第5話 薄幸令嬢と研究所

 閑静な林の中。


 帝都の外れにその場所はあった。


 香月瑛人の女中である佛木蛍は、仕事を終え、自室で過ごしていたところ瑛人によって急に研究所に呼ばれた。


 黒髪をボブスタイルにして、香月家のお仕着せを身にまとった蛍は、二十代にしてはやや童顔で、猫の目のようにくりっとした目をくるくる働かせながら簡素なベッドで寝込んでいる小夜の世話をこなしている。


 ここは特務陰陽機関。別名を香月研究所と呼ばれる政府の軍部に所属している研究機関だ。


 周囲には同じようなベッドがいくつもあり、それぞれカーテンで仕切られている。



「血清は打ったけど、この先この子をどうするの? 香月のお坊ちゃん」



 白衣姿で、栗色の長髪を一つ結びにしたアーモンド形の薄茶色の目をした整った顔の男が、外した眼鏡のモダン部分を色っぽく加えながら瑛人に問うている。



「隼、お坊ちゃんはやめてくれ」



「あら、ごめんなさい。つい」



 ふふっと笑った男は、女性と見まごう仕草で髪をかき上げ微笑んだ。


 彼の名前は宇佐美隼。


 瑛人の祖父であり、香月研究所の初代所長に能力を買われて雇われた、帝国大学医学部出身の医師だ。



「首筋の噛み傷以外にも、腕は傷だらけ、腹部や背部に痣がある。どれも治療はしたけれど、久々にみたわね。こんな胸糞悪くなるような傷跡は」



 色素の薄い茶色がちな瞳で、苦しそうに寝息を立てている小夜を見た隼は、眉根を顰めた。 


 汚れていた小夜の体は蛍により拭き清められ、蛍のお下がりの浴衣を着せている。


 香月研究所は男所帯で、併設されている病院には看護師はいない。


そのため、汗と泥で汚れていた小夜の世話を蛍に頼んだのだ。



「そのうえ、栄養失調で体は弱っているし、熱は過労によるものね。こんな病人を蔵に閉じ込めておくなんて、殺人行為よ」



「このまま返すわけには、いかないよな……」



 小夜の現状を知った瑛人は、困ったように頭を掻く。



「若旦那はいつもそうやって人を拾ってくるんだから。いい加減にしないと身を亡ぼすよ!」



「そうはいってもな、蛍」



「なに? 保護者から被保護者を引き離すことなんてそうそう出来やしないんだよ。今回のことだって、下手したら誘拐だって言われたかもしれないんだから」



 瑛人と蛍は、主従関係ではあるが、幼いころから共に育ち、瑛人の面倒を蛍が見てきた仲だ。


そのため、蛍は瑛人に遠慮がない。


瑛人も他の使用人には頼めないことも蛍には頼める間柄だ。



「もっと言ってやりなさい。蛍ちゃん。坊ちゃんは基本的に甘いのよ。そういうところがまたいいんだけどね」



 最近まで瑛人は蛍に坊ちゃんと呼ばれていたが、坊ちゃんはやめてくれという瑛人の要請から、若旦那という呼び名で落ち着いている。


しかし、年上である隼の坊ちゃん呼びまではなかなかなおしてはもらえないようで、時折頭を抱えている。



「念のため、下調べはしてから強硬したさ。そうぽんぽんぽんぽん怒らないでくれ。袖振り合うも他生の縁というだろう」



「それなら、彼女の保護は霧城子爵にお願いすべきじゃないのかな。婚約者なんでしょ。あの家での扱いを見たら、保護するはずだよ」



「それなんだがなあ……」



 小夜が血清を受けにこなかったという報告を受けてから、瑛人は幾度か華峰邸を訪問していた。


 しかし、その都度はぐらかされたり、度重なる訪問の際、血清は打たせないと強く言い募る菖蒲の様子に違和感を覚え、内密に華峰家の事情を調べたのだ。


 その結果出てきたのは、華峰家の財政が火の車だということと、屍食鬼に襲われていた少女が華峰家の使用人ではなく長女であり、悪名高い霧城子爵の年若い婚約者だということだった。


 使用人のお仕着せを着ていたので、てっきり使用人だとばかり思っていた瑛人は、華峰家の使用人虐待を疑っていたのだが、蓋をあければ実子だということで驚いた。


 帝都のみならず、この国では使用人への虐待事例が事欠かず、昨今では法律で使用人への虐待的な扱いを禁ずるものができている。


 しかし、家族間での問題に関しては未整備だ。


 菖蒲にも、家族の間でのことだから口を出すなと言われ数度引き下がっている。


 今回菖蒲を引き下がらせることができたのは、政府が内々に打ち出している法令のおかげだ。


 屍食鬼ならびにそれに準ずる者に噛まれたものは、すべからく血清を打つものとする。と数十年前、香月研究所の尽力で定められたものだ。


 傷から入る病原体の潜伏期間が過ぎようとしているといってもなお血清を打たせようとしない菖蒲に対し、令状をとり小夜を連れ出し治療をほどこしたのだった。


 小夜が使用人であれば、使用人への虐待を理由に保護し、新しい雇い主を探せばいい話だったのだが、小夜には保護者以外にも婚約者がいる。


 そこで、霧城邸に出向き、大和に目通りを願ったのだが、連日不在で会うことがかなわなかった。


 その上、華峰家のことを調べているうちに、幼いころから大和が小夜への虐待に加担しているという噂も浮上してきており、引き渡すにはためらわれたのだ。


 込み入った事情を蛍に相談していると、ベッドの上で小夜が身じろいだ。



「気が付いたのか?」



「ここ……は……?」



「安心して。ここは香月研究所。若旦那が君の傷を癒すために保護したんだよ」



 蛍の言葉に虚ろな目をさまよわせていた小夜が、ガバリと跳ね起きる。



「家に……家に帰らなきゃ」



「だめよ。せめて熱が下がってからじゃなきゃ! 医者である私が許しません」



「だって、家に帰らないと」



 また叩かれる。という言葉を寸でのところで飲み込んだ。


 自らの体を抱いて震える小夜の様子に、三人は続く言葉を察してそっと目を合わす。



「帰らなくていいんだよ。君は軍が保護をした。熱が下がるまで、ここで過ごしなさい」



「え……」



「辛かったね、ゆっくり休んでいいんだよ。ご家族の了承はとってある」



 瑛人の言葉に束の間目を見開いた小夜は、よかった。と微笑んで再びベッドに身を任せた。


 すぅすぅと寝息を立てる小夜の隣で、瑛人と蛍は思案気に眉をひそめていた。




「皆様には、ご迷惑をおかけいたしました」



 小夜が回復したのは、それから三日してのことだった。


 瑛人と蛍が小夜の元に訪れた時にはもう、ベッドの上に座り深々と頭を下げていた。



「頭あげてよ。病人に頭を下げさせる趣味はないからさ」



「いえ……私なんかのために、こんなによくしていただいて」



 熱に浮かされている間、蛍に食事の介助をしてもらっていたことを思い出し、更に深く頭を下げる。



「だからあ、もう」



「先日助けていただいたお礼も出来ていないのに、こんなによくしていただいて申し訳ありませんでした」



 いっこうに頭を上げようとしない小夜に困り果て、蛍が瑛人を見る。


 熱が下がり、頭がはっきりしてきたときに小夜が思ったことは、やはり家に帰らなければ。だった。


 華峰家には、小夜の病にかけるだけの資金はない。


小夜がこの場で休めば休むだけ華峰家の負担になるのだ。


 小夜が華峰家の負担になった分は霧城家から足が出ることになっている。


 そうなればその分、小夜には「しつけ」が待っていた。


 一刻も早くこの場から出なければ。と支払う金がないことを面倒をみてくれている蛍に訴えたのだが、蛍を通じて瑛人がお金はいらないと言ってきた。


 無償で与えられるものなど、この世にはないことを知っている小夜は、自分の病が治った後、何を要求されるか内心戦々恐々としていた。



「こういう時、いい女は謝るよりお礼を言うものよ」



「そうそう」



 頭を上げるよう幾度か言われ、ようやくベッドから頭を離した小夜は、自分に向けられた三人分の優し気な笑顔に胸がつまる。


 これまで、自分が病や傷で倒れた時、怒りをぶつけられたり迷惑がられたことはあったが、こんな風に笑顔を向けられたことはなかった。



「あ……ありがとう……ございます……」



 たどたどしく言った礼は、三人の笑顔をさらに深めるのに充分だった。




 しばらくは体を休めるようにという三人の言葉に甘え、ベッドに体を横たえた。


 疲労が溜まっていたのか、いつの間にか寝ていて、次に目を開けた時には外が真っ暗になっていた。


 辛かった傷の痛みも熱も、今はすっかり引いている。


 しかし、これからへのの不安が胸中につきまとう。


 香月が好意で連れ出してくれたとはいえ、無断で華峰の家を後にしたのだ。帰ったらこれまで以上の折檻が待っていることだろう。


 想像してぶるりと肩を震わせ、ベッドの中に頭まで潜る。



「やあ、あなたが古衣の君かな。ただよってくる香りが同じだね」



 窓の外から吹く風と共に、低音の耳に心地よい声が聞こえた。


 恐る恐る顔を出し、枕元にあるランプをつける。伸びた黒髪を一つに結んだ長身のダークスーツ姿の男が、ベッドの足元に立っているのが見えた。


 不健康なほどに白い肌を持ち、高い鼻筋につり目がちの黒い瞳をしていて、この世のものとは思えないような儚げな美貌を持った男は、楽し気に小夜を見つめている。


 驚いて叫ぼうとした瞬間、片目を閉じてしぃっと言われ、込み上げた悲鳴を飲み込んだ。


 思えばここは研究所だと言っていた。小夜の他に休む者や職員もいるだろう。


 それなのに悲鳴をあげそうになるなんて。と自らを恥じている間に、男は小夜のベッドに腰かけた。



「僕の血族が迷惑をかけてしまったようで、数日前にお詫びに伺ったんだけどね、どうやら当人にお詫びが通っていなかったみたいで探してたんだ」



 男の言っている言葉の意味がよく分からず、小夜は黙って男を見ていた。


 男は、小夜の首に巻かれた真新しい包帯に手を伸ばし微笑んだ。



「あなたの名前を教えてほしいな」



「私は……華峰小夜と申します」



 伸ばされた十夜の手をそっと避け、警戒の視線を送る。


 そんな小夜の様子に小さく笑った男は、ベッドから立ち上がり片手を胸に当て礼をする。



「先だっては僕の所の夜光が迷惑をかけたね。申し訳ない。僕は不知火家の当主、不知火十夜という」



 十夜の言葉に小夜の体がこわばる。


 蔵に閉じ込められる前に華峰家を訪れていた男だと気がついたからだ。


 威嚇する子猫のように警戒の目を向ける小夜を、十夜は面白そうに見つめている。



「あなたたちが……屍食鬼に人を襲わせているんですか……」



「しぃ。それを知れるのは、僕たちの仲間になった者だけだ」



 緊張で張り付きそうになった喉から、最も疑問に思っていた言葉を絞りだすと、口元に清潔そうな白の手袋をした指先を当てる。


 楽し気に笑う十夜の瞳が小夜の瞳を捕らえ、艶っぽく笑った。



「今日は、あなたにお願いがあってここまで来たんだ」



 まるで何かの力が働いているかのように、十夜の視線から瞳を外すことができない。


 十夜の囁く一言一言が、小夜の耳の奥をくすぐり、少しでも油断してしまうとなんでも言うことを聞いてしまいそうな気分になってしまう。



「僕のところに行儀見習いとして来ないかい? できれば僕の婚約者候補として迎え入れたいんだ。その前段階として、ね」



「そのお話は、妹に行ったはずでは……」



 十夜の言葉に頷いてしまわないように気を強く持ち、挑むように視線を合わす。



「ああ、あの子? 行儀見習いに来たはいいけど、ちょっとわがままが過ぎてね。早々にお帰り願ったよ」



 小夜の抵抗を、じゃれつく子猫を見るような瞳で楽しそうに眺めてくる十夜に恐怖を覚えた。


 美しく整った顔、蠱惑的な声、誘うような眼差し。どれをとっても、十夜は魅力の塊だ。


 それなのに、小夜の心から警戒心がぬぐえない。


 不知火十夜という男は、魅力的すぎるのだ。



「申し訳ございません。私にはもう婚約者がいますので」



 小夜は、十夜の視線から逃げ出すように俯いた。


 緊張から、ぎゅっと握った掛け布団に皺が寄る。



「知ってるよ。血濡れの子爵でしょ。あんな小物放っておけばいいさ」



「離してください」



 固く握られた小夜の手をとった十夜の手はすぐに振りほどかれ、視線を上げた小夜の穏やかだがきっぱりとした拒絶の姿勢に片眉をあげる。



「あなたは自分の価値を分かっていない。僕の元でならその真価を発揮させてあげられる」



 心地よい低音で囁かれる言葉に、小夜の内の自分ではない何かが、十夜の言葉を受け入れようとしているのを感じた。


 不知火十夜という男は、何かおかしい。


 小夜の内の猜疑心が十夜を危険だと判断し、首を振り拒否の姿勢を示した時だった。


 抜き身の剣がカーテンの隙間から差し込まれ、十夜の首筋にピタリと止まる。



「当研究所の患者を惑わすのはやめてもらえますか。不知火侯爵」



 剣を向けているのは、瑛人(あきと)だった。



「やあ、どこまで僕の魅了に逆らえるのかちょっと試しただけじゃないか。物騒な真似はよしてくれ。香月の坊や」



 カーテンの隙間を縫うように差し出された剣をついと指先で避けた十夜は瑛人に向かって朗らかに笑う。



「僕はこれで退散するけれど、考えておいてね。小夜ちゃん」



 瑛人の剣から逃れるように体を移動させ、窓辺に座った十夜は、笑顔で手を振りながら窓の外に落ちた。


 闇に溶けるように、真っ黒な蝙蝠が羽ばたき、消えていく。


 窓から十夜が落ちたと思い、小さく悲鳴を上げた小夜だったが、すぐに窓辺に駆け寄った瑛人の逃げられた。という呟きに、無事であることを知り、胸をなでおろす。



「どうしたの?」



 病室の騒ぎにランプを手にした隼が顔を出す。



「不知火侯爵がここに来た」



 瑛人の言葉に、隼が眉を顰めた。



「あの夜以来、夜光の動きが止まっているが、代わりに侯爵が華峰家に接触しているんだ」



「この子の血液検査の結果が影響しているのかしら」



「おそらくは……」



 瑛人と隼が何の話をしているのか分からなかったが、どうやら自分に関係することらしいと耳をそばだてる。



「不知火家に狙われているのなら、この子も知っておく必要があるんじゃないかしら」



 隼がカーテンを開き、ベッドの上で居住まいを正している小夜に真剣なまなざしを寄せている。



「あなたも知りたいわよね。自分の置かれている状況がどんなものか」



「……はい」



 瑛人は迷っているようで、困った顔をしていたが小夜の返事を聞いて、重い口を開き語り始めた。



「君の血は、僕たちにとって特別なものだったんだよ」


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