第5話

 夕飯の用意をしていると、廊下の奥からどたどたと地を鳴らすような足音が聴こえてきた。私はその音からその足音を立てた持ち主の感情が手に取るように分かって、ガスコンロの火を止めた。話を聞いてあげないと。


「どうしたの?」


 扉を開け放つように入ってきてから、ソファに飛び込んだ沙羅に問い掛けた。


「仕事辞めてきた」

「そうなんだ」


 雪の結晶が表面にデザインされた、二つのお揃いのカップにポットのコーヒーを注ぎながら言った。部屋の中に沈黙が降りた為に、目を向けると沙羅が目を丸くしてる。


「え、なんでって聞いてよ」

「じゃあ。なんで?」

「私がこの前女性と付き合ってるって店のお客さんに言ったらさ、店長の態度が途端に変わってさ、シフトも今週はいつもより少ない感じだったから問い詰めたら女性同士で付き合ってる事をあまりお客さんには言って欲しくないんだって。そんな考えの人って村の人だけだと前は思ってたけど、やっぱりどこにでもいるんだね」


 問い掛けられて、小さく頷きながら入れたばかりのコーヒーを沙羅の傍にある机の上に置いた。沙羅はこの町にきてから海沿いにある小さなカフェで働いていた。私自身もその三つ隣にあるバーガーショップで働いている。


「あーやばいよね。家賃も月末に払わないと駄目だしさ、すぐに仕事を見つけないと」


 沙羅は足をバタバタとさせながら携帯を眺めている。私はカップを手にした。まだ湯気が立ち昇っており、息を吹きかけてからゆっくりと啜ると、直線的な苦みが口いっぱいに広がる。美味しい。


「外で生きていくって大変だなぁ。何をするにも、何を買うにも、お金、お金って感じで嫌になる」

「まあ、なんとかなるんじゃない?」 

「なんで新奈はいつもそんな楽観的になれるの? 新奈のお父さんから貰ったお金だって使い切っちゃったしやばいよ」


 あれから三年の月日が流れていた。冬の帳村を出てからの私達は何をみても新鮮で、時に建物の高さに息を呑み、人の多さに恐れを抱いたりした。憧れていた外の世界に毎日が色付いていた。けれど、施設の中で育った私達と、その外の世界で生きる人たちとでは大きな乖離がある事にも気付いたのだった。私達が当たり前だと思っていた事はこちらでは当たり前でないし、こちらの人たちが当たり前のように出来る事が私達には出来なかった。コンビニやお店でのお金の払い方や電車の乗り方、携帯電話の使い方、村でみる車のスピードと街のそれとでは大きく違うこと、だからこそ赤信号では必ず止まらなければならないこと、それら全てを日々悪戦苦闘しながらも一つ一つ覚えていった。最初の数ヶ月は凛花さんと三人で東京で暮らした。昔に戻ったみたいで楽しかった。だけど、世界は東京だけじゃない。もっと、広い。だから私達は凛花さんとは別れを告げて、京都や名古屋、それから北海道といろんな場所に移り住んだ。そんな日々を過ごしていたある日に沙羅が言った。


──ねぇ、海辺で暮らしてみない?


 確かに私達は生まれてからずっと冬の帳村という四方を山に囲まれた場所で暮らしてきた為に、海すらもみたことが無かった。それから村を出て、北海道で暮らし始めた時に何度か海を見に行ったことはあったが、海辺で暮らしたことは無い。波の音を聞きながら眠りにつけたら、どれだけ幸せでだろう。住んでみたい。そう思った翌月には仕事を辞め、家を引き払い、私達は沖縄の小さな離島に引っ越すことにした。そこは漁業と観光業だけでまかなっている島だった為に仕事の業種は少なかったが、幸いなことに海辺の傍にある小さなマンションの一部屋が空いており、住む場所も仕事もすぐに見つかった。それが三ヶ月程前のことで、私達は今の生活を手に入れたのだった。


「別に私も仕事を辞めた訳じゃないし、なんとかなるよ。ねぇ、そんなことよりさカレー作ったよ」


 ソファで横になる沙羅の隣に腰を下ろしてから微笑みかけた。沙羅が仕事にいっている間に、私はそれを作っていた。


「え、嘘?」

「ほんと。部屋中カレーの匂いしてるのに気付かなかった?」

「あ、ほんとだ。怒りで我を忘れてたのかも。今夜はじゃあ新奈の作ったカレーなんだ。嬉しい!」


 目を輝かせながら私をみつめ、それから窓の向こうに目をやった。橙色のひかりが部屋の中に差し込んでいる。


「ねぇ、海行かない?」

「今同じこと思った」

「嘘? 私達ってさ、こういうの良くあるよね。仲良すぎじゃない?」

「ほんとそうだね」


 微笑みあってから、急いで身支度をすませ外へと繰り出した。マンションの目の前には小さな道路があり道路に沿うようにして防波堤が続いている。その向こうには海が広がっている。白い砂浜にコバルトブルーの海。マンション自体は古い建物だけれど、その目の前の景観に私達は一瞬で一目惚れした。


「砂が柔らかくて気持ちいいね」


 隣を歩く沙羅はサンダルを履いてきたのにも関わらず、もうそれを脱ぎ手にしていた。私も真似したくなり、サンダルを脱いだ。白い柔らかい砂の上に一歩足を踏み出すと、さらさらと私の重みの分だけ沈み、指の間から砂が溢れた。沙羅の言う通り気持ちが良かった。柔らかくて、それにひんやりとしている。今は十月で、季節は暦で言えば秋なのだろうけど、この島ではまだ夏が取り残されている。日中は日差しが強くて熱い。日が暮れ始めた今みたいな時間になって始めて涼しさを感じる。足を進める度にずっと聴こえていた波の音が少しずつ近くなる。夕暮れ時の海はいでいる。そっと手で触れるように砂浜を湿らせ、自分の通った道をならすように静かに引いていく。


「泣きたくなるくらい綺麗だね」


 波打ち際の少し手前で私達は腰を下ろし、それをみながら沙羅がぽつりと呟いた。それからゆっくりと身体を傾け、私の肩に頭を預けた。塩の香りを孕んだ風が私達の髪を優しく撫でてくれる。


「村の皆にもみせてあげないなぁ」

「ほんとだね。それに向こうの世界の私にも、この景色をみせてあげたい」


 みながら、私は無意識にそう言っていた。


「まだ意識を向けても無理なんだ」

「うん」


 あの日、別の次元へと通じる扉が閉まってから、どれだけ意識を向けても向こうの世界を覗くことが出来なくなった。もう、彼女の声も聴こえない。


「でも生きてるよ。確かに感じるの。みえないけど、感じる。凄く幸せな気持ちで満たされてる。きっと向こうの世界で生きる湊が今も傍にいてくれてるんだよ」

「なんか妬いちゃうな。結局こっちでも向こうでも新奈を守ってるのは湊じゃん」


 唇を尖らせるようにして、沙羅は手にしていた砂を波に向けて放った。白い砂が、橙色の陽の光に照らされてきらきらと輝いている。日が沈もうとしている。


「湊もずっと守ってくれたけど、いつだって私の傍にいてくれたのは沙羅じゃんか」


 子供の時からずっとそうだった。雪に怯え、さみしさに殺されそうになっていた私に、手を差し伸べてくれた。施設にいた時も、出てからも、いや今だってそうだ。


「なにその甘いセリフ。告白?」


 沙羅が見上げるようにして悪戯な笑みを向けてくる。水平線の向こうでは海に溶けていくように日が沈み始めており、そこから放れたひかりが沙羅の顔を染めている。「私はさ」とみつめながら呟いた。


「沙羅に感謝してるんだよ。私にとっての沙羅はひかりなの」

「なにそれ。よく分かんないけど嬉しいよ」

「ひかりがないと、私は生きられない」

「うん」

「ひかりがあるから、生きてこられた」

「新奈、どうしたの?」

 

 沙羅がふっと私の肩に預けていた頭をあげた。私はその目をまっすぐにみつめた。今までずっと私はその感謝の気持ちを伝えきれずにいた。でも、どれだけの感謝の想いを伝えても足りない。孤独に苛まれていた時、生きることすら嫌になった時、私は沙羅がいたから生きてこられた。ひかりがあったから。


「一生をかけて今度は私が沙羅を支えてあげたい。ひかりになってあげたい」


 波の音が鼓膜に触れる。沙羅の澄んだ瞳が微かに揺れた。


「それは嬉しいけど、どうしたの? 私は新奈に感謝されることなんて」


 言い終える前に、手を取った。水平線から降り注ぐ陽の光に包まれながら、私は言った。


「だから、私と結婚して下さい」

「えっ? い、ま、なんて」

「沙羅、私と結婚して欲しいの。この先もずっと同じ道を歩んで行きたいから。笑ったり、泣いたり、いろんな感情を共有して、ずっと、ずっと、一緒に生きていきたいから」


 この島に来る前から考えていた事だった。村を出てからの私達は楽しい思い出ばかりでは無かった。世界の広さを知るのと同時に、その分だけ、嫌な思いや辛い思いもした。だけど、どんな時にもふっと隣をみれば私には沙羅がいて、こんな事はなんて事ない、そう思えたのだ。 


「ねぇ沙羅、私は今凄く幸せ。これまでに貰ったひかりの分だけ今度は私が沙羅を幸せにしてみせる」

「なん、で、突然そんなこと言うの」


 はらはらと涙を溢しながら「びっくりするじゃんか」と微かに笑みを浮かべ涙を拭っている。


「私は、数万通りの私の人生をみた。どの人生を歩む私も綺麗だった。きっと楽しいことばかりじゃなかったはず。どんな人生にも引き裂かれるような痛みが苦しみが伴うものなの。でも、それを乗り越えた先、至る所でひかりの差す場所もある。人はそんな風になんでもないような小さな幸せの欠片を拾い集めて、満たされていくんじゃないかな。そうやって、命の輝きを放つんじゃないかな。私がその輝きを放つ為には、沙羅と一緒じゃなきゃ駄目なの。沙羅が隣にいてくれないと駄目なの。だから」


 泣き崩れる沙羅の身体をそっと起こしてから言った。


「私と結婚して下さい」


 沙羅は顔を手で覆いながら、何度も頷いてくれた。私はその手を、そっとおろした。目を赤く染めた沙羅と向き合った時、視界の端から陽の光を感じた。きっと、もうすぐ日が沈む。海の中に完全に溶けきるその前に、最後に強い光を放つことを私は知っている。波の音が鼓膜に触れ、柔らかな風が吹く中、私達はひかりに包まれた。海の中を揺蕩う海月のように、身体がふわふわとする。光の中で抱きしめ合っていた私達は、互いの髪を耳に掛け額をくっつけた。刹那、全身が痺れていくのを感じた。体温を分け合った箇所から頭の先へ、そして胸元を通り足先へ。徐々に呼吸があがっていくのが自分でも分かった。


 心臓が細かく波打っている。周期がどんどん短くなり大きな音を伴った波は、鼓膜まで轟かせていた。そして改めて思った。私は沙羅のことが好きだと。愛してる。もう気持ちが抑えられそうになかった。沙羅も同じ気持ちなのかもしれない。眼差しを私の唇に向け、何かの引力に引き寄せられるかのように私達は互いの距離を縮めた。 


「新奈、愛してる」


 沙羅が私の頬に左手をそっと沿わせ、私も唇に眼差しを向けた。


「私も。これからもずっと、ずっと、愛してる」


 吐息が交わる少し手前で私は静かに瞼を閉じた。


「いつか、その時がくるまで」

「うん」

「私はひかりであり続けるから」

「私も」


 海に溶けゆく陽のひかりに包まれる中、私達は唇を重ねた。




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雪忘花 深海かや @kaya_hukami

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