『白薔薇姫と荊の剣』
喪服姿のメリルは悪魔が去った日と同じようにバルコニーに立っていた。黄昏色に染まる空を見つめていた。あの日崩れた階段と割れた硝子は直されていたが、生々しい気配と爪痕は残っていた。暗い外気が硝子を鏡のようにしてメリルの愛らしい美貌を映している。もう薔薇の指輪が消えた指先で硝子に触れようとして、あのとき砕け散った刃の激しさが脳裏に閃く。炎に指がかすめたように、メリルは恐ろしく思う。美貌を引きつらせ、手を引っ込める。
何の、幻を、
(あの方はもう、いなくなったのだったわ……)
見ていたのであろうか。
メリルは震えた息を整えた。我に返って、消えた悪魔の残像を瞼の裏から追い払う。
帝国の混乱は避けられた。事変ののち、グリノールズが事後の混乱を防いで議員や貴族たちの再編と、軍に残っていたスカーレット派を説得して諌めたためである。新しく貴族として迎えられた家も多く、新たな君主による新たな国のはじまりを思わせる事業であった。
今日は事変による犠牲者のための慰霊の式を終えて、メリルは明日に戴冠式を控えている――そんな宵のことである。
誰かが階段を上がってくる。涼しくなってきた夜にメリルが小さく肩を震わせたとき、声をかけてきたのは今まさにメリルの心の中にいたそのひとであった。
「メリル、風邪をひくよ?」
メリルが振り向くと、階段の途中でグリノールズが足を止めて此方を仰いでいた。その手には大きなストールが畳まれている。
「公子……」
「此処じゃないかと思ってたんだ」
グリノールズは色素の薄い金の瞳に優しい光を宿して、メリルの肩の上にストールを広げた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
メリルはストールをひらりと巻いて、ぽつりと言った。
「本当に……あなたには何てお礼をしたらいいか……」
グリノールズは怪訝そうにしていたが、メリルの言わんとすることを察したのか、苦笑して硝子戸に寄りかかった。
「ぼくはぼくができることをしただけだよ。ぼくはやっと、自分が戦える場所を見つけたから」
「戦える、場所……?」
「クロード少将を止められなかったときに、思った。ぼくは血が流れる場所では力にならないって……ぼくの戦場は宮廷で、無理に他の場所で戦う必要はない。それぞれ戦場が違うから身分と役割があるんだと思ったら……ぼくは動いてた」
遠くを見つめていたグリノールズはメリルの方に視線を戻した。
「君には君の役目があるんだ、メリル。役目じゃないことまでできてしまったら、誰もがいる意味はない。できることをすればいいし、君はこれからそんな王になって、周りをつなげていく存在になっていくんだ……きっと、いや、必ず」
メリルはしばらく黙っていたが、そのうちに明後日の方を向いた。真顔で臆面なく力強い言葉をくれたグリノールズに、どうしてか正面から感謝できなくなる。
メリルは背中で、小さな手を組んだ。
「そうね……公子、わたくしはあなたを少し見直したかもしれませんわ」
「ははっ、それならもっと見てもいいんだよ」
そっぽを向いていたメリルの前に回り込んで、グリノールズは微笑んだ。
「ぼくの戦場は君と同じ場所。君を助けていけるくらい、これからぼくは強くなる」
――メリルとグリノールズを探していた二つの影が、静かに階下から離れていった。
「公国の王子様はいいことを言うな」
呟いたのはダズマールで、スカーレットが微笑みを相槌に代える。軍人寮へと道を引き返しながら、ダズマールとスカーレットは若き君主たちを残してしばし無言で並ぶ。宮廷から続く通路に足音が反響する。
ふと、ダズマールが立ち止まった。しかしスカーレットは先を歩いていく。細い背中に注がれる視線を悟りもせず、凛とした赤い瞳は先を見つめている。
遠ざかっていたスカーレットが傍らの気配が変わっていることに気づいたのは、しばらくしてからのことであった。
「ダズ? 何してる、戻らないと」
訝しむようにダズマールを見やる美貌と、ダズマールの足元は温度が違っていた。
スカーレットは、立ち止まったダズマールの元に戻ろうとはしない。
「どうかしたの?」
十メートルほどの距離を、スカーレットは瞬きの狭間に見つめた。ダズマールが寂しさと複雑を噛むような顔で此方を見ている理由が分からない。
「何でも、ない」
ダズマールは俯いて呟いたが、下を向いたのはそのときだけで、前に向き直ったときにはどうしてか苦笑を浮かべている。軍服のポケットに両手を突っ込んで、再び歩き出す。
「スカーレット、お前に言おうと思ってたことがあった」
「私に?」
スカーレットは背の高いダズマールを仰ぎ見た。だが今度はダズマールがスカーレットの横を通り過ぎていく。悠然と、余裕を込めたような歩幅は広い。
「言おうと思ってたけど、今は言うべきときじゃないみたいだ」
首を傾げたスカーレットは、ダズマールに置き去られたようにぽつんと立ち止まる。
「ダズ……?」
スカーレットは立ち止まらずに歩いていくダズマールを追おうと大股に踏み出した。
「待って、置いていくな」
ダズマールは踵を巡らせたスカーレットの手を取っていた。
「置いてなんか行かない。お前が剣として生きるなら、おれも剣として隣に立つさ。今までだってそうしてきたんだ」
黄昏色の影が、闇の内へ消えていく。久しく穏やかな宵は傾き、暗がりはやがて輝かしい暁となる。
スカーレットもメリルも、この夜を眠らすに明かしたのであった。一雫の黎明を見届けるために語らい、共に一つの終わりを見たのである。
――白地に金の刺繍で薔薇を縫い込んだドレスを纏ったメリルは、戴冠を前にして跪くことをしなかった。新しい大司教、王に神性を渡す役目の者が、跪かないメリルに何か言おうとすると、メリルは言った。
「わたくしに冠を授けられる者は、この世に唯一人」
メリルは顧みたのであった。群衆と来賓、貴族たちや軍人たちであふれている場所であるにも拘らず、メリルの瞳は迷うことなくそのひとを見つめていた。
「首席執政官スカーレット・ハークネス中将!」
大聖堂に詰めかけた人々はざわめいた。高い靴音を響かせたスカーレットは礼装の軍服に真新しい首席執政官の紋章と、赤い薔薇のコサージュを二つつけて登壇する。
メリルとスカーレットが同じ至尊の壇上に並ぶと、報道の者たちが一斉にフラッシュを焚いた。
メリルはスカーレットを仰ぎ見て、言葉を続けた。
「さあ姉さん、共にこの至尊を美しい花で飾っていきましょう」
言って、メリルははじめて跪いた。スカーレットは台座に置かれていた冠を、まるで剣の柄を掴むように取った。
フラッシュとシャッターの瞬きよりも、国民の声が大きく聞こえてくる。メリル陛下と呼ぶ声が、スカーレット姫と呼ぶ声が、いたるところから美しい姉妹の支配を待ち望むように熱を帯びている。
そっと冠を乗せて、スカーレットは伏せていた目を開けたメリルに囁く。
「君に、祝福を」
スカーレットは花がほどけたように優しい微笑みで唇を淡く塗らした。メリルはスカーレットの胸に飛び込み、スカーレットもまたメリルを抱きしめてその髪を撫でた。そのときを見計らったように、真っ白な鳩の群れが、幸福な青をした空へ舞い上がる。
かくして血まみれの宝冠はたおやかな白薔薇の手に落ちるが、滴る血がその白を汚すことは決してなかった。メリルが女王として新しく踏みしめていく傍らには、強く美しい赤薔薇の剣、スカーレットがいるからである。
(了)
白薔薇姫と荊の剣 剣城かえで @xxtiffin
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