白薔薇姫と荊の剣

剣城かえで

序幕『薔薇の目覚め』

 小さな手を取って、ひた走っていた。揺れる重たいドレスのすそをからげることさえ忘れて、今にも崩れそうな深紅の結い髪にさえ気付かずに、握りしめた小さな手と金髪の下の恐怖を顧みて唇を噛む。

 何処へ逃げても少女たちが暮らしていた宮廷の奥を、粗暴な足音が追ってくる。姫を殺せと喚く声が伸びてきて、ドレスのすそのフリルを掴もうと迫る。

 不意打ちと呼ぶにふさわしい反旗のはためき。何処へ行っても敵兵はいて、隠れても見つかったら一巻の終わりだ。味方の元まで走るしかない。だが軍の高官は敵兵の鎮圧に行っているという、絶望とは無縁の少女たちの箱庭を、追手の足音が侵し荒らしていく。

 役人たちがいる宮廷へ逃げ延びたが、そこには血の海に横たわる自国の兵士たちの屍が累々と倒れていた。安全とはほど遠い光景に胃の中が粟立ち、眩暈がするような腥い血の香りに足がすくむが、赤髪の少女は自分にすがる金髪の少女の手を引いて再び走る。

 だがつないでいた手が離れたのはすぐのことで、剣を持った敵兵が二人追いついてきた頃合と等しかった。兵士の屍につまずいて、金髪の少女が転んでしまったのだ。

 逃げても子どもの足ではすぐに捕らわれる距離にまで詰められたとき、赤髪の少女は逃走を諦める英断を下した。瞬きよりも短い時間、弾けた光のようなすばやさで、死んだ兵士の腰から銃を抜き取る。相手は剣、銃ならば此方に分があると、弾丸が装填されている重みが確信の引き金を絞っていた。頭に狙いをつけて放たれた銃弾は敵兵の頭部を破砕、次いでもう一人の脳漿をぶち撒ける。

 金髪の少女が呆然と、擦りむいた膝の痛みも拭われたように自分に視線を送ってくるのが分かる。発砲の反動で痛む細い手が銃を取り落とし、血の海の飲まれると同時に髪留めが緩んで上品な赤毛がはらりと散った。

 手は痛むのに、震えているのは心の方であった。ひとを殺したことにではなく、噛んだ戦いの欠片、その甘苦さが心地よくて戸惑いと共に震えていた。

 途端に襲ってきた安堵にくずおれてしまうと、赤いドレスのすそを飾るクリーム色のレースとフリルが血の海に沈んで赤を啜った。

 金髪の少女が傍にいざり寄ろうとしたそのとき、赤髪の少女が本当に安堵できる、自分たちを呼ぶ声が脱力した身体に響いた。


「姫! 殿下!」


 顔を上げると赤薔薇のコサージュをマントにつけた首席執政官とその部下が駆けて来る。首席執政官は赤髪を乱した少女と、血まみれのドレス、側で蒼い硝煙をくゆらせる銃を見やってかすかに唇を震わせる。


「姫、これは一体……」


 こぼれた血のような赤毛、長い前髪の間で、赤薔薇を閉じ込めたが如き深紅が、炯々(けいけい)と、それでいて虚ろな灼熱を含み燃えていた。


「私が、撃った」


 首席執政官は少女の内に秘められた血に戦慄しているようであった。ただ深く追及はせず、部下に金髪の少女を安全圏へ連れて行くように命じる。

 金髪の少女は移動を促されると、不安げに振り返った。赤毛の少女の身を案ずるように。


「ねえ――」


 赤毛の少女が首を横に振って、何か言うのを制止する。それは何の呼びかけであったのか。

 赤毛の少女が立ち上がると、残った首席執政官はすぐさま少女を抱きしめた。


「ご無事でよかった、姫……!」


 赤毛の少女は抱きしめられながら、血を啜って重いフリルから血が滴る音を聞いていた。少女はうわ言のように、呟いた。


「やっぱり私は……ドレスのすそを刻んで捨てるのだわ」


 首席執政官は少女の髪を撫でて腕の中から解放すると、可憐な白い手を取って口付ける。


「臣は姫のドレスのすそよりも、姫のものになったこの国を望みます」

「――私は、父とは違う」


 柔い指先は拒絶を示すようにそっとほどかれる。あどけない美貌に浮かぶ毅然が、薔薇のように香った。


「貴方のものには、ならないわ」



 それから十年ののち、赤みのかかった金髪(ストロベリーブロンド)を短く切り揃えたかつての少女は白薔薇のようなふわりと豪奢なドレスを纏い、父である王や国の高官、貴族たちに見守られて十六歳の誕生日を迎えていた。立志式のスピーチが、もうすぐはじまる。

 美しく成長した王女メリル・ボーフォートは、戦姫を思わせる赤髪の女将校に手を引かれて宮廷のバルコニーに立った。美しい王女を一目見ようと集まった国民の前で優雅にドレスのスカートをつまんで一礼し、メリルはゆっくりと息を吸った。


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