『無力な立場』
今一歩遅かったと舌打ちして、スカーレットは病棟を出た。
バフォメットに話をするつもりで来たスカーレットを迎えたのは、すでに事切れたバンスの死体であった。バフォメットが眠っているにしては妙な違和感と、嗅ぎ慣れた不快な血の匂いに不吉を覚えてシーツをめくってしまったスカーレットは、何の用意もなく見たしたいに息を殺すしかなかった。
遂にバフォメットが動き出した。スカーレットは今や敵となったバフォメットの復活と脅威をメリルたちに伝えるべく、足早に引き返す。
ミゼルは血煙と硝煙で淀んだ会議室で、煙草を咥えた。
代々議席を世襲する古い家柄の貴族──スカーレットの秘密を知っていた人々は、何を語ることなく累々と死を曝している。
ミゼルは煙で肺を満たしながら、頭の芯が痴れるままに死魚のような目で中空を仰いでいた。絨毯の上で黙している死体以上にその精神は風化し、言いたいことはなかった。
煙草は、一度吸うのをやめていたものであった。枯れた言霊が心の内側に爪を立てるようになっていた。何も入っていないはずの胃が嘔(むか)つくようになったので、蟠りを煙に託したのであった。
王女だと知っていながら、四年前の戦でスカーレットを見捨てた人々は始末した。自分が作った死体の山を壇上に座って眺めるうちに、低い、くぐもった笑い声が喉に絡みついた。
貴族たちにもはや真相を語る口はない。四年前の戦の事実を隠蔽して王女スカーレットを陥れた国家反逆罪で処罰を受けたのだ。家は取り潰し、財産は没収、一族は皆殺し。禍根も塵も、残さない。
ミゼルはうろのような満足感に奇妙な恍惚を覚えていた。空しく満ちていきながら、削られるような痛みに気持ちは鈍麻して久しい。
グリノールズは議場に進みかけた足をすくませた。血溜まりを踏んだのだ。
慄然として顔を上げれば、一面が屍の絨毯を敷いたようなおぞましき濁りの果てに、ミゼルがぼんやりと煙草を吹かしている。
古くからの貴族派閥に王宮からの脱出を促すつもりでグリノールズは此処に来た。待っていたのは凄惨な事後報告であった。
グリノールズが声を出せない代わりに喉元で震えた息をこぼすと、ミゼルが鬱陶しそうに此方を見た。飛んで来た小さな虫を追うような目線であった。
「何、お前……逃げたんじゃなかったのか」
ミゼルは目を細めて、疲れた吐息を煙に乗せた。何を思うのか或いは何も思うところがないのか、此方が悟れるような想いはミゼルの面上になかった。
血溜まりを踏んだ片足のさらさらした粘り気に不気味な思いに駆られるも、グリノールズはミゼルに問うた。暑くもないのに、不快な汗が背中にじとついた。
「クロード少将、これは、どういうことですか……」
「見ての通りだ、死んでる」
「まさかあなたが」
「殺したんだよ」
ミゼルは臆面もなく答えた。
「彼らに一体何の罪が」
「王族も貴族も無力なもんだな。そうだろ、公子様?」
ミゼルは本気か冗談か分かりかねる同意を求めながら、吸っていた煙草を足元に捨てて火を踏み潰した。
グリノールズは拙い感嘆さえこぼせずにいた。ミゼルの言動、行動のどれ一つを取っても、ミゼルは何も語っておらず、また何かに耳を貸す気配もなかったからだ。この動かぬものを動かす術が見つからず、グリノールズは黙してしまう。何か得体の知れぬ諦観を黒影めいて塗り落としたミゼルには強固だが不吉な気配が漂っていた。
どんなに優しい言葉さえ、正しい言葉さえ――ミゼルの心には虫の羽音も同然だろう。凍った心を溶かすことはない。その確信が、グリノールズの抱いた無力感と恐怖をさらに大きくした。
「少将……こんなことをして、無事でいられるとお思いですか」
「ご心配痛み入りますよ……でも生憎オレは死人でね。これから墓に帰る途中ってわけ」
「ハークネス中将があなたの行動を悲しまれないとお思いですか?」
ミゼルはこのやりとりに於いてはじめて、片眉を動かした。座っていた壇の上から、血だらけの床に下りる。
「笑っちまうな……お前にあのひとの何が分かる?」
ミゼルは死にかけの獣のような息を吐いた。この反論に見え隠れするミゼルとスカーレットの関わり──何かしら似た境遇を持つ気配を、グリノールズは感じ取る。スカーレットの気高さに、ミゼルは自身の暗がりが含むものを重ねみては自分を保とうとしている。そんな哀れがかすめていくが、グリノールズには二人に重なるものなど見えない。
ミゼルは壇に寄りかかって嘯いた。ぐにゃりと踵で踏みつけたのは、絨毯の上に転がっている権力の抜け殻だ。
権力者の無力をグリノールズに教えるように、ミゼルは呟く。
「権力以外に訴えるものが何もない。こいつらはそんなみじめさにも気がつかない」
ミゼルは薄い唇に残酷な笑みを乗せた。優男の軽薄な風情は、今や狂気めいていた。笑窪に溜められた皮肉には、侘しい往還を歩きながら枯葉を踏み潰すような寂しさも覗けた。
「目を醒ましてください! こんな形で中将を王にしたら、王位を簒奪したという汚名を着せるだけです」
グリノールズはミゼルに、今からでも気づいて欲しい一心で訴えかけた。
「中将は王位など望んでいません。中将はメリルが至尊の座に就くことをその剣となることを望んでいらっしゃる」
「簒奪だって?」
しかし正論はミゼルの逆鱗に触れたのみであった。炯々(けいけい)とした目の光が軋るような声がグリノールズに噛みつく。
「言葉には気をつけた方がいい。それともお前は貴族共の道連れになるのがお望みか?」
グリノールズは手のひらを握り込んだ。自分を通り越してメリルに届いてしまいそうな睥睨を止めたくて、手の内側から爪の感覚が消えていく。血が滴るような熱が、戦慄を掴んでいた。
ミゼルの、メリルに対する害意は明白であった。此処に立ち塞がれば自分も殺されるかもしれない――しかし今や恐怖よりも、訴えたい想いがグリノールズの中で勝(まさ)っていた。
「ぼくはメリルを……メリルを守る」
ミゼルの手が腰に佩いた軍刀の柄に伸びる。剣気を感じると同時にグリノールズも抜剣した。
交錯の一瞬、グリノールズは長引かせては不利だと踏んで、ミゼルの胸を狙って剣を突き立てる。刃は呆気なくミゼルの心臓を貫くが、あまりの手応えのなさにわざと攻撃を受けられたことを悟る。ミゼルの意図を考える暇もなく、グリノールズは返り血を浴びた。身震いするような、体温の欠片もない氷水のような血潮をかぶって、グリノールズは膝が笑うままに崩れ落ちる。
「どうして……あなたは一体……」
「もう分かっただろ、公子様」
ミゼルは涼しい顔でグリノールズの片足に剣を刺した。標本の蝶めいた悲しみに貫かれて激痛に叫んだグリノールズに、ミゼルはそびらを向けている。
「安心しろよ、お前の大事なメリル殿下にもふさわしい罪を用意してやる……坊やはその命で償ってくれりゃあいい」
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