『赤い薔薇の王女』
明るい緑の葉を透かした暖かな陽射しが、赤い瞳を赤い薔薇の花びらのように、艶めく髪に美しい光沢を以て輝かせていた。上等な紅茶、赤い薔薇、或いは夥しく流れる血の赤を思わせる美しい髪。長い前髪、目にかかっていた一房を静かに整えた指先は、メリルのものである。此処は宮廷の薔薇が咲く中庭、スカーレットは木陰で涼みながら、メリルの膝枕で芝生の上に寝そべっていた。スカーレットはいつもの軍装で、腰のあたりまで丈のある赤髪を複雑に編み込んだクラウンブレードが凛々しく、メリルは白いドレスの肩に落ちている伸びかけのストロベリーブロンドを気にしていた。
束の間の休息と呼ぶのにふさわしい時間であった。公女の罪が明るみになってから二週間が過ぎようとしていた。周りは公国関連の騒動への始末で忙しくしていたが、スカーレットは一人、休暇のような日々を送っていた。メリルが軍に命じ、公国関連の任務からスカーレットを外したのである。帝国内の軍備が手薄になるという尤もらしい理由をつけたメリルであったが、スカーレットに傍に居てほしいことが本心であった。
公女の一連の国家反逆罪をメリルが弾劾したことは帝国・公国以外にも大きく報じられ、メリルの政治家・次期君主としての名声と注目は増していた。スカーレットの方もまた大変な名誉を受けていた。公女の狂言であった暗殺未遂が、幽閉されていた公女の異母弟を救うための作戦であったという政治的広告をバフォメットが筋書きの締めに用意していたことも加わって、濡れ衣には賛美に変わっていた。
愛らしい王女と、王女に仕える美しき女傑――二人の活躍で公国の悪しき領主を倒した話は、あまりにも麗しく報道を彩っていた。当の本人たち、メリルとスカーレットは過剰に美しく自分たちの関係を伝えている新聞やラジオに対して、苦笑を否めないというのが正直な気持ちであった。
「呆れたものだよ、民衆も他所の国の連中も変わり身が早い」
「でもわたくしは嬉しいですわ。貴女への評価が、やっと貴女が受けるべきものになったのですから。国にとっても良いことですわ」
「そうか……そうだね。私も君の正当が、誰もが跪く事実になったことを嬉しく思うよ」
スカーレットの赤い瞳は優美に細められ、長い睫毛は日頃の鋭さを忘れていた。
そこへ異なる二つの足音が近づいてくる。軍靴が草のしとねを踏み分け、そのあとを軍装ではない軍靴が足音を重ねている。
「相変わらず……仲のよろしいことで」
そう呟いてマントを翻したのは、首席執政官バフォメットである。ぼさぼさの長い髪の間で、温かみに欠ける垂れ目をぎょろりとさせて、メリルを見やる。メリルとスカーレットは立ち上がる。頭一つ分ほどの身長差がある女将校と王女が並ぶと、バフォメットは傍に居たミゼルよりも前に出て、恭しくスカーレットの手を取った。肉の薄い手、手袋をした華奢な手の甲に口付ける。
「ハークネス中将、ご機嫌麗しゅう」
スカーレットは苦笑して、慇懃な魔物を窘めるように言った。
「バフォメット、私は軍人だ。それしか挨拶を知らないわけじゃないだろう……公国関連の仕事は済んだのか?」
「はい、残すは正式な公国併合と公女の余罪追求で、クロード少将が先程帰国し、報告を受けました。エリク公……グリノールズ公子の回復も順調だそうです」
振られたにも拘らず、バフォメットはしれっとした口調のまま腕をマントの中に戻した。
「今は公文書庫の方をローランド大将が調査中です。怪しいものが残っていてはいけないゆえ」
「そうか、ダズはまだ公国に……」
「公女の自害で戦局は大きく変わりはしました。だが、まだ、これからです」
黙っていたミゼルが口を開いた。スカーレット救出に関する一連の作戦を通じて、知らなくてよかった父親の正体に触れて以来、今までになかった冷静を備えたようである。
目の奥に悲壮の星が瞬く後輩に対して、スカーレットは一概に良いことだとは言えなくて、公女の死後に聞いたミゼルの父の話には触れずにいた。
「反王家の奴らが、これからまた動きますよ。あいつら、中将が執政官に昇って焦ってるはず……公女が死んで自分たちとのつながりを暴かれないように、何かしてくるはずです」
忌々しげに吐かれた言葉に、バフォメットが続けた。まだまだ安心できるところには来ていないのだという現実を改めて突きつけられて、スカーレットとメリルの表情は険しい。
「反王家……四年前の紛争で公女と通敵し、中将を捨て駒にした彼らは、公女の死によって回収された情報が中将に知られた今、報復を恐れていることでしょう。中将はまだ危険に曝されていると言ってもいい」
バフォメットは慎重な口調で、呟きを響かせる。
「反王家勢力は、とても狡賢い。臣が協力を続けるのは終わりかと思いましたが、彼らを消すことに関しては尽力致します」
メリルは神妙な面持ちでバフォメットを見た。
反王家を倒すことでのみの協力――そこに含まれた凍えた感情に、メリルは沈思する。ミゼルの方も目の端に置いて、改まって、この結託が一枚岩でないことを胸に刻んだ。スカーレット奪回という共通の目的が達成された今、かつての協力は不安定なものとなった。
メリルの金の瞳に、昏い光が走る。感情だけは穏やかな要素を保ち、一人違う内容へ真剣な想いを馳せる。
(気をつけた方が、いいかもしれない)
その場と異なる思考のままに、メリルは不安だけを隠して、傍らの背が高いスカーレットの美貌を仰いだ。
赤に彩られた凛々しさを目に焼き付け、そっと胸の上で指を重ねる。自分にはスカーレットが傍に居てくれるし、ダズマールという味方もいる……
視線に気づいたスカーレットが、此方に微笑む。メリルはスカーレットのきりりと清らかな笑みを見つめ、はにかんだ。美しいと、思ったのである。
――結った赤髪を留めていた金細工の髪留めを外す。黒いレースの下で、血のような、昏い光沢を放つ長い髪が背に散る。黒いカクテルハットから広がったレースの中、凛とした眉目が寂しく佇む。翳りと哀愁を帯びた瞳が映すのは、小さな墓であった。墓碑銘、生没年は、刻まれていない。
スカーレットは髪を下ろし、細身の黒いドレスを着て墓石の前に立っていた。肩を出し、腰の細さを際立たせるドレスは、すそが柔らかい花びらのようであった。薄手のショールと普段は持たない黒い花模様の日傘が、日頃の軍装とかけ離れているが、此処にはスカーレットを知る者が不在のために、影を刷いた美貌に〝血まみれ将校〟の綽名を探す者もない。
スカーレットはそっと、赤薔薇の花束を、名のない墓に供えた。いつもの癖でドレスのすそをからげるのを忘れたが、様々な想いの前にどうでもよくなっていた。それ以前に、自分はもう、ドレスのすそを刻んでしまっていたと、今更な想いがかえって感傷を呼んでいた。
スカーレットは優しく目を細めた。その声は疲れていて、芯の力強さはあっても、何処か虚ろな弱々しさがあった。
「お母さま……」
しばらくの間、スカーレットは呟いたきり、黙っていた。夏風に赤髪を艶めかせて漂わせ、日傘の柄をレースの手袋に包まれた繊手で握りしめる。言うべきことと言いたいことの多さに、口をつぐんでしまう。
此処はスカーレットの母が眠る墓所であった。今はスカーレットが爵位を持つデネロス伯爵家──スカーレットの母は先代の当主で、女伯爵であった。
早くに父親を亡くしたスカーレットの母は、母である未亡人から一流の貴族に引けを取らない教育を施され、貧しい没落貴族には変わりはなかったものの、後ろ盾がない中で宮廷に勤めていたと、スカーレットは聞いている。
美しい赤髪の、才媛――そう教えてくれたのは、誰であったろう? 最早スカーレットの記憶にはない。
「王が死んだわ、お母さま」
返事は、ない。だが仮に母が健在であったとして、生きている母がこの訃報を聞いたところで返事がないのは分かっていた。腹いせに近い言い方をした自分を醜く思った。それでも母に、肚裏の闇を聞いてほしかったのだ。
スカーレットの母は、誰よりも王を恨んでいた。最期の言葉さえ王への憎しみに捧げ、母は死んだのだ。しかし、命があろうとなかろうと、母は王を赦すことがなければ、その崩御を嘲笑うこともしない――そう思うと、自分ばかりが心の中を血だらけのままにして生きているようで、空しさが荊棘めいて絡みついてくる。
「会いに来るのがとても遅れてしまったこと……お母さまは許してくださるかしら」
スカーレットは虚ろな瞼を一度閉じて、苦笑する。どうしても、母の元に来ると悪い意味で自分らしくいられないのだ。強く美しい、凛々しくいて常に正しい。軍人の鑑。麗しい戦姫。だが、母の前では全ての煩雑な物事はなくなって、母の娘でいられる。そんな安堵があるから、自分らしくない自分の時間に、不思議と嫌悪はなかった。
「今年は……お母さまの命日と、メリルの立志式が重なってしまったの。そのあとすぐに王が死んで、此処に戻っていられなくて」
問われてもいないのに釈明をしながら、スカーレットはまた唇を噛んだ。
母の命日。メリルの立志式、十六歳の誕生日。メリルの、母親……
寂しい煌めきを赤い瞳の中に見つけた幼き日の自分、そのときの凄愴なな想いが、複雑にこみ上げる。三人をめぐる日付は、スカーレットに疲れた思い出を残して今も遠ざかっているのに、とても割り切れなかった。
「……私が、メリルの剣になることを、どうかお許しください」
スカーレットは涙に咽ぶような声を絞った。俯いた背は、寒くないのに震えている。
「あの子に、メリルに罪はなくて、私にも罪はない。そして……お母さまにも」
スカーレットは心の涙を、止めた息と共に飲み込んだ。
長い赤髪が泣き崩れるように、風の中で荒ぶった。黒いレースがあしらわれたカクテルハットが、足元に落ちた。力ない指の間から、悪戯っぽい風の笑い声が、日傘を持ち去った。
戻った静寂(しじま)を噛み締めてから、スカーレットは薄い唇を開いた。妙に温かい風が消えた空を呆っと仰いで、雲一つない幸福な青から母の前に向き直ったときには、美貌に虚脱の色があった。にも拘らず、毅然と前を向いていて、横も後ろも、まして下など見ていない。
「私は、憎しみの力で生きるには疲れてしまった」
スカーレットは今度こそドレスのすそをからげて、カクテルハットを拾った。砂を払って、話を続ける。
「メリルが王になり、その傍で私がメリルの剣となれたら……今は卑しい荊でしかなくなった私も、お母さまの血筋を、きっと讃えてもらえるわ」
スカーレットは帽子を赤髪に乗せた。高いヒールを履いた足が踵を巡らせる──そこで、転がった傘を拾い上げた人物に目を細める。
温かみのない目で微笑したのは、バフォメットであった。日傘をたたんで、スカーレットに差し出す。
「どうぞ、スカーレット姫」
スカーレットは日傘を受け取った。礼の代わりに短い溜め息をつく。感傷的な今に最も触れてほしくないような存在の出現に対する思いが、露骨にこぼれる。
「何をしに来たの、バフォメット?」
「墓参りです、と申し上げておきましょう。葬られた者の墓へ他に何の用事があると仰る?」
「葬られた、か」
スカーレットは苦々しく呟いた。寂しい葬列と国教に葬儀を許されなかった母の柩が運ばれていく侘しさを思い出した。そして、幼かった自分と手をつないでいてくれた目の前の怪傑を――母は、葬られてなど、いない。
「姫の美しさには眩ゆい黒が映えますな。執政官昇進の式典では、黒の礼服を作らせましょうか」
スカーレットが失笑しかけると、バフォメットは往年の故人を思い出す懐古の情を以て呟いた。
「姫は年々、母御に似て美しくなっていらっしゃる」
「…………」
失笑は悲しげな苦笑に変わっていた。カクテルハットを押さえた細い手が、黒いレースの揺らめきと共に、白い美貌を隠していた波打つ赤髪が、ふわりと風に遊ばれる。
「私はそんなに、母に似ているか?」
バフォメットは昏い瞳をかすかな優しさを以て細めた。再び顔を上げたスカーレットの麗貌を見据え、その成長を長く見守ってきた者として頷く。特に何かを述べることもなく、置き忘れられたような寂しさが、口元に佇んでいた。
スカーレットはバフォメットを目の端に置いて、母の墓を見つめた。
「それは、よかったわ」
「ですが、姫のその赤髪と瞳にこそ、黒いドレスと剣にこそ……最上の高貴がある」
「私はメリルの剣になる」
バフォメットが持ちかけた符牒に対するスカーレットの返事は、冷たさを備えたにべなさがあった。暗号めいたやりとりであったが、スカーレットはバフォメットが言いたいことを分かっていた。赤毛の散った華奢な背をバフォメットに向けて、
「私はメリルの剣になるんだ。メリルの作る争いのない国に、最も不要な剣として仕えていく」
「例え母御が赦そうと、臣は姫をそのような屈辱に甘んじさせることを赦さない」
しかし、返ってきた言葉には、強い感情がこもっていた。決して荒くない声音が、スカーレットの心臓を背後から貫くように迫り、刃めいた想いが、突き刺す頃合いを窺うように止まっていた。
スカーレットはらしくないことを言うバフォメットに、説得するつもりで諭した。
「あの子に罪はない」
「殿下は存在そのものが罪です」
説得は一瞬で空しい花と散った。スカーレットはゆらりとドレスを翻して、バフォメットを見やる。何か言いたいような気がしたが、薄い唇が重く、赤い瞳で無言の圧を飛ばす沈黙をとる。
「殿下は略奪者だ」
だがバフォメットもまた日頃の飄逸さを拭い去った面差しでいた。その語気に〝帝王製造機〟として、のらくらと中枢をしろしめす者の悠揚はなかった。温かみに欠ける灰色の瞳の奥で、冷たい炎がぐらぐらと燃えている。
「殿下は姫から地位を奪い称賛を奪い、ドレスを奪って名誉を奪った。血まみれの軍服を押しつけ、姫を荊道へ追いやった」
「殿下の持ちものは全て姫のものだったはず。臣は姫を貶めた殿下や先の王を赦さない。本当の正当は、姫にこそある」
「どうしてそこまで……私の母の、名誉のためか」
スカーレットは呆れた吐息の織られた問いを、確信と共に投げかけていた。他に理由が見つからなかったのだ。
バフォメットがメリルをまるで障壁であるかのように扱っているのを、スカーレットは知っていた。現にバフォメットはメリルが生まれたときも祝福の言葉を述べず、誰もが讃美する容姿さえ褒めない。バフォメットがまともにメリルに言葉をかけたのが、スカーレットが旧公国に捕らわれて初めてだという話も聞いている。
この魔物の中で、メリルがくだらない存在ということは事実のまま──きっとバフォメットにとって問題なのは、スカーレットの意思の方なのだ。メリルのためにスカーレットがその臣下となることを、バフォメットは己の屈辱以上に屈辱と考えている……
バフォメットはもう、スカーレットの母の墓など見ていなかった。寂しく風にこすれた花束の包み紙が、乾ききった声に重なり──スカーレットは魔物の想いを聞いた。
「母御の名誉は関係ない……名誉と花冠は姫に、姫にこそ」
バフォメットは左胸に手袋をした手を伸ばした。触れたのは、赤薔薇のコサージュである。執政官章をつけた左の襟の反対にも、赤薔薇のコサージュは咲いている。
枯れ変わることを禁じられた、朽ちることのない薔薇(ブリザーブドフラワー)──スカーレットは遠い日をバフォメットの目の奥に霞み見て、呟いた。
「その薔薇……いつまで持っているつもり? 捨ててしまえばいいものを」
「姫はこの施しを、お忘れではあるまいな? 臣の心を奪った、あの台詞も……」
コサージュに手を当てたまま、バフォメットは微笑みと涙の間をたゆたうような目をした。スカーレットは沈黙した。薔薇を手放すようにやんわりと言ったことが、本当は捨てるようにと伝えたかったものなんて、恐らく伝わっていない。どうしてか、急にこの場を去ってしまいたい気持ちになる。
「台詞……ドレスのすその話か?」
「それだけじゃあない」
バフォメットはスカーレットにそびらを向けたところで、翻したマントの端に触れた。指先の露出した黒革の手袋が、鋭い光沢を撥ねる。首が、ゆらりと此方へ動く。
「永い間、臣は常に支配者でいましたが、今回は場合によっては駒になることも辞さないでしょう……臣には殿下を貶める強力な切り札があり、何より機会は、いくらでもありますゆえ」
「メリルを貶めるだと? バフォメット、そんなことを私が許すとでも」
「臣は姫に殉じましょう。姫の名誉を讃える声を、臣は捨て石となって聞くことができるのならば本望です――そう申し上げておきましょう」
――先にいなくなったのはバフォメットの方で、スカーレットは取り残された。
(バフォメットは)
(いつまであの薔薇を、身につけているつもりだろう……?)
バフォメットの胸と襟を飾る薔薇は、スカーレットが渡したものであった。
だがそれは、遠い昔の話だ。バフォメットは自然な花の命を、ねじ曲げている。執着が摂理を、ねじ曲げている。
嫌な予感がした。スカーレットはあの頃のままではないのに、花だけが、昔のまま。
風が吹いた。赤い髪と共に、むしられた花びらが昏く躍っていた。遥か遠くを見るスカーレットの赤い瞳は酷く虚ろで、心に描いた不審だけを、近い未来のように映し出していた。
公国での任務を終えて休暇に入っていたミゼルは、軍人寮の裏手にいた。私服のシャツに細身のズボンという姿は、軍装とは違って年齢相応に若く、頼りない格好であった。時折同期や先輩の軍人が通りがかるが、誰もミゼルに声をかけなかった。明らかにミゼルは避けられていた。だが何も思わないミゼルは、無表情に柔らかな風を浴びていた。寮の壁にもたれかかって遠くを見るミゼルの目は、殺伐とした光に満ちているのに、何処か空しかった。
反王家勢力の首魁である父・次席執政官クロードを一人で片付ける方法を、ミゼルはずっと考え続けていた。しかし、父は仮にも次席執政官という宮廷の実力者には違いない。少将とはいえ、軍人では宮廷の政治家に立場では敵わない。自分の力ではどうにもならない現実があった。
「親父、か」
どうしてか、今、久しく戻っていないクロード家の屋敷を思い出す。士官学校に入って以来、一度も帰っていない家。家どころか、父以外の戸籍上の家族と殆ど絶縁しているミゼルは、父への怒りが連れてきた苛立ちに溜め息をついた。俯くと、くしゃくしゃの金髪が目元に翳りを落とした。
ミゼルは前髪を掻き上げて、気分を変えるよう努めた。
(首席執政官を味方につけられれば)
スカーレット救出のために協力したバフォメットの存在が頭をよぎる。バフォメットは宮廷での絶対的権力者、位は父を遥かに凌ぐ。だが今回の協力があったとはいえ、政敵の息子である自分と手を組んでくれる保証はない……
ミゼルがぼんやりと顔を上げたとき、目の端に黒い人影が映った。風に揺れた黒いレース、カクテルハットのヴェールから覗いた赤髪に、ミゼルは大きく目を開いた。
「中将……」
黒影の正体はドレスを纏ったスカーレットであった。たたまれた日傘を片手に、軍人寮まで戻ってきたところのようで、此方に気づいて立ち止まる。
「ミゼルじゃないか、こんなところでどうしたの?」
カクテルハットを取って赤毛を風に躍らせたスカーレットは、どうしてかいつもより、優しく見えた。ほどいた髪の美しさと、穏やかに微笑んだ白い美貌、豪奢なドレスのすそが尊く、気高い花が香るような高貴──ミゼルはどうしてか、慄(ふる)えた。恍惚がいつまでもミゼルを支配して、何も言えずに時が移っていた。
「もう、聞いてますよね……オレの、親父のこと」
ミゼルとスカーレットは寮の建物へ戻りながら、共に歩いていた。公国に出向いている軍人が多く、寮の敷地にひとは少ないが、父の話がしたかったからミゼルはひとを避けたのである。スカーレットはミゼルの出生と出自の詳細を知る唯一のひとだから、尚更話を聞いてほしかった。
「クロード卿が反王家の首魁だという話は、ダズから聞いた」
「中将は、オレが憎くないんですか」
「私を陥れたのは、お前じゃないよ」
スカーレットはうっすらと笑みを浮かべて、続けた。
「それに私は……お前が父親のことで苦しむ姿を見たくない」
ミゼルは立ち止まる。スカーレットもまた立ち止まり、ミゼルを顧みる。
「もう、充分だろう?」
そう呟くスカーレットの赤い瞳はやはり優しく、それでいて唇には力がこめられている。ミゼルは泣きたい気分であったが、スカーレットの前で情けない格好を見せたくなくて、涙の匂いを飲み込んだ。表情が、今にも崩れそうに強張る。目の奥がにじんだ一粒の涙にちくりとしたのを、ミゼルはこらえた。
名にクロード家の家名こそついているが、ミゼルは妾腹の子供であった。クロードと愛人の子で、母であるひとが死亡したのをきっかけに、父が家に入れて認知し、クロード姓になった。ミゼルがクロード家の屋敷に戻らないのも義家族と馴染めなかったからである。父とは時折話すが、自分の存在をよく思っていない父の妻と、父の秘書をしている異母兄とは年単位で挨拶さえしていない。この苦悩を、ミゼルは士官学校時代にスカーレットに明かしている。
「中将は、墓参りだったんですか?」
「そうよ、よく分かったわね」
「いや……いつも、この時期だったと思って」
スカーレットも私生児という出自であった。ミゼルが境遇を打ち明けたとき、スカーレットはそう言った。スカーレットは長い赤髪を風に遊ばせながら、仕事の都合で予定がずれ込んだ話をする。苦笑を浮かべつつも、赤が映える白皙の美貌は何処となく嬉しそうであった。
「母の命日は、殿下の誕生日と同じ日なんだ。今年は殿下の立志式があったり、私が公国に捕らわれていたから遅くなってしまったのよ。母が怒っていないといいけれど」
ミゼルは再び、追いかけるようにしてスカーレットの隣に並んだ。
ミゼルが知る限り、スカーレットはメリルと、自分の母親の話をするときにだけ、いつもより優しい。何より、厳しい表情でいることが多いスカーレットは、メリルの話をしているときは心から微笑むのだ。
「中将…………」
ミゼルはスカーレットの片腕を掴んでいた。あふれ出る想いが自責の念よりも憧れを強く含むのは確かであった。変わらず美しい赤髪を風になびかせているスカーレットは、赤い明眸を瞬く。その瞳は残酷であった。宝石みたいな赤い瞳は、此方が見つめてみたところで、自分の真摯を映してはくれないのだから。
スカーレットに憧れている男などは数え切れないほど存在するのだ。そして自分も、そのうちの一人でしかない……
結局ミゼルは泣き笑いのような顔になって、スカーレットの腕から手を離した。
「ドレス、似合ってる。女王さま、みたいだ……」
スカーレットは寂しそうに笑って、ミゼルを置いて去っていった。翻ったドレスのすそは酷く崇高であり、孤高に咲く花のような強さが、フリルのひだに隠れていた。
ミゼルは、何も、言えなかった。
「公国は帝国への併合を望みます」
同じ頃、エリク公国の公邸に赴いていたダズマールは、自害した公女ロックハーティアによって牢獄に閉じ込められていた異母弟グリノールズと会見していた。幻覚勢の作用も消えて、保護されたときにはやつれた様子であったグリノールズは回復していた。姉の自害に伴い君主として復権し、現在の世論についてダズマールと話をしていた。
「国民はもう、姉の悪事を知っている。そしてメリル殿下をはじめ帝国の方々のご尽力によってぼくが救われたこともしかと伝え、ぼくが君主として関係改善を望むことを表明しました。今や臣民は長らく続いた不安の時代よりも、両国が手を取り合うことを望んでいます」
「メリル殿下は公子のお言葉をお喜びになるでしょう」
グリノールズをはじめ、公国中枢の新たな布陣はメリルの即位を全面的に歓迎している。公女が消えた以上、公国は帝国の同君連合という存在の安全を選んだのだ。公女が生きていたら戦争さえも辞さなかったであろうが、ぶつかれば帝国と公国の勝敗は明白だ。
この方向で話が進めば、
(メリル殿下も、和平への道をお選びになるだろう)
ダズマールは退出する前に、一つだけ申し出た。
「公文書庫を検めさせていただきたいのですが、よろしいですか? 公子の存在を消した系図のように、公女が改竄した文書があるといけないので」
「構いません。担当の者へその旨を連絡しておきます。此方こそ、よろしく」
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