『悲しい結託』

 病室の時計が一針一針時を噛む音を、バフォメットは凝然とした目を保って聞いていた。傷が熱を孕んだまま、怠い身体を横たえているが、神経は冴えていた。時計の秒針さえ喧しく、感覚の何もかもが過敏になっていた。

 焦りに引きつりもしない白面は微熱に浮かされて奇妙な影を彫られている。そんなバフォメットの聴覚が、自分に近づいてくる足音を拾った。まだ遠い軍靴の響き。でもスカーレットの足音とは違う響き……

 バフォメットは眉根を寄せた。足音は間違いなく、自分に向かってきている。誰かの気配を扉の前に認める。ノック抜きで入ってきたのは、ミゼルただ一人であった。


 ミゼルはベッドの横たわるバフォメットを見下ろした。バフォメットは此方に気づいている癖に、ずっと天井を見ている。ミゼルは何も言わず、バフォメットを見下ろして月明かりの白い影を浴びながら佇んで待った。


「わたしに何か用事かね、クロード少将」

「起こしました? まあ野暮用っていうか」


 ミゼルは明日の天気について話すような口調で言った。


「オレが確認した書類、ローランド大将に訊いたら首席執政官から明日までにサインをもらわないといけないらしいんです。でもあんたのその怪我じゃね……首席執政官って、休みもらえるんですか?」


 バフォメットは失笑を唇に乗せる。


「休みなら、もらえますよ……尤も、休暇を取った記憶はほとんどありませんが……」

「それを聞いて安心しました」


 ミゼルは世間話の態で息をついた。慎重に、本題へと話の駒を進める。


「オレの話を聞く時間があるみたいなんで」


 バフォメットが怪訝そうに沈黙に戻ると、ミゼルは少しずつ、勿体ぶった話を続けた。


「あんたにとって次席執政官クロードは邪魔だろ? 仮に次席執政官が消えたら、どうなります?」


 ミゼルはわざと噛んで含めるように言った。忍耐強い教師を演じる気分で、バフォメットから言葉を引き出す。


「わたしの敵が、いなくなりますね」


 バフォメットはミゼルの望み通りに答えた。答えているが瞬きもせず、ミゼルの方へは見向きもせずに、天井を見つめている。


「そう。しかもいなくなる敵は次席執政官一人じゃありません。派閥ごと、目障りな連中がごっそりいなくなる。ごっそり敵が減ったら、議場の見晴らしがよくなりますよ」


 バフォメットは訝しんでいたが、片眉が、何かを面白がるようにぴくりと動いた。ぎょろりと動いた温かみに欠ける垂れ気味の目の奥が、ミゼルには笑っているように見えた。バフォメットは表情だけで続きを促している。


「それで、何が言いたいのです?」

「オレのボスになりませんか?」


 ミゼルは下手に出ながらも、バフォメットを相手に果敢であった。


「命令をください。オレはあんたの手足になる。不都合があれば切り落としてくれて構わない。いい話だと思いませんか?」


 今やバフォメットを切り札とするつもりでいた。命令を乞うておけば何をしてもバフォメットの意思ということにしておける。悪魔であろうと何であろうと、使ってやるという気持ちでいた。


「クロード卿は、父親では?」


 ミゼルは無表情以上に心ない、読み取れるものが何も存在しない顔で返した。


「父親だな」


 自分でも驚くくらい、薄っぺらい返事であった。

 父を始末したいが、例え少将であれ自分は一兵卒でしかない。誘われてはいるが政界にコネクションはない。庶子ゆえに、クロードの家に名家の息子という居場所はない。ならばスカーレット救出の際に図らずも協力関係にあったこの権力者を利用しない手はない。王に次ぐ権力者――ミゼルが従事する軍務だけでは、本来近づけない相手だ。

 父の命には一貫してこだわりがない姿勢で、ミゼルは軽薄にまくし立てた。


「あんたにも身体を張ることがあるんだなって、驚きました」

「何の話です?」

「中将はあんたを殺そうとしてたよ」


 ミゼルはバフォメットの左胸に施された処置の跡を見た。


「本気なんですね。本気で中将を王にしたいんですね」


 バフォメットは低く呟いた。灰色の瞳の昏さが増した。


「……それだけの価値はあると、思っていますよ」


 ミゼルは内心苛立っていた。世間話を軽薄を装って進めてはいるが、バフォメットは頷こうとしない。

 権力を貸す――引き出したいのはその一言だけだ。

 ミゼルはバフォメットに詰め寄った。


「返事は?」

「断る、と言ったら?」


 ミゼルの苦い心中がバフォメットの返事に揺さぶられた。投じられた言葉は相変わらず、結託を受け入れるという返事ではなかった。

 ミゼルの眉間がぴくりとしたが、一瞬のことであった。勝負に出たのは此方だ。父の悪事の件で弱り切っていることは悟られないように神経を尖らせる。震える五感によって吐く息に憔悴が含まれてしまうことが怖くて、ミゼルはむすっとした表情を作る。


「断るなら………サインもらって帰ります」

「その程度のものですか」


 バフォメットは冷たく呟いた。


「父親を始末したい気持ちは、あなたの装う軽薄ほどの重みしかないのですか」


 ミゼルは目をかっと見開いた。とっさに返す言葉が浮かばなかった。唇は引き結べていたが、指先はわなわなと震えていた。手袋をしていたのが、せめてもの救いであった。

 死んでもいいと、決めている。ミゼルは父のことでそれほどまでの負い目を感じていた。刺し違えてでも父を殺すという覚悟を笑われたような気分になって、怒りが奔騰した。


「……」


 身体は熱いのに、凍えたみたいに寒かった。ミゼルはもはや、苦味の混ざった曖昧を隠しきれなくなっていた。

 父を殺せば無事では済まないのは分かっている。何としてでもバフォメットの力を利用してあたかも正当な理由を全てに与え、父殺害の理由とその後の自分の居場所を守らねばならない。暗に仄めかさないでバフォメットを動かすための言葉を、ミゼルは我知らず頭の中に並べていた。しかしいい台詞になるような言葉は浮かばず〝その程度なのか〟という問いが突き刺さってしまったことが明らかな沈黙が重なるばかりであった。

 するとバフォメットは身体を起こした。ミゼルの内にある熱とは違う熱がこもったあ目が、ミゼルを見やった。


「手足になど、しません。協力とはそういうもの、一方的にするほど、わたしは不義理ではありません」

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