『覚醒』
取り返しのつかない重要な場面でこそ、焦りは禁物だ。ステラは大きく呼吸し、はやる気持ちを落ち着かせる。
これは囲碁部の皆が繋いでくれた奇跡の大将戦なのだ。
そうして彼女が選んだゆっくりとした盤面進行に、対面のシノブは少なからず戸惑った。
相手の石を見境なく牙にかけ、徹底的に破壊して回る、超攻撃的な棋風の持ち主。その石の運びはまさしく、虐殺を楽しむ『怪物』そのもの。……そんな噂を、シノブは耳にしていた。
ならばこの盤面はどういうことか。石の打ち回しは巧みだし、着実に主導権を取ってくる。それでも、聞いていたような過激さは影も形も見えてこない。実に理性的な手つきだ。
そもそもが、過剰に装飾された噂話に過ぎなかったのか? あるいは、積もる歳月が『怪物』から牙を抜いたのか?
(いや、違う……、そうじゃない!)
シノブは盤上の石から漂う、不穏な気配を感じ取っていた。これは嵐の前の静けさに過ぎない。今、ステラは自らの石の間合いをはかっているのだ。長い眠りから目覚めた獣が、身体の動きを確かめるかのように。
(来る!)
直後、放たれたステラの一手が、推測を確信に変える。
シノブの確保した領域へ、ステラの白石が急接近してきたのだ。その一手から放たれた声を、シノブはハッキリ聴き取った。
――ア・ソ・ビ・マ・ショ?
これは誘いだ。大胆にも隙を晒して、シノブの反撃を引き出そうとしている。だが迂闊に手を出せばどうなるか……。シノブには、誘いの奥にある無数の牙、無数の爪が見えていた。
(見境のない破壊? 虐殺を楽しむ『怪物』? まさか!……もっと厄介じゃないか!)
お互いがなんとしてもつかみ取りたい勝利を餌に、シノブが動き出すのを待っている。そこに襲い掛かって、シノブの全力をねじ伏せようというのだ。
駆け引きの価値を知り、より狡猾で底知れなくなった『怪物』がそこにいた。
「……ふっ」
シノブは拳で頬の汗をぬぐう。
(上等だ!)
持ち時間はまだまだ残されているが、長考はしなかった。誘いの手を取り、即座に安全圏の外に踏み出す。
――ここで逃げたら粋じゃない。付き合ってあげようじゃないか!
○
様々な背景を持つ碁打ちがいた。彼ら、彼女らは、それぞれの想いを胸に秘め、十九路の戦場に石を投じる。盤上で知性と魂の糸が絡まり合い、曼陀羅のように一つの対局を編み上げていく。この世に同じ対局は二つとない。一局一局が唯一無二だ。袖振り合うも他生の縁。石を交えたなら、それはもう運命だ。運命はいずれまた別の運命へと繋がり、その先にあるさらにまた別の運命を招き寄せていく。
それはプロ棋士でもなんでもない、ただのアマチュア同士の囲碁であっても同じことだ。壮大な運命の一部分を担う、ささやかな一局が今、儚い終局を迎えた。
「負けました」
頭を下げたのは、
熾烈な戦いだった。互いに互いの石を殺し合う、激しい展開。どちらが先に壊れてもおかしくない薄氷の攻防。その末に、天涅の一撃が先に敵の心臓を刺し貫いた。
勝敗を分けた要因に、【
彼女は、この結末が自分の招いた落ち度だと理解していた。悔いはある。しかし不思議と気持ちは前向きだった。右目は開かないが、心の目が開いたような心地だ。
天涅といのりは視線を結ぶと、共に頭を下げ、その一局に幕を引いた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
天涅はなにより先に、隣の盤を確かめる。
三将戦は直前に終局し、石を片付けているところだった。囲碁を覚えて一か月の身でありながら、雪花は大健闘した。それでも、結果は中押し負け。埋めがたい実力差を前に、自ら敗北を認めるしかなかった。
これでチームは一勝一敗。勝負の行く末は、大将戦に委ねられた! しかし……
盤面を覗き込んだ天涅は、その形勢を読み解くことができなかった。そこで繰り広げられている応酬は、天涅レベルの「感覚」と「理論」では、とても理解が追い付かない領域に至っていたのだ。
局面は中盤戦。ステラの石が、シノブの石へ襲撃を掛けている真っ最中。まさしくここが天王山だ。
ステラは、一手たりとも妥協の手など選ばなかった。薄氷の上を駆け回り、死線の上で踊り続ける。何故これで石が破綻しないのか、対局を見にきた両校のメンバー全員が困惑した。
――あまり好き放題されては困るな!
シノブがステラの強引な攻めを咎める。当然の反撃だ。彼女とて、チームの大将を任されている一人の猛者。一方的な展開を弱腰で受け入れたりはしない。
(
しかし、ステラの眼光が線を引く。
――そう来てくれると思っていましたわ!
ステラは寸分の迷いなく、自らの石を切り捨てた。即座に攻撃のターゲットを切り変える。一連の攻防は、連続攻撃のための下準備に過ぎなかったのだ。すべては計算通りだった。
(わたくしだって伊那高チームの大将ですから! みなさまの前で、退くわけにはまいりません!)
攻めるステラ。抗うシノブ。互いの一手一手には高密度の意志がこもっていて、それが盤上で激しく
気付けばステラは、口元に笑みを浮かべていた。
ずっと待ち望んできた舞台で、ずっと待ち望んできた以上の囲碁を打っている。胸が弾んだ。
新しいステラは台風のように暴れまわり、有り余る力で盤面全体を掌握していく。進化した『怪物』の猛攻を前に、シノブは防衛線を下げるしかない。
(勝機が奪われていく! これ以上はまずい……!)
ここが土俵際と判断して、彼女は勝負に出た。
――なんとしても、ここで食い止める!
気合の乗った一手だ。一見、妙手のようにも見える。しかし、致命的な見落としを抱えていた。これは己の急所をカバーしきれていない失着だった。ステラが正しく応手した時点で、勝敗が決してしまう。
いよいよこの一局にも、終わりの時が訪れようとしていた。
「……ふう」
互いのメンバーが見守る中、ステラは小さく息を吐く。勝利への道がハッキリと見えた。この道を行けば伊那高チームの勝利が確定する。しかしそれは同時に、灰谷・聖導女子高の敗退が決まることも意味していた。彼女らは、次の大会への切符を失うことになる。
「……」
一方的に自分の快楽を貪っていた幼少期なら、一顧だにしなかったことだ。しかし院生に入り、勝負としての囲碁を知った瞬間から、彼女は恐怖を覚えてしまった。躊躇によって逃した勝機は、もはや数知れない。
(ですがそれは過去の話ですわ!)
鷺若丸と漆羽鬼神の一局が、彼女に覚悟をもたらした。
(わたくしはもう、勝つことを恐れない!)
勝って誰かを踏みつけにすることもあるだろう。傷つけることもあるだろう。しかしそれは、誰かの囲碁を奪うことではない。生きてさえいれば、敗者にだって未来はある。そこでその者がどんな囲碁を打つかは、運命しか知らないことだ。あるいはそれが千年先の未来に名局を産み、誰かの囲碁を、誰かの人生を変えることだってあるかもしれない。
だから勝敗以上に重要なのは、一つ一つの石に魂を込め、真摯に相手と戦うこと。それだけだ。それだけで、囲碁は多くの物をもたらしてくれる。仲間も、指南役も、楽しい時間も。鷺若丸の囲碁が、そう教えてくれた。恐れる必要なんてない。
「……!」
細くしなやかなステラの指が、勇ましく
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