『土御門天涅Ⅱ』

 この学校は、人気ひとけのない場所に事欠かない。少女は舗装されていない山道を外れ、雑木林の奥の方へ踏み入れていった。揺れるスカートの下、タイツに覆われた細い足が、草木を踏みしめる。


 少女の後姿は、怪異と渡り合う陰陽師にしては、小さく頼りなげだ。鷺若丸さぎわかまるは一定の距離を開けながら、その背中を追いかけた。


 やがて少女が足を止める。木漏れ日の下、血の気のない顔が振り返った。表情はない。それどころか、生気を感じない。具合でも悪いのだろうか、と鷺若丸は心配した。まるで等身大の人形と相対しているような心地だ。


 葉擦れの音が収まるのを待って、彼女は口を開いた。


「やっぱり興味深い」

「……?」


 それは理解を求めた一言ではなかったらしい。彼女は改めて話を切り出した。


「おまえを探していた。まさか自分の学校で見つかるとは思わなかった」

「自分の学校? れは――」


 鷺若丸の疑問を遮って、彼女は事務的な口調で話を続ける。


忌弧きこが言ってた。おまえ、平安時代からきたそうね。本当なの?」


 彼女のボストンバッグにぶら下げた狐のぬいぐるみが、白い煙と共に狐女の姿になる。忌弧は扇を振り回して主張した。


「妾の鼻は確かじゃ! 僅かながら、こやつからは当時の京の匂いがする。実に懐かしい香りじゃ」

「懐かしいって……そなた、いったいいくつだ?」


 首をひねる鷺若丸に、忌弧は鋭い歯と爪を見せつけ威嚇した。


「貴様、乙女に歳を聞くのは、万死に値する行為じゃぞ! 八つ裂きにされたいか!」


 鷺若丸は話題を反らすため、慌てて三週間前の説明を始めた。


「狐殿の言う通り、我は平安時代からやってきた!」


 山で死にかけていた時、童子たちが囲碁を打っているところに出くわし、戻ってきたら千年が経っていた……という話をする間、少女は目を細めてじっと耳を傾けていた。


「……なるほど。おおかた、精怪の領域に紛れ込んだ、と言ったところね」

「精……なんと?」

「精怪。精霊の怪異。精霊にも色々いるけど、中でも強い意志を持つモノたちは、狭界きょうかい――この世界と重なる別の時空にいることが多い。特別な龍脈が走っている山だとかは、その領域と繋がりやすくて、迷い込んでしまう者が稀にいる。だいたいは帰ることもできずに取り込まれてしまうから、千年経ってるとはいえ、出てこられただけおまえは幸運ね」

「……取り込まれて」


 鷺若丸は身震いした。確かにあの空間にいた時、「帰ろう」という考えがなかなか頭に浮かんでこなかった。いくら囲碁が好きとは言え、あれは異常だった。


「世界は、おまえが思うよりも複雑なの。見えてる景色の裏側にも、無際限の闇が広がってる。そこには妖。鬼。幽霊。精霊。神仙。人ならざるモノたちが、いくらでも蠢いてる」


 彼女は薄い胸に手を当て、自己紹介した。


「わたしは土御門つちみかど天涅あまね。土御門家、最後の陰陽師。人に仇なす怪異を見張り、必要とあれば対処する。それが、わたしの仕事、わたしの役目」


 そう語る彼女の体躯は子供のように華奢だが、仕事人らしい威厳や風格といったものを纏っていた。鷺若丸は感心して、ぽかんと口を開けた。


「……ははぁ、そうか。陰陽師こそが本職……。あ、では、の囲碁は……?」


 それには忌弧が答えた。


「《夢幻むげんの間》は一族が編み出した、怪異への対処方法――その一つにすぎぬ」

「《夢幻の間》……?」

「言うなれば一種の誓約うけひ術式じゃ。自分と敵の力関係を、まったく関係のない囲碁の勝敗に結び付けて占う。囲碁に勝利した側は、一時的に絶対的上位者となり、相手に対する命令権を得るのじゃ」


 その命令権で、彼女たちは怪異を退治しているというわけだ。実際、結界の中に取り込みさえすれば、筋力でも霊力でも敵わない相手を、一方的に打ち倒すことができる。しかも余計な傷を負うこともなく、だ。


「しかし、何故なにゆえに囲碁なのだ?……あ、そなたらも好きなのか、囲碁⁉」

「莫迦めが。呪術的に相性がよい。それ以上でも以下でもないわい! 囲碁はそもそも古代中国の占星術から派生した遊戯じゃからのう」


 実際、その名残は、〈星〉と呼ばれる九つの目印として、今も碁盤の上に残されている。


 宇宙を表す盤上に、陰陽の石を並べ、宇宙の運行を占う行為。そう解釈すれば、囲碁に呪術的側面を見て取ることは、そうおかしなことではないだろう。


 鷺若丸の理解を待ち、天涅は再び話を進める。


「わたしは亡き先代の後を継いでから五年、ずっと囲碁で怪異を倒してきた。だけど昨日、おまえのせいで、それが台無しになった。……自分がなにをしたか分かってる?」

「囲碁を打っただけだが?」


 得意げに目を輝かせる鷺若丸に対して、忌弧はぴしゃりと言った。


「囲碁を打って、勝ってしまった、じゃ。後ろの部分が問題なんじゃ、このタワケ!」

「おまえのせいで、わたしたちは大事な仕事道具を奪われてしまった。急いで取り返さないといけない」


 天涅がおもむろに、制服の右袖をまくり上げる。手首の肉と皮膚を切り裂き、真っすぐな金色の刃物が飛び出してきた。それを見た忌弧が、喉の奥を鳴らすように笑う。


「ククク、妾たちがペラペラ秘密を喋ったのは、何故だか分かるか? おぬしを逃がすつもりがないからじゃ」


 周囲の木陰から、迷彩柄の小さな人形ひとがたたちが顔をのぞかせている。天涅の式神たちだ。この場所は最初から包囲されていたのだ。


「これからおぬしを痛めつけ、知っている秘密を根こそぎ吐いてもらう。ククク、大人しく従ってもよいが、妾としては……、って、おい、おぬしなにをしておる?」


 忌弧の得意げな台詞が止まる。鷺若丸がその場にうずくまって、身悶え始めたからだ。


「うおお、痛い痛い痛い……」


 天涅は自分の刃物に目を落としてから、首を傾げる。


「まだ刃は触れてもないけど?」

「そなた、その腕、痛くはないのか? 我はもう見てるだけで、あいたたた!」

「わたしは痛覚が鈍いから、その心配は無意味」


 確かに彼女は平然としている。その言葉に嘘はないらしい。


「されど! 何故に腕から刀を生やそうなんて考えた? 意味が分からぬ」

「だって便利だし。お出かけする時、置き忘れる心配もない。鎌とか爪もある、ほら」


 彼女は服の裾をめくり、スカートをたくし上げる。その度に肉を引き裂く生々しい音をたて、刃物が飛び出してきた。鷺若丸は悲鳴を上げて目を覆う。


「見せずともよい、見せずともよい……!」

「ほっほ~う、この小童、存外いたぶり甲斐がありそうじゃのう。ククク、協力せずにたくさん苦しんでから死ぬのと、大人しく吐いてちょっと苦しんでから死ぬの、どちらがよいかえ?」


 忌弧は調子に乗ってニマニマ笑うが、それを天涅が素早く諫めた。


「忌弧、そこまで。こいつを処分するつもりはない」

「へ?」

「多少痛めつけるだけならともかく、記憶を消すつもりはないし、命を取る気もない」

「えーっ! ま、待て。待つのじゃ。いったい何故?」


 慌てる忌弧に、天涅はさらっと答えた。


「興味があるって言ったでしょ?」


 これで説明は十分、と言うように、天涅は話を戻した。腕の刀を突き付け、鷺若丸に問う。


「で、おまえの目的は? なに?」

「ぼ、ぼうりょくへんたい!」

「……暴力反対、ね」


 埒が明かなさそうなので仕方なく天涅が刀を収めると、鷺若丸は途端に元気を取り戻した。


「我の目的は、千年前に戻ること。宿敵と決着をつけねばならぬのだ」


 そう語る瞳には、強い光が宿っていた。


「この時代は、いとめでたし。されど、いずれは立ちはなるることになろうぞ」

「手段はあるの?」

「しゅだん?」と、鷺若丸は首を傾げる。どうやってここに来たかも知らなかったのに、帰る術など分かるはずもなかった。目途さえ立っていない。

「……でしょうね」


 天涅は時間遡行が、限りなく困難な偉業であることを知っていた。常識から逸脱した陰陽師の知見をもってしても、方法が思い当たらない。


「なに、今は他にも、やるべき……えっと、やるべきこと、がある。ステラ殿の団体戦だ! あと二人、部員を集めたし」


 ステラは衣食住をまかない、言葉を授け、この素晴らしい時代の話をたくさん教えてくれた。その恩に報いるためにも、彼女の夢はなんとしても叶えなければならない。それが目下の最優先事項だ。


「……おまえの目的はだいたい理解した。で、あの半妖とは、いったいどういう関係?」

「縁あって、あの日、出会った。囲碁を打たせてくれると言うから、誘いに乗った」

「その程度の仲? なら、手を貸す義理はなかったはず。アレは人に仇を成す妖だと教えたのに、どうして?」


 鷺若丸は、平安の生まれだ。今以上に多くの怪異が溢れていた時代からやってきたのだ。その危険性を知らないはずはない。にもかかわらず、彼は雪女を庇いだてした。陰陽師の天涅には到底、理解できない行いだ。しかし鷺若丸は平然と笑ってみせた。


「我はあの娘、根は真っすぐで優しい者と見る。指南すれば、必ずよき囲碁を打つ」


 黙って聞いていた忌弧が、炎天下に放置された生ゴミを見るような目で吐き捨てた。


「その女に、妾たちは大事な商売道具を奪われたんじゃが?」

「されど命は奪われなかっただろう」

「それは……! まあ、そうじゃが……」


 鷺若丸が囲碁に勝ったことで権利を得た彼女は、天涅を自害させ、すべてを奪うことだってできたはずなのだ。しかし彼女はそうしなかった。


 言葉を失う陰陽師たちの前で、鷺若丸ははにかむ。


「むやみな殺生は苦手だ。人も妖も関係ない。囲碁を打てるもの、打つかもしれぬもの。その全てが、ゆくゆく〈囲碁のきわみ〉へ至るやもしれぬ、この世の宝なり」


 しかし天涅は頷かなかった。


「言いたいことは分かった。でも、わたしの仕事は人類の守護。人の世に仇を為すというのなら、対処しないと。そのためにも、まずは大事な道具を取り戻す。……だから、平安から来た碁打ちさん。わたしの最後の質問に答えて。あの半妖の居場所に心当たりは?」


 鷺若丸は唇を歪めて、少し考えた。


「手掛かりは、ある。……条件次第では教えてもよい」

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