『いない子』
強い芳香を放つ白百合の花束を受け取って、公女ロックハーティアは満悦の態であった。
貴人用の病室、広い部屋の大きなベッドに腰掛け、慈しむように白い花びらの縁をなぞる。いつもは結わいてある長いさらさらの白髪、前髪から覗く目が白百合の美しさに束の間の柔らかな光をみせていた。だが、花束の贈り主の台詞に、垣間見えていた優しさは掻き消される。
「ハークネス中将の部下を買収して自分を撃たせ、暗殺命令を下したのが中将だと証言させる……自作自演の、暗殺未遂」
顔を上げた公女の肌は、すっかり血色と元気を回復している。視線の先にいた人物が続けたのは、詩を読むようでいて、しかしロックハーティアの罪状を滔々と並べ立てたものであった。
「弾丸は心臓を破るところだったそうじゃあないですか。あなたも大した博徒ですな? 下手を打てば死んでいたかもしれないのに」
「そう、あたくしは生きているわ」
ロックハーティアは悪どい笑みで唇を釣り上げた。白百合の花束を抱きしめて、窓の外を眺める。病室からは見えなかったが、政治犯収容所の方角に目線を投げる。
「ハークネス、あの女を豚箱に追いやるためなら、あたくしは何でもします。安いものでしてよ」
「中将も運の悪い方だ」
「それより……大丈夫なのかしら? この密会、スキャンダルですわよ。あたくしは困らないけれど、あなたは知られたら不都合なんじゃなくて――帝王製造機さん?」
白百合の贈り主――帝国首席執政官バフォメットは苦笑して、返事の言葉を濁した。
「何、あなたが手紙を送ってきたから見舞いに参上したまでですよ……」
「公人としての訪問ではない、ということかしら。苦し紛れの理由ですわね」
「確かに、今のわたしが公人として動きづらい状況なのは否定しませんが……どうしてわたしに手紙を?」
バフォメットは来客用の椅子に腰掛けたまま、ゆったりと長い脚を組んだ。垂れ目ではあるが温かみと優しさの乏しい灰色の瞳が細められ、悪辣が美貌を歪ませる。
「あたくしを次期君主に推してくださったあなたからの方が、お国の様子や憎たらしい小娘の情報が手に入ると思ったのよ」
「わたしからの方が? 誰と比べて仰る?」
「クロード卿よ」
バフォメットは肚裏に抱いた不審をおくびにも出さずに、ロックハーティアの言っている内容に含まれている事情を知っているようなふりをして、強かな白百合見つめるかすかな笑みの元に、おもねるような沈黙を重ねる。
「帝国は終わるわ。ずっとあたくしの国と目的を共にしてきた隠れた派閥と、帝王製造機であるあなたの両方が、あたくしを推している」
「メリル殿下もお可哀想ね。帝王製造機さんに、味方であるはずの帝国内の権力者――あの小娘はそういう後ろ盾となる力には愛されなかった」
「国民に愛されることなんて、何の価値もない。権力に愛されなければ、国民からのみの支持があろうとあの小娘に君主の仕事は果たせない」
「そんなか弱いお姫様しかまともな王族がいないとなると、もうあたくしの息がかかった派閥に中身を食い荒らされたも同然の帝国がこの手に落ちるのは時間の問題……違って?」
「仰る通りになりましょう……即位もさぞ近いことでしょうな」
バフォメットは神経を尖らせて追従を言い、立ち上がった。
「そうそう……買収した中将の部下はどうしていますか? 帝国軍の人間が行方を捜していますゆえ、適当な理由をつけて偽の行方を伝えておくのにわたしは所在を知っておきたい。クロード卿よりもわたしの方が、軍に顔がききます」
「あの軍人なら、名前を変えてこの国の軍の高官に迎えたわ」
「成程。では国外逃亡していて、公国政府もこの軍人の行方を捜しているということにします」
「我が国の世論は紛糾しています――ハークネスを処刑して、あたくしにこそ冠をとね」
背を向けたバフォメットに、ロックハーティアは言った。悋気にも似た執念が、バフォメットの歩みを止めた。
「先王の遺言で何であれ、継承順位の一位はあたくしです」
今は下手に出ることに徹するべき――バフォメットはやおら振り向いて、事務連絡を思い出したように、来訪の本当の目的を尤もらしく言った。
「最後に一つだけ。公国の系譜……あなたの正当性を裏付けるための資料に目を通しておきたいのですが、公文書庫へ入る許可をいただいてもよろしいか?」
「公文書庫?」
ロックハーティアの白い病み上がりの顔に、かすかな不快が差した。バフォメットは公女のわずかな変化に微塵も気づかなかった――ふりをして、不思議そうに訊き返してみせる。
「何か不都合でも? 面倒と思われるのは承知ですが、王位継承にも証拠の有無は決定的なものになりますが」
「…………分かったわ、あなたが立ち入る許可は出しておきます」
「感謝します」
「いいえ。今後ともよろしく、帝王製造機さん」
バフォメットは静寂(しじま)が打った妙な沈黙を数えて、退出した。
ロックハーティアは公文書庫に入られることに難色を示していた。通してくれたのは、やましいことがあると勘ぐられるのが嫌であったからと、バフォメットはみた。
(何にせよ)
(狂言暗殺の実行犯の行方と反王家の尻尾は掴んだ)
(やはりこの憶測は、もっと早くに確信とするべきだった)
公文書庫へ移動したバフォメットを、公国の役人が迎えた。公国の役人の間ではバフォメットがメリルを支持しなかったことが有名のようで、公女からの連絡があったにしても歓待といったひとあたりのよさで迎えられて中へ通される。
「お待ちしておりましたよ、バフォメット様」
随分と信用されたものだ――胸に片手を当てて礼に代えながら心の中で呟き、そのまま役人についていく。
公文書、特に機密文書を保管する部屋の鍵が開けられると、役人は親切に言った。
「公女様からご用件は聞いています。確認が住みましたら、一言お声がけください」
「ありがとう。後で呼ぶから、もう下がってもらって構わない」
バフォメットは扉を後ろ手に閉めると、ゆっくりと息を吐いた。あまり、長居はできない。早く目的の、証拠を見つけなければならない。
見たい資料に目星はつけてきた。まずは公女一家の系譜を示す家系図を探して広げる。現領主であるロックハーティアを中心に先代領主である公女の父、帝国から人質として降嫁されたアルフレッド先王の姉に当たる公女の母と、順に視線を移していく。
この、先王の姉、公女の母が問題なのだ。アルフレッドが姉を人質になど出さなければ敵国にわざわざ薔薇の血を分けてしまうことも、王位継承戦争を拗らせることもなかった。反対した記憶が苦く甦るが、今は先王の横暴を止められなかったことを悔やむよりも果たすべきことがあると己に言い聞かせ、バフォメットは古い羊皮紙の表面、系図の線を指でなぞった。
バフォメットが確かめたかったことは、重要なことではあったが、極めて個人的なことでもあった。別に公女の正当などどうでもいい。ただ、個人的に気にしている事柄が、スカーレットを救出するための切り札になる可能性があった。先の領主の子の存在を見て、嫡出子が公女ロックハーティアのみとなっているのを確かめ、眉をひそめる。
(先代には、もう一人……子が、公女の下に、公女とは母親が違う男児がいたと思ったが……)
バフォメットは指先の露出した手袋をした手で紙を触っていたが、ふと違和感を覚えた。古めかしい色合いの羊皮紙の焼け具合に、加工の可能性を見たのである。見た目が古そうな割に、紙の肌触りが新しいもののそれである。
(これは……古く見せるための、細工か?)
公女の横顔、悪辣に次期君主の座を狙う悪姫の表情が脳裏をかすめていく。
(わたしの記憶が間違っているはずがない。だが異母弟、他の子供の痕跡もない)
(消されたか? あの公女のことだ……だが母親が違うから異母弟は薔薇の血縁ではない。存在したところで問題にはならないはず、どういうことだ?)
バフォメットは一旦系図を置いた。書庫内を注意深く見渡し、床に入っていた切れ目を見つけて凝視する。床は全面が四角い板を並べて埋めたような様相であったが、その一箇所だけ、床の木目の溝が、他の板に比べて幅があったのを目敏いバフォメットは見逃さなかった。
問題の床板の前にしゃがみ、縁に手をかけると、床板は呆気なく持ち上がった。埃っぽい地下階段が続いている。
バフォメットは足音を殺してすばやく階段を下りた。しばらく誰かが入った形跡はなく、照明もなかった。マントの内側からマッチの箱を出して、火をつけると、手近な棚から適当な文書を取る。保管されている書類の重要度と分類を見極めるためだ。
棚から掴んだ紙は公国が帝国と戦争をしていた当時に書かれたと思われる作戦の案をまとめたものであった。バフォメットは一目で、此処にある情報の重要性を察すると、久しく火が入っていなかった壁の蝋燭に火を入れて、探しものをはじめた。
「あった、これだ」
やがてバフォメットが引っ張り出したのは、公国の系図であった。上階で見たものと質感は似ているが、本物の古さを持つ羊皮紙である。灯りの下へ系図を持っていき、先代の嫡子の欄をすぐに確認する。そこには……
「〝グリノールズ・リリーネット〟……やはり男児は存在している」
危うく精度の高い模造品に騙されるところであったが、バフォメットは本物の系図を掴むと、懐からある書類を出して、代わりにしまっておいた。火を消して階段を隠し、上階にて一人思案する。
(これで一つ、ねたは用意できたが……男児は存命なのだろうか?)
(もし既に死亡していたら、他の物的証拠がない限りこの手はつかえない……証拠が更に必要だ……)
バフォメットは扉に手をかけた。
(渡すものか、あの玉座は、臣が捧げるもの――今こそ、励まねば)
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