第13話 華峰旭

華峰小夜という人間が目ざわりだった。


 幼いころは「姉」という存在を好いていて、後を追い、小夜の行動を真似て女中の手伝いをしていた。


 しかし、すぐにそれは間違いだということに気が付いた。


 母である菖蒲が、旭に女中仕事をさせたとして目の前で小夜を厳しく罰したからだ。


 般若の形相で小夜を打つ菖蒲を涙を流しながら止めると、お前まで私を馬鹿にするのか。と頬をぶたれた。


 ぶたれたことなどなかった旭は、衝撃を受け固まり、小夜への折檻を怯えてみることしかできなかった。


 そうして、気が済んだ様子の菖蒲は、これもあなたのためですよ。と嫣然と笑い、折檻を受けた小夜に土下座で礼を言わせ、旭の手をとり立ち去った。


 そして旭は、こんこんと小夜と旭は違う立場の人間だということを言い聞かされた。


 姉ではあるが、旭のように着る物も与えられず、食べる物にも困り、気まぐれに菖蒲(あやめ)から折檻を与えられる存在。


 どうして、自分の家にそんな存在がいるのだろう。と、疎むようになるのは時間の問題だった。


 小夜に折檻を与えているときの菖蒲の顔は、いつも旭に向けているきりっとした頼りがいのある母親のものではなく、一人の嫉妬を含んだ女の顔をしていた。


 小夜の折檻が始まるたび、旭は自室に逃げて耳をふさいだ。


 小夜が大きくなってからは、折檻を受けてもうめき声一つあげなくなっていたが、幼いころの小夜は、菖蒲から打たれるたびに痛みに怯え、泣きながら大きな声で幾度も許しを乞うていた。


 小夜の声と打擲の音は、旭の心を蝕んだ。


 般若のような顔で姉を打つ母親と、泣き叫ぶ姉。そして、無関心な父親。


 彼らの間に、愛情という繋がりがないということを早くから感じ、不安定になっていた旭は、幾たびも夜尿する日が続いた。


 そのたび、女中部屋の隅で眠る姉を頼り片づけてもらった。


 可愛げもなく、わたくしがこんなことになったのはお姉様がお母様を怒らせるから。と言い募り、泣きながら小声で責める旭に、小夜はいつも謝っていた。


 小夜は、自分の体よりも重い旭の布団を外に干し、自分の布団と変えてくれた。


 干した布団が見つかるたび、旭の夜尿の責任を問われ菖蒲に折檻をうけていた。


 菖蒲の目を盗み、ごめんなさいと謝る旭に、私はお姉ちゃんだから。と笑って答えてくれていた。


 小夜を疎みながらも、姉として頼る日々は続いたが、それも旭の夜尿癖が治るまでの間だけだった。


 姉を頼ったことが菖蒲に知られるたび、菖蒲は旭に般若の目を向ける。


 小夜という存在が華峰家にある限り、平穏な日々がこないと悟った旭は、自分が打たれる側に回らないよう立ち回るようになっていった。


 菖蒲と同じように小夜を顎でこき使い、菖蒲が小夜を嘲笑えば、同じように姉を嘲笑する。


 そうすることで、家庭がうまく収まるのだ。


 華峰家での自分の立ち位置を確かなものにしようとしていたのかもしれない。


 少し成長したころ、十ほどの小夜が老人の婚約者になったと母から聞いた時は耳を疑った。


 嬉しそうに微笑む菖蒲の顔にぞっとしたことを覚えている。


 そして、対応を誤れば次は自分だ。と思ったことも。


 それでも菖蒲は、小夜への扱いに比例するかのように旭を大切に扱ってくれていた。


 惜しみなく習い事を習わせ、良い婿が来るようにと、容姿を磨くことを教え、旭のやりたいと言ったことは、ほとんど叶えてくれる。


 小夜のことさえなければ、いい母親なのだ。


 そう、小夜さえいなければ……。



 小夜が霧城子爵の婚約者として教育をうけるようになってからは、菖蒲の旭に対するしつけが厳しいものになってきた。


 なんの習い事もせずに、女学校だけで花嫁修業をしている小夜と、幼いころから様々な習い事をしていた旭の成績が並んだからだ。


 菖蒲は静かに怒り、旭の教育に力を入れるようになっていった。


 時に、その教育は手が出るものでもあった。


 すぐに手が出る母親に、口では謝りながらも内心は馬鹿にするようになっていた。

 菖蒲が小夜の事で苛々するのは、小夜の母親と蒼が愛し合っていたからだと知ったからだ。


 菖蒲は父に捨てられた令嬢として恥をかかされ、嘲笑われた過去がある。


 蒼の結婚相手に返り咲いたとしても、蒼の関心は母に無く。跡取りとなる男児も産めなかった母は、周囲から暗に馬鹿にされていた。


 母の癇癪の原因の全ては、父から愛されなかったためなのだ。


 愛されない女は惨めだ。と、菖蒲のことを馬鹿にする周囲の声を聞いたことがある。


 成長するにしたがって、旭も次第にその考え方に染まるようになっていた。


 私は、愛される女になる。


 そう心に決めて、様々な習い事に真面目に取り組んできた。


 それなのに、学校に行っている時間外は女中仕事で忙しいはずの姉が、どうして私と並ぶのか。と憎くすら思った。


 夜、喉が渇き水を飲みに廊下に出た時、小夜が起きている気配を感じた。


 こっそりのぞいた小夜の小さな部屋の中、月明りを頼りに学校の勉強をしている姉の姿。を見たのだ。


 疲れているだろうに、これもまでもずっとそうしていたのだろう。


 小夜は、昔から自分に与えられた物事を文句も言わずにまっすぐ取り組む。


 女中仕事にせよ、尋常小学校時代の勉強にせよ。やれと言われたことは、なんとしてもやり遂げる人だった。


 女学校でどれだけ勉強したとしても、嫁ぎ先は人をいたぶることを趣味とした老人なのに。


 小夜の努力を見て、より一層旭も女学校の勉強に励むようになった。


 自分よりも恵まれていない環境にある小夜に負けることは矜持が許さなかった。


 ひたむきに生きる小夜の姿に心の奥では関心しながらも、煩わしく感じていた。


 現在にも未来にも悲観するような状況しかないくせに、そんなことはおくびにも出さず努力する姿が癇に障るのだ。


 そのうち、旭の成績は行き詰まり、小夜の成績は上がっていった。


 菖蒲に厳しくとがめられながらも、姉と同じ学年でなくてよかったと一瞬でも思った自分を悔しいと感じた。


 その日から、旭も菖蒲のように小夜をぶつようになった。上手くいかないことは、全て小夜のせいにした。


 どれだけぶたれても蹴られても、声一つ上げない小夜に、立場は自分が上なのにいつも負けている気がした。


 思えば旭は、愛し合っていない男女から生まれた娘。


 対して小夜は、愛し合っている男女から産まれた娘だ。


 根本から何かが違うのだろう。と、思えば思うほど、小夜のことが憎くなった。


 着ているものから、与えられた立場。


家での扱いに、磨かれた容姿。どれをとっても小夜よりも上のはずなのに、勝っている気がしない。


 せめて、結婚相手から愛される。という一点においては、姉よりも、母よりも、どの女よりも勝っていたかった。


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