『ルール講座Ⅱ』

 例えば盤上にポツンと一だけの白石があったとしよう。そこからのびている四方向の路をすべて黒石にふさがれると、さながら窒息するかのようにその白石は死に、盤上から隔離される。敵に囲まれた石は消えてしまうのだ。


 だから、なるべく自分の石を守り、同時に相手の石を脅かしながら立ち回る。それが囲碁の基本戦略となってくる。強い打ち手は、これを徹底する。


 それをよく知るステラは、大いに困惑していた。


 今、彼女の碁笥ごけの蓋には、彼女の殺した大量の白石が置かれている。白石は、後手番を引いた天涅あまねの石だ。


 では天涅の碁笥ごけの蓋はどうかと言うと、こちらは完全に空っぽだった。ステラだけが一方的に相手の石を虐殺しているのだ。


 今もまた、ステラの手によって、新たな白石が包囲された。今度は複数の石が一気に消し飛ぶ。


 盤上に残された白石の中には、既に死に体のものも多い。その気になればいつでもとどめを刺せるので、敢えて放っておかれている状態だ。


 ここまでくると、ワンサイドゲームという他ない。戦況はどこからどう見てもステラ有利だ。


(おかしいですわ。この囲碁はあまりにも……あまりにも酷すぎる――)


 敵の石を獲るのは楽しい。それが強い碁打ちの石なら、尚のこと喜びは大きい。しかし予想外の勝勢を前に、ステラは狼狽えずにいられない。


(この前、鷺若丸さぎわかまるさまに見せてもらった一局……負けてしまったとは言え、土御門つちみかどさまの打ち回しは見事な物でした。あれは間違いなく強者の囲碁!)


 物心ついた時から囲碁界隈にいるステラでさえ名前を聞いたことは一度もないが、天涅がただ者でないことはすぐに分かった。囲碁で妖怪を退治するくらいだから、きっと表の舞台には出てこない、影の棋士なのだろう。無名の強者というやつに違いない。


(そう思っていたのに……)


 彼女の期待と妄想は、今、この対局の中で跡形もなく崩壊しようとしていた。


(いくらなんでも……弱すぎますわ!)


 天涅の手は精細さを欠き、守りも甘い。時折、鋭い手を打ったかと思えば、次の瞬間にはそのすべてを台無しにして撃沈してしまう。その繰り返しだ。


 一手一手の読みが一貫しない打ち筋は、まさに千鳥足。結果、ステラのいいように振り回され続けている。ステラの実力はアマチュア八段。アマチュアとしては最高峰だが、プロ九段には遠く及ばないはずだ。


(手を抜かれている? いえ、手加減にしても酷すぎます……。でも、それなら、これは……いったい?)


 入門指導の隙をついて、鷺若丸が様子を見に来た。彼もまた、盤面を見て眉をひそめる。ステラと鷺若丸の視線が合った。お互いに、なにかがおかしいと気付いていた。


 やがて、天涅の手がピタリと止まる。盤面はもう惨憺たる有様だった。彼女は光のない瞳を前髪の奥に隠し、じっとなにかを考えている。やがて引き結んだ口を開いて、短く宣言した。


「ありません」


 投了だ。もはや勝ち目はないとみて、諦めたのだ。


 彼女は手早く、自分の碁石を片付けてしまう。閉じられた碁笥ごけの蓋が、「二局目はない」と言っていた。彼女はボストンバッグを拾い上げ、素早く席を立つ。


「申し訳ないけど、家の用事があるから、ここで退席する」

「ちょっと待って、土御門さま! 今の一局は、いったい……あ、ちょっ、待っ。あ、ありがとうござい、まし、た……」


 対局終了の挨拶も最後まで聞かず、天涅は足早に去って行っていってしまう。ステラが引き留める間もなかった。


 鷺若丸が動く。


「話を聞いてくる!」


 慌ただしく去っていくその背中を見送り、ステラはがっかりと肩を落とす。


「……お昼ご飯の食べ過ぎで、お腹が痛かったのでしょうか?」

「いーや、片眼鏡がなかったからでしょ」


 そう答えたのは雪花せっかだ。彼女は鷺若丸やステラを真似て、人差し指と中指で格好良く石をつまもうとしているところだった。慣れない指使いに失敗しながらも、彼女は意地悪く口の端を吊り上げる。


「あはは、なーんだ。土御門の寵児も、道具がなけりゃ、そんなもんってわけね」

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