!」


 なにを隠そう、彼こそ平安の世から千年の時を超え、現代へと迷い込んだ、あの少年――鷺若丸だった。この時代に来てまだ三週間だが、彼は早くも現代の言葉に適応し始めていた。


「見てくれ。不思議な食べ物と……、飲み物が、たくさん!」

「まあ大変ですわ、そんなにいっぱい。お、お金は足りましたか?」

「ステラ殿よりいただいた札を渡したら、れをもらえた! すわ!」


 じゃらじゃらと大量の小銭を差し出され、ステラは苦笑いした。


「そ、それはお釣りであって、別に儲かったわけでは……。いえでも、喜んでいるみたいですし、無粋なことは言わない方がいい? で、でも、今後を考えるとちゃんと教えた方が?」


 サングラスを外した鷺若丸は、品物を次々に広げ始める。きらきらと目を輝かせる様は、さぎと言うより柴犬を思わせた。


「ステラ殿への贈り物を手に入れてきた。いざ、これを!」


 そう言って彼が取り出したのは、眩しい金色の液体が詰まったボトルだった。


「いかがか? この美しき色! 多分けだし、良き茶だ」

「え、いや、ですが……」

「ステラ殿には恩がある。れを……返し、返し、えっと、返したい、のだ」


 三週間前のあの日、車に接触しかけていた鷺若丸を救ったのは、ステラだった。その後、鷺若丸の事情を知った彼女は、彼の生活を支援すると申し出た。今現在、彼が着ているアロハシャツやサングラスなどは、すべて彼女が用意したものだ。夜もこっそりと家に上げて、雨風を凌がせている。この時代の言語や文化も、厳しくレッスン中だ。


 要するに、右も左も分からない令和の世で、鷺若丸が今こうして笑っていられるのは、すべて彼女のお陰なのだ。女神と呼んでも差し支えない大恩人だ。


 しかしそのステラは差し出されたボトルを前に、ぐるぐると目を回す。


「えっと、それは、サラダオイル。油ですわ」

「油……松明に使う?」

「お料理に使う油です」

「ステラ殿は、さらだおいる……では嬉しくない?」

「……お気持ちだけ」


 鷺若丸はボトルを握りしめながら、悔しがる。ステラは慌ててフォローした。


「恩とかお礼とか、気になさらないでください。わたくしが好きでやってる事ですし。それに、鷺若丸さまには囲碁の指南をつけてもらっていますから!」


 どういう縁の思し召しか、ステラも鷺若丸も碁打ちだった。鷺若丸が自分を上回る打ち手と知ったステラは、支援の対価として囲碁の指南をつけてもらっている。だから鷺若丸が後ろめたく思う必要はない、というのがステラの意見……なのだが、鷺若丸は納得していない。


「我はステラ殿から、多くを授かりけり……授か、授かった。言葉も。衣も。食べ物も。この前に教えてくれた、ぴっつぁ……なるものは頬が落ちた。よもや、斯様かような食べ物が世にあるとは。容易く返せる恩とは思うておらぬ。もっと礼が、したい! なにか望みは? あらずや?」

「それは……。まあ。望みくらい、わたくしにも、ありますけど……」

「其れ!」


 鷺若丸がぐっと距離を詰めた。輝く瞳が真っすぐにステラを見つめている。


「教えてくれ、ステラ殿。そなたの望みを!」


 無邪気な圧力に、ステラは仰け反った。もじもじと指先を合わせる。


「じょ、女子の団体戦で、全国大会に行くこと……です」

「だんたいせん? たいかい?」

「えっと、三人一組になってやる、学校同士の対抗戦で……仲間たちと横並びに囲碁を打つんです。別に、それぞれの対局に口を出し合うわけではありません。でも! そこに仲間がいて一緒に戦っている。ただそれだけのことが、囲碁をより楽しくしてくれるんだそうです。なにより、仲間と勝ち取る勝利は、格別だとか。わたくし、それを味わってみたくて……!」


 今までずっと気弱そうにしていた彼女が、嘘のように饒舌になった。ボディランゲージまで交え、夢中で語っている。窓から差し込む穏やかな明かりは、彼女の横顔を淡く照らした。


「実は去年からずっと温めてきた計画なんです! 今年こそチームを組んで、大会に出てみたい。それが今のわたくしの望み。でも……」


 ふいに彼女の顔に影が差す。


「大会出場どころか、部員も集まらなくって……。もう新学期が始まって二週間なので、勧誘期間もおしまいなんです。数日中にあと二人の部員を集めないと、囲碁部は解散です」


 去年までいた部員たちは皆、卒業してしまっていた。その分の部員は、新入生から確保しなければならないのだが……、彼女の勧誘の成果がどんなものだったかは、このうら寂しい空間がすべて物語っている。


 新入生の印象に残ろうと、黒かった髪を桜色に染めてまで挑んだ部活動ガイダンスは、盛大に滑り倒して大失敗。その夜、枕を濡らした記憶は、まだカサブタにもなっていない。ビラは印刷したうちの半分も受け取ってもらえず、人の手に渡った半分の方もゴミ箱の肥やしになるか、ポイ捨てされ、春の雨で地面のシミになるばかりだった。


「だから本当は、大会どころじゃないんです。……まあ仕方ないです。わたくしがうまくやれなかったことですから。そういうことなので……」

「あい分かったッ!」


 突然、鷺若丸が大声をあげた。彼はサラダ油を突き付ける。


「すなわち、あと二人、おれば良いのだな? そうだな?」

「え、いや、でも……」

「我に任せよ! 必ずやそなたを、だんたいせん?……に出してやる!」


 勢いに押され、曖昧に頷くステラ。そんな彼女に、鷺若丸は不敵な笑みで胸を張るのだった。


   ○


 二人がそんなやり取りをしていた時、一人の生徒が数学棟の前を通りかかっていた。小さな身体で、大きなボストンバッグを重そうに抱えた少女だ。


 彼女は一瞬、数学棟廊下端の窓に目をやり、歩調を緩めた。その手元から、声がする。


「どうかしたかえ?」


 妖艶な、大人の女の声だ。しかしどういうわけかそれは、バッグにぶら下げてある狐のぬいぐるみから聞こえてくるようだった。


 声の主は、少女の視線の先に気が付いた。


「ああ~、なるほど。あれに見えるは、なんにも知らん小童どもの部活動というやつじゃのう。ふん。あんなものはとは無縁のものじゃ。関わる必要などないぞ」

「……ええ、分かってる。早く仕事の準備に行きましょう」


 女子生徒は視線を前方に戻すと、足早にその場を去っていった。

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