第11話 薄幸令嬢と吸血鬼の主
小夜が研究所の職員になって二月ほどがたった。
小夜を取り巻く環境が良くなってきて、健康状態が安定したため、ようやくいくらか血を提供できるようになっていた。
ぱさぱさだった髪には艶が入り、痩せ細っていた体はやや肉が付き、真っ青だった顔は血色が良くなっている。
痩せ細っているときは、頬がこけ目ばかり大きく見えていた顔もふっくらとして、もともと見栄えの良かった顔は、少女らしい美しいものになっていた。
懐鏡を貰って以来、いつもひとまとめにしていた髪は、瑛人がくれた着物が映えるよう丁寧に編み込まれて結いあげられていた。
運ばれてきた当時を知る研究所の面々は、容姿も身なりも各段に良くなった小夜を影ながら、よかったね。と言い合っていた。
当初は、まだ血を提供することもできないのにこんな風に自分を扱ってくれるなと言っていた小夜だが、瑛人に君は大切な存在だ。
けれど、いくら僕たちが君を大切に扱っても、君自身が君を大切に扱わなくては意味がない。
僕たちのことを考えてくれるなら、自分を大切にしてほしい。と伝えられた。
なぜ、自分を大切にすることが瑛人たちのためになるのか分からないと首をかしげながらも、真摯な態度の瑛人に負け、言葉に甘えることにして療養期間を心地よく過ごさせてもらう。
この日は蛍が鶏を捌いてくれたので、皆で焼き鳥を囲んだ。
蛍が研究したという、秘伝の焼き鳥のたれは非常に美味しく、この日のために熟成させておいたと聞いて申し訳なく思いながら口にする。
初めて食べた肉の味は非常に美味しく、こんなにいいものをいただいてもいいのだろうかと戸惑っている内に、焼いた焼き鳥の串が次々と目の前の膳に積まれていく。
「ほらほら、早く食べないと冷めちゃうよ」
「焦らせるな、蛍。自分の塩梅で食べてもらえ」
目の前に積まれた串を上品にけれど素早く平らげていく瑛人に驚きながら、少しづつ食べた。
炊きたてのご飯、焼きたての焼き鳥、温かい味噌汁、新鮮な菜。
どれも美味しく、自分のために作られていると思うと、心が温かくなる。
早く健康になって、もっと血を提供しなくては。と気持ちがはやり、ため息をつきそうになって飲み込んだ。
こんな楽しい食卓に、小石を投げ込むような真似はしたくなかったからだ。
「あとね、これ。嫌だったら食べなくていいんだけど」
小夜の前に恐る恐るといった様子で持ってこられたのは、これまでの鶏肉よりも色が深く、やや黒い塊が連なる串だった。
「これは……?」
見慣れないものに首をかしげる。
「レバーという鶏の臓物だ」
「貧血に効果があるんだって。それを聞いてね、血を提供してくれてる小夜ちゃんにいいかもって、旦那が鶏ごと買ってきたんだ」
おかげで捌くのが大変だったよ。とぼやく蛍に、瑛人がすまんと謝っている。
「好みがあるし、嫌なら食べなくても……」
じっと串を見つめている小夜に瑛人が声をかけた時、小夜がぱくりとレバーの串を口にした。
血抜きがしっかりされており、カリカリになるまで焼かれたレバーは、塩が効いていて美味しかった。
「美味しいです。ありがとうございます」
笑顔で一串食べた小夜を、二人が嬉しそうに眺めていた。
食後、瑛人からあんこ玉をいくつか貰った。
その日は満腹で食べきれず、二人が帰った後、貰ったあんこ玉を縁側の月明りで眺めていた。
「やあ、古衣の君。すっかり見違えたね」
庭の隅に生えているイチイの木が揺れたように見えた瞬間、目の前にダークスーツを着て黒のハットをかぶった男が現れた。
「あなたは、不知火家の……」
月明りの下で見た男は不知火十夜だ。
突然現れた十夜に驚き、家の中に駆け込もうとしたが、体が縫いとめられたように動かない。
「そのままで、僕の話を聞いて欲しい。安心して。あなたが招かない限り、僕は家には入れない」
自分は安全だとでも言うように両手を広げる十夜をキッと睨みつける小夜に、困ったように笑う。
「その様子は、もう吸血鬼の存在のことを聞いたのかな」
「出て行ってください。人を呼びますよ」
「怖い顔。心配しないで。僕は、あなたには危害を加えない。それどころか、助けにきたんだ」
固まってしまったから掌から、あんこ玉が零れ落ちていく。
「おや、可愛らしいね。香月の坊やはこういうものが好きだったね」
庭に転がっていったあんこ玉を拾った十夜は、長い爪先で表面を破り、一つ口に含んだ。
「ああ……やっぱり酷い味だ」
せっかく瑛人にもらったものを奪った挙句けなした十夜に腹が立ち、じっと睨む。
鋭い視線に気が付いた十夜は、ごめんごめんと軽い口調で謝罪し、残りのあんこ玉を小夜の掌に戻した。
「遠い昔、まだ人間だったころは君たちと同じように食事を楽しめていたんだよ。けど、今は味覚が変わってしまって楽しめなくなってしまったんだ」
小夜は、最近読んだ本の内容を思い出した。
血を提供するだけで今のような生活を享受することに気が引けて、隼や瑛人に頼み構わない範囲で屍食鬼や吸血鬼に関する資料を読ませてもらっていたのだ。
その中の記述には、不知火家の当主は、元は人間から吸血鬼になった存在だと記されていた。
吸血鬼になることは、人間だったころの体を全て異なる存在のものに作り変える行為だとも。
「僕はね、多くの人が望むような不老不死なんて欲しくはなかった」
憂えた表情の十夜に気持ちが引きずられないよう、もう一度きっと睨む。
「あなたが夜光と会った時、あなたの血を舐めた夜光が一時的に人間に戻っていてね。焦った彼は、再び僕に吸血鬼にしてくれって頼み込みにきたんだよ」
数十年訪ねてこなかったのにね。と笑いながら言う十夜は、どこか自嘲気味ていた。
「それから、夜光が持ってきた古衣に残った香りを頼りに、華峰家を探したんだ」
それなのに、小夜ではなく旭が行儀見習いに来てしまった。とひとしきり嘆くそぶりを見せている。
「小夜ちゃん、あなたは、人間としての生活を忘れてしまった僕に、その価値を再び思い起こさせてくれる。人間として生きて、死んでいくことができる人生を望む希望を与えてくれる。こんなところで売血行為をしなくても、僕の元にきてくれたら、何不自由ない生活を約束するよ。僕の将来の妻として」
十夜は、左手を自らの爪で傷つけ血を流した。その血が宙で流れるように形を変えて、一輪の薔薇の花を形作る。
「嫌です」
差し出された薔薇を断り、険しい表情を十夜に向ける。
「あなたは嘘はついていないかもしれませんが、本当のことも言っていません。そんな人をどうして信用できるでしょうか」
十夜の言葉は、飴のように甘かった。
低い声は直接耳元で響いているかのように耳朶を打つ。
けれど、綿菓子でくるんだような言葉の奥に、苦いものが潜んでいることを感じていた。
「僕の魅了は効かないみたいだね。なら、本当のことを言おう。あなたの血はね、僕たちのような存在にとって誘蛾灯のようなものなんだ」
魅了という言葉に、研究所で読んだ本に、吸血鬼にはそのような能力が備わっていると書いていたな。ということを思い出す。
魅了とは、獲物を誘惑し、なんでも言うことを聞かせる吸血鬼の能力だ。
この能力を用い、獲物に自ら血を差し出させていると書かれていた。
十夜は、先日も今回も、小夜に魅了を仕掛けていたのだ。
急に人ならざるものを相手にしていることを自覚し、背筋が寒くなった。
十夜に視線を捕まえられてから動かなくなっていた体は、必死に小指の先から回すように意識していたら、次第に動くようになってくる。
このまま逃げようか。と逡巡していた時に、誘蛾灯のようなものだと言われ耳を傾けてしまった。
これまで、瑛人たちに聞いても、自分の血のことは最低限のことしか教えてもらえなかった。
そのため、十夜が何か知っているかもしれないと、気になってしまったのだ。
「産まれてからいままで、何か不思議なことがあったことはない? 闇の存在に狙われていたとか、いたずらされたりとか。それは、あなたの血が彼らを惹きつけたことから起こっていたんだよ」
十夜の言葉に、これまで見てきた黒い影のことを思い出す。
あの日、旭の徽章を隠したもの彼らだろう。
「あなたの血はね、僕たちの力を封じる危険なものだ。けれど、同時にその香りを嗅ぐと口に含みたくなってしまう、とても魅力的なものなんだ。だから、僕の手元で管理しておきたい」
管理、という言葉に眉を顰めた小夜を十夜が面白そうに見る。
「僕の元で管理されるのと、この研究所で管理されるのと、何が違うの?」
小夜が怯んでいる気配を感じた十夜は楽しそうに笑った。
「僕の元にくるなら、あなたが死ぬ日まで、高い身分と心地よく安全な住処と贅沢な生活を約束してあげる。その代わり死ぬときは、僕にあなたの全てをちょうだい」
小夜を迎え入れるように両手を広げ、月の下でうかれる十夜の姿が怖かった。
「いやっ!」
差し伸べられた手を思わず払った瞬間、十夜が悲しそうに顔をゆがめたのが見えた。
「不知火侯爵!」
家の中に逃げ込もうと立ち上がった時、小夜の後ろから勢いよく剣が突き出される。
素早くよけた十夜は綺麗に笑う。
「おやおや、早かったね。香月の坊や。今夜はこの辺りにしておこうか。またね、小夜ちゃん」
身をひるがえした十夜の姿は蝙蝠に変わり、月夜に飛び去っていく。
「イチイの木の結界が壊れた気配を感じたから来てみれば」
憎々し気に十夜が飛び去った後を睨んでいた瑛人は、すぐに小夜に向き直る。
「何か、酷いことをされなかったか」
焦った様子の瑛人を安心させるように首を振る。
一見して無事な様子の小夜に息をついた瑛人は、剣を収め帽子を直した。
「すまない。警護も結界も完璧だったはずなのに……」
「いえ、すぐに来てくださいましたから」
小夜の家回りを警護していた軍人は、いつの間にか眠らされていたようで、道で発見されて怪我の有無を見るために研究所に運ばれた。
「後から蛍が来る。念のために、今夜は蛍をここに泊まらせよう」
蛍は瑛人と共に幼いころから武術を学んでいて、護衛程度ならできる腕前だ。と、瑛人が太鼓判を押す。
「君は婚約者のいる身だ。夜深夜に男と二人でいることで評判に傷がついてはいけないから、僕はすぐ帰ろう」
小さく震えている小夜を見て、瑛人は一瞬苦しそうな顔をした。
「だが、お茶を飲むくらいの時間は許されるだろう。あんこ玉にはお茶が合う。僕が淹れるよ」
瑛人の言葉に小夜がほっとしたように笑う。
笑った小夜に複雑そうな表情をした瑛人は、すぐに笑顔に変わり囲炉裏に鉄瓶をかけた。
慣れない手つきで淹れられたお茶は、いつものものよりずいぶん渋く、渋いなと顔をしかめる瑛人の前で思わず笑ってしまった。
気まずげな瑛人とあんこ玉を分けて食べる。
渋かったお茶は、あんこの甘さを引き立てて程よい味わいになっていた。
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