捌:極彩

『急転直下』

 高校生囲碁大会、団体戦女子の部、埼玉県予選。


 雪花せっか天涅あまねの鍛錬の成果が試される、初めての実戦であり、ステラが自分の囲碁を取り戻すために待ち望んだ、再起の舞台だ。


 しかしその朝、七時の待ち合わせ時刻を過ぎても、鷺若丸さぎわかまるとステラは集合場所の駅前広場に姿を現さなかった。雪花と天涅が待ち続ける中、十分遅れで駆け込んできた鷺若丸は、血にまみれた必死の形相で叫んだ。


「大変だ! ステラ殿が……、ステラ殿が!」


   ○


 ステラは寝坊などしていなかった。身支度も、出発前にちゃんと済ませていた。それどころか寝ぐせでグチャグチャになっている鷺若丸の髪を、梳いてやる余裕さえあった。


「団体戦~、団体戦~、だ~んたいせ~ん♪」

「あだっ、ステラ殿! 痛い、もっと優しく! このままでは禿げる! 禿げてしまう!」

「ああっ、も、申し訳ありません。あれ? 櫛が絡まってしまいました。えいっ」

「ぎゃー!」

「あっ、鷺若丸さま、家の者に聞かれてしまいます。静かに!」


 ようやく解放されて涙を流す鷺若丸に、ステラが問いかける。


「そう言えば、鷺若丸さまは本日どうされるのですか?」


 今日の大会会場は、花ノ木はなのき国際高校だ。関係者以外立ち入り禁止になっていて、鷺若丸は入れない。


「その辺を散歩でもするかな」


 鷺若丸は一介の指南役にすぎない。指南役とは、道を示すだけの案内人。これから実際に戦うのは、ステラたち当人で、そこに指南役が介在する余地はない。代わりに、このひと月で教えたすべてが、彼女らの力になるだろう。やや寂しくはあるが、指南役の仕事はもう終わっているのだ。


「取り戻せるといいな、楽しい囲碁を」

「そのことなんですが……実はとっくに取り戻せてるんです」


 ステラははにかんだ。


「えへへ、鷺若丸さまと会って、最初に囲碁を打った時からです。毎晩、寝る前に打つ囲碁も、囲碁部で銀木しろきさまや土御門つちみかどさまに教える囲碁も、全部楽しくて。今はこの夢のような時間が、一秒でも長く続いてほしいんです。だから、今日は負けられません!」

「ふ。応援している!」


 鷺若丸は笑顔を残して、バルコニーのロープを伝い降りた。


 不吉な風が舞い込んできたのは、まさにその直後だった。目にも留まらぬ速さで急降下してきた仙足坊せんそくぼうが、バルコニーの手すりに降り立ったのだ。


「突然で申し訳ありませんが、貴女には大会を辞退していただきます」

「……!?」


 急展開に硬直するステラを、仙足坊が両手で抱き上げる。鷺若丸は今降りて来たばかりのロープに飛びついた。


「天狗殿! いったいなにを!」

「ご安心ください、危害を加えるつもりはありません。ただ、とある巫女候補の願いを叶えるにあたって、今日一日こちらのお嬢様には、神隠しに遭っていただきたい」


 彼の言っていることはよく分からないが、みすみすステラをさらわれるわけにはいかない。鷺若丸は必死に身体を引っ張り上げる。


 高みからそれを見下ろし、仙足坊は悠々と白い片翼を展開した。


「なに、囲碁でしたら、大会に出ずとも我が主と打てばよろしい。供物の酒より囲碁が好きなお方ですからね。きっと喜ばれるでしょう。……ああ、ですが忠告をさせていただくと、勝利なさることはお勧めしません。執心されてしまいますよ。文字通り、千年に渡って、ね」

「待て、天狗殿! 我と囲碁をやれ!」


 鷺若丸はロープから飛び上がり、仙足坊の足に手を伸ばす。しかしその指先は空をかき、鷺若丸の身体は落下した。地面に頭を打ち付け、意識が飛びかける。


「鷺若丸さま!」


 ステラの叫び声が遠くに聞こえる。鷺若丸は気力を振り絞って顔を上げるが、その時には彼女の姿は仙足坊もろとも消えてしまった後だった。


   ○


 陣保じんぼ山は依然、漆羽うるしば鬼神の結界に覆われている。鬱蒼とした林に囲まれたアスファルトの林道を、雪花は息を切らして駆け上った。


 ガードレールの奥に転がる、白い車の残骸を通り過ぎること三回。雪花は山の奥に叫びかける。


「漆羽様! あたしです! どうかお目通り願います! 桜谷敷さくらやしきステラを返してください!」


 その背中に、小さな人形ひとがたたちが追いすがり、必死に引き留める。ようやく追いついてきた天涅が、雪花の腕をつかんだ。


「待て、半人!」

「ちょっと、なによ。あたしたちには時間がないって分かってるでしょ!」


 大会の受付時刻は八時五十分までだ。それまでに会場へ向かう必要がある。現在時刻は八時前。会場まで電車で数十分かかることを考えると、余裕はない。


「急いでステラを取り戻さないと!」


 再び走り出そうとする雪花をなんとか引き止め、天涅は叱責する。


「だから待て、と言っている。莫迦みたいに走り続けても、結界は越えられない」

「……うぅう~!」


 天涅の正論は、一時的に雪花の足を止めた。荒い息を整え、苛立ちに拳を固める。


「漆羽様は、なんでステラを……。よりにもよってこんな時に!」

「こんな時だから、じゃろうな」


 白い煙を噴き出して、忌弧きこが現れる。彼女は客観的な視点からの考察を述べた。


「平安小童の話が確かなら、あのいけ好かん筋肉天狗は、今日一日だけ小娘の身柄を預かると言ったそうじゃな。その小娘を今日の大会に出させんための小細工としか考えられん」

「でも、なんでよ?」


 雪花の疑問はもっともだ。本来、漆羽鬼神とステラの大会には、なんの関係もない。


「まさか、あたしと土御門がチームを組んでることが気に食わないから……?」


 忌弧と天涅が視線を交わす。あるいは、土御門の「とある企み」が露見したか……。


 しかしおそらくは、どちらも違う。二人の結論は一致していた。


 天涅が状況を解説する。


「漆羽鬼神は、自らを祀る巫女を新しく用意しようとしてる。何者か知らないけど、おそらく今の事態は、その新しい巫女が望んだこと。巫女になる代価として、望みを叶えてもらってる」

「つまりどっかの人間が、ステラの大会欠場を望んでる、ってこと!?」


 筋は通るが、にわかに呑み込みがたい話だった。なにより雪花にとって気に入らないのは、自分以外の人間が漆羽鬼神の新しいパートナーになろうとしていることだ。


「言ってくだされば、巫女くらいあたしがやるのに! 巫女服だって着るのに!」

「貴様、あの鶏ガラから嫌われておらんか? まさか、なにかやらかしたか?」


 忌弧が眉をひそめると、雪花は悔しそうに口を尖らせた。


「……【黄金棋眼鏡おうごんきがんきょう】を差し出したら山から追放されたのよ。あれから一度も会えてない」

「はあっ!? 追放じゃと? なにしてくれとんのじゃ!」


 忌弧は目を白黒させる。


「貴様が山に入れなければ、こちらの計算が水の泡ではないか!」

「……な、なによ? なんであたしの追放があんたらの計算に関係すんのよ」

「ぐむっ! そ、それは……」


 忌弧は慌てて口をつぐむ。これは「とある企み」に関係することだった。口外は厳禁だ。幸い、雪花は焦りのあまり、忌弧の出したボロを、さして気に留めなかった。


「とにかく、漆羽様と会って、ステラを返してもらわないと」


 再び動き出そうとする雪花を、天涅が強く制止する。


「莫迦! 結界がある以上、どれだけ走っても神社に辿り着くことはできないと言ったでしょう!」

「そうだった!」


 頭では分かっていても、身体がじっとしていられないのだ。そんな落ち着きのない雪花を一瞥し、天涅は口元に手を当てる。


「……まあ、一つ手がないこともない――」

「待てい、待てい!」


 慌てて引き止めるのは忌弧だ。


「天涅、なにを話すつもりじゃ? まさかとは思うが、結界破りの方法ではあるまいな」

「結界破りの方法だけど?」

「結界破れるの!?」


 雪花が喰いついた。天涅は忌弧が口をはさむ前に、説明を始める。


「以前から検討していた方法がある。結界の内と外にいるものの縁を縄に見立てて、それを手繰っていく術」

「それってつまり……」

「おまえと漆羽鬼神の縁を使えば、この結界を通ることができるかも。協力する?」


 すぐにでも頷きたいところだが、雪花はいったん踏みとどまる。気になることがあった。一つはこのやり方が「以前から検討」されていたということ。もう一つは忌弧が、この事実を隠そうとしたことだ。


「……あんたたち、本来ならいつ、どういう形で、結界を攻略するつもりだったわけ?」

「おまえが山に入った時、わたしとおまえの縁を利用し、結界を抜ける算段だった」


 天涅の回答に、躊躇はなかった。その瞬間、雪花が彼女の胸ぐらを掴む。


「あんたが囲碁部に入ったのって、もしかして、そのためだったわけ?」


 囲碁部に入り、同じチームとして大会に出る。土御門の陰陽師らしくないこの非合理的な行動も、結界攻略のための縁を育てる算段だった、と考えれば納得がいく。そして天涅は、それを肯定した。


「おまえの推測は、部分的には正しい」


 彼女は雪花の手を掴み、有無を言わさぬ力でゆっくり外す。


「でも、わたしが囲碁部に入った理由は、それだけじゃない。わたしに必要なものがここにあると、鷺若丸が言った。だから――」


 台詞の途中だったが、三人はふいに来た道を振り返った。その肝心の鷺若丸の姿が見えない。


「あれ、そう言えばあいつ、いなくない? あんた、あいつと一緒にいたんじゃないの?」

「先走るおまえを追ってたから、気にかけてなかった。忌弧は?」

「いや、妾も天涅の鞄にぶら下がっておったからのう……」


 三人は顔を見合わせる。全員の声がハモった。


「……まさか、はぐれた?」

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