第14話 薄幸令嬢は婚約する
「大河様は、わたくしを一目見て気に入ってくださったそうなんです。お姉様には申し訳ないのですが、これも運命なのかもしれませんわ」
婚約破棄と新たな婚約の話に、通夜ぶるまいの席がざわついている中、旭は小夜に小声で語りかけていた。
本当は、不知火家に嫁ぎたかったが、行儀見習いに訪れ、すぐ返されてしまった。
美しい洋館に高級な自動車で送られ、積み荷と共に豪奢な洋室に通された旭の胸は、希望で満ち溢れていた。
しかし、不知火家に入る者の儀式だとして指先から血を一滴とられてからしばらくすると、手違いがあったと丁寧に謝罪され送り返されたのだ。
そのことは菖蒲と旭の矜持を著しく傷つけ、しばらく荒れた。
しかし不知火家で一瞬とはいえ行儀見習いをしたということは事実だ。
大河には、不知火家で行儀見習いをしていたことを伝えており、そのことも彼の琴線に触れたようだった。
無駄なことは一切なかったのだ。
大河は、旭が霧城家に嫁げばこれまで通り華峰家を援助してくれ、男児が生まれたら華峰家の跡取りとして引き渡す約束もしてくれた。
小夜ではなく自分が選ばれたのだという気持ちは、旭の心を満たしてくれた。
霧城子爵の婚約者でいられなくなった小夜に、華峰家での居場所はないと暗に伝えたときの小夜の表情は見ものだった。
これまで、どれほどいたぶっても表情一つ変えずにいた小夜が、俯いて睫毛を振るわせていたのだから。
「お母様はね、お姉様を勘当なさろうとしているの。勝手に働きに出て、霧城家からも婚約破棄を申し出られて、こんなに恥ずかしいことはないとおっしゃっていましたわ」
笑いをこらえながら言った言葉に、小夜の様子がすっと変わる。
「そう」
一言だけ返された言葉と共に、小夜がすっと前を向く。
「な……なんですの、その顔は。職があるから出て行ってもかまわないと思っていらっしゃるの? お母様は、お姉様を辞めさせるようかけあってらっしゃるそうよ。せっかくの職がなくなったら、お姉様は何をして生活されるのかしら」
「旭」
「な……なんですの」
「私はね、たとえ研究所の職を奪われたとしても、どうにかして生きていくわ」
小夜は、香月研究所で初めて人間らしい扱いを受けた。
温かな食事を食べ、たっぷりした湯につかり、柔らかな布団で寝て、それから、自分を傷つけない人と生活をした。
始めは、こんなに優遇された生活は自分にふさわしくないと周囲に訴えることが多かった。
しかし、周囲は、小夜の価値を根気強く説き続け、丁重に扱ってくれた。
あまりに丁寧に扱う周囲に申し訳なく思った小夜は、瑛人にその思いを伝えたことがある。
その時に、自分たちは小夜を大切に思っている。けれど、当の小夜が自身を大切にしてくれないことを悲しく思う。と言われた。
今までの扱われ方から考えて、難しいと思うが、自分たちのために小夜自身を大切にしてほしい、と。
小夜が自分自身を大切にすることが、周囲への思いやりになると知ったことで、初めて自身を愛おしいと思えた。
瑛人たちに与えてもらったこの思いを持っていれば、きっとどこでだって生きていける。瑛人たちと離されることは悲しいが、いずれ小夜の血が必要なくなった時は職を辞さなければならない。
その期間が早まるだけだ。と、自身に言い聞かせながら旭の瞳をひたと見る。
「なっ……。お姉様になんか、何ができるのいうの。どうせ、今の職だってお情けでいただいているだけのくせに」
「そうね。でも、あなたのおかげで気持ちが決まったの。どうして、いつまでも自分を大切にしてくれない人たちに縋りついていたんだろうって」
「はぁ?」
「私はね、ずっとお父様やお母様、霧城子爵やあなたに好かれたかったの。でも、もうそんな期待をするのはやめるわ。私を私として大切にしてくれる人や、場所があるんだってわかったから」
小夜が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
だが、理解できるようになるに従って、言いようのない怒りが湧いてくる。
小夜は、旭たち家族を自ら見限ろうとしているのだ。
許せなかった。
小夜の価値は、自分たちに何を言われても、どう扱われても逆らわず受け入れるところにあるのだ。
それなのに逆らった。
何が小夜を変えたのか。
凛と旭の瞳を捕らえる小夜の瞳に、これまであったような怯えはなかった。
そこにあるのは、自身の価値を信じる者の目だ。
「許さない……」
「え?」
「許さない、許さない、許さない。お姉様が幸せになるなんて、絶対に許さない‼」
旭の叫び声が室内に響くと同時に、大河を囲んでいた通夜客の間から悲鳴が湧きあがり、蜘蛛の子を散らすように人々が逃げまどい始める。
逃げた人々の中心にいた大河の姿を見た小夜は、ヒュッと息を飲み込む。
逃げまどう人の中心にいたのは、肌を灰色と肌色のまだらにし、腕に捕まえた女の喉に噛みつき口から血を垂らす大河の姿だった。
屋敷の中に、旭の叫び声が響く。
蒼と菖蒲は、すでにその場から逃げているようだ。
「なぜ逃げるんですか? これから、子爵家の相続の話をいたしましょうよ」
口から血を滴らせながら、女を足元に放り出す。
「化け物‼」
逃げまどう人々が口々に大河をののしった。
「化け物? 酷いですね。私は、至高にして崇高な不老不死の生き物です。ああ、それにしても、喉が渇く。腹が減る。なんだ……これは……」
「華峰さん、屍食鬼です。逃げてください」
庭先で小夜を護衛していた軍人が、中の騒ぎを聞きつけ小夜の元に走り寄り小声でささやいた。
「なりたてで意識が混濁している。危険です」
小夜を助け出そうと、肩を抱え立ち上がらせようとした瞬間、大河の目がこちらを向いた。
「ああ、小夜。そんなところで男と逢瀬かい? どれだけ私の顔をつぶせば気がすむんだろうね。待っていなさい。今、鞭を持ってきてあげよう」
にたりと笑いながら近づいてくる大河の言葉と表情に覚えがあった。
「あなたは……大和様……?」
容姿は小夜が知っている姿よりも四十は若かったが、言動や目つき、仕草が大和の姿を彷彿とさせる。
「さすが小夜。よぅくわかったね。褒美に鞭をくれてやろう。お前の血は、いつも私を搔き立てる。小生意気な旭をしつけることを楽しみにしていたんだがね、私はお前のことも気にいっているんだよ。そうだ、旭と私の婚姻が終わった後、お前には家を与えよう。私に囲われて影ながら尽くしなさい」
「どうして……そんな姿に……」
目を血走らせ、黒目は白濁し、口元を赤く染めながら近づいてくる大和からじりっと距離をとる。
怯え切った旭が小夜にすがりつき震えている。
軍人が剣を構え、勢いよく声をあげ、大和に切りかかった。
その場にいた全員が、大和が軍人に一剣両断にされたように見えた。
しかし、それは錯覚で、軍人の剣から飛び逃げ、天井に張り付いた大和が、素早く天井を蹴り、その勢いで軍人を襲う。
「ははははは、遅い、遅いぞ。この体はいい。」
腕の一振りで軍人を沈黙させた大和は、両手を広げ雄たけびのような叫びをあげる。
「わぁぁたぁぁしぃぃぃのぉぉ天下だぁぁぁぁぁぁ」
叫ぶ大和の肌に灰色が侵食するごとに、言葉が不鮮明になってゆく。
まるで金縛りにあったようにその場から動けなかった。
「いやぁぁぁぁ、助けて、助けて、助けて‼」
恐怖から混乱状態に陥った旭が泣き叫びながら小夜に抱きつく。
「落ち着いて、旭!」
抱きつき怯える旭の姿に、自分がしっかりしなくては、と思い直したとたん体が動くようになった。
旭を抱え、大和から距離をとろうとするがすぐに気づかれた。
「おぅや、旭じゃないかぁぁ。いいぃ顔をしているなぁぁ。さぁぁ、私の元にこいぃぃ。共に不老不死を享受しようじゃないかぁぁぁ」
「嫌ですわ‼ そんな醜い姿になるなら、死んだほうがマシよ‼」
「醜いぃぃ? 若返った体ぁ、力強い腕ぇ、不死の体ぁ、どれをどっても美しいじゃないいかぁぁ」
「血走った目に、灰色の肌、呂律の回らない口、そんな風になるなんて聞いていません‼」
「どういうこと、旭」
大和と旭の会話が理解できず旭を問い詰めると、泣いてぐちゃぐちゃになった顔の旭が首筋を小夜に見せる。
「わたくしも……大河様に連れられて、不老不死の儀式というものを受けたんです……」
そこには二つ、何かに噛まれたような穴が開いていた。
「あんな風になるのはいやぁぁ!」
旭の首筋にある噛み跡に気を取られた瞬間、泣き出した旭が小夜を大和がいる方向に突きとばし、庭に走りでる。
不老不死の儀式とは、以前瑛人から聞いた吸血鬼の行う仲間を増やす行為のことだろう。それならば、研究所で血清を打てばなんとかなるのでは。
と思い、逃げる旭を保護しようと腕を伸ばしたが、すでに闇の中に消えてしまった。
「華峰の者は、姉も妹も私をこけにするのかぁぁぁぁぁ。夜光様にお前を献上するのはやめだぁぁ。私の餌になれぇぇぇぇ」
転んだ際に足をくじいたのか、起き上がろうとしたが足首に痛みが入り動けない。
それでも逃げようともがいていると、頭を捕まれ乱暴に起こされた。
血なまぐさい息が顔にかかる。
恐怖から目をぎゅっと閉じた瞬間、体に自由が戻り、畳の上に倒れ伏す。
「大丈夫か⁉」
聞きなれた声に目を開けると、そこにいたのは瑛人(あきと)だった。
「香月様」
大和を羽交い絞めした瑛人は、暴れる大和を押さえながら首筋に注射器を突き刺した。注射器の中身が流れ込み、痛みに暴れる大和から飛び退った瑛人は、小夜を抱き寄せ大和から距離をとる。
「無事でよかった。三条から連絡が来たときは心臓が凍るかと思った」
小夜を護衛していた軍人は、三条という名前らしい。
大和に吹き飛ばされ、気を失っていた三条は、瑛人の後から現れた軍人たちに助け出されていた。
その様子を見て、胸をなでおろす。
「わぁぁたぁぁしぃぃにぃぃ、何をしたぁぁぁぁ」
首筋を押さえ、しゅうしゅうと煙をたてている大和の黒髪が、次第に白髪に変わっていく。まっすぐだった背は曲がりはじめ、白濁していた目は黒に戻る。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼ 夜光様からいただいた、不老の体がぁぁぁぁ‼」
手に刻まれていく皺を目にし、自らの体の変化に気が付いた大和が怒りの視線を瑛人に向ける。
「霧城子爵。あなたは屍食鬼になりかけていた。だから、我々、特務陰陽機関が用いる血清を打たせてもらった」
あなたの血を使った特別性です。とこっそり囁かれ、瑛人たちが作りたがっていた血清が出来ていたことを知る。
「なぜあなたが自身の息子を自称していたのか、戸籍はどうやって手に入れたのか。そこにあるあなたの代わりの死体はどうやって手に入れたのか。これから連行して話を聞かせてもらう」
「ふざけるなぁぁ‼」
振り上げられた大和の手は、瑛人に届くことはないまま軍人たちに取り押さえられた。
「大丈夫だったか?」
「はい……っ」
今まで瑛人に抱き寄せられていたことを思い出し、ふいに恥ずかしくなり離れようとしたら、足首に激痛が走り固まってしまう。
「少し失礼」
固まっている小夜の足元に跪き、足首を見た瑛人は、腫れている。と呟き小夜を横抱きに抱えた。
「か……香月様‼」
「この足では帰れないだろう。少しの間我慢してくれ」
着物越しに感じる瑛人の力強い体つきと温もりを意識してしまい、顔が真っ赤に染まる。
それでも、自分を助けてくれているのだから。と赤く染まった顔を隠し、落ちないように瑛人の軍服をそっと掴んだ。
「待ちなさい‼」
大和を連行する軍人たちに続いて外に出ようとした瑛人の前に、奥から駆けてきた菖蒲が立ちふさがった。
「旭は、旭はどこへいったの! 小夜‼ あなたはどうして旭を守らなかったの‼」
瑛人に抱かれている小夜に向かい手を振り上げた菖蒲は、瑛人に手をひねり上げられ悲鳴をあげる。
「私の婚約者をみだりに傷つけないでもらおう」
怒りを含んだ瑛人の声に、菖蒲と小夜が動きを止めた。
「はぁ? この子の婚約者はさっき連行された老人よ!」
怒気を含み瑛人を睨み上げる菖蒲を、瑛人が睥睨する。
「霧城子爵が亡くなり息子との婚約も白紙に戻ったと連絡を受けた時、ご当主の蒼殿から婚約の許可を得た。小夜は、私の大切な婚約者だ」
いつの間に。と憎々し気に呟いた菖蒲(あやめ)の声を、小夜は聞き逃さなかった。
「ぐ……軍人ふぜいが、わたくしに無礼な口を。わたくしは、華峰伯爵夫人よ‼」
「自ら身分を言うことはみっともないが、あなたが身分を振りかざすなら、私も身分で物を言おう。私は香月侯爵家の第一子。特務陰陽機関隊長、香月瑛人だ」
冷ややかな瑛人の声と眼差しに気圧された菖蒲は、よろりと後ずさり、その場にへたり込む。
へたり込んだ菖蒲の耳元で、華峰家の借金は私が全て返したんですよ。と呟いた瑛人の言葉に、菖蒲と小夜が目を見開く。
小夜にくいいるように見つめられ、気まずそうに帽子を被りなおした。
「二度と私の婚約者に手を出すな」
小夜から視線を外した瑛人は、菖蒲に吐き捨て、表に止めてある自動車まで小夜を運んで行った。
研究所への帰りの車内は、気まずいものだった。
助手席に降ろされた小夜は、応急処置として足首を固定してもらい痛みが和らいだ。最も、素足を見られ触れられることが恥ずかしくしばらく押し問答したものだったが。
運転する瑛人は、ずっと口を開かず。小夜も小夜で、自身が瑛人の婚約者になったという事実に頭がついていけずに何も聞けずにいた。
「すまない……。君に何の相談もなく、こんな重要なことを決めてしまって」
しばらく沈黙が続いた後、瑛人が言葉を選んでいるようにゆっくりと口を開いた。
「そのうえ、君を金で買うような真似まで……」
瑛人は、陸軍の諜報部を使い華峰家の情報を得ていた。
そのため、小夜が大和の通夜に行く前に、小夜が婚約破棄される予定であることを知り、蒼に接触していた。
その際に、蒼から華峰家の借金を肩代わりしてくれたら好きにしていいと言われ、小夜との婚約をもぎ取ったのだ。
そういった内容を全て小夜に言うわけにもいかず。しかし、頭にやや血が上り菖蒲に囁いた言葉は小夜も聞いていただろうことに、今更ながら後悔していた。
「いいえ、いいえ」
苦しそうな瑛人の謝罪に、慌てて首を振る。
「華峰家を救っていただきお礼申し上げます。これまでより一層、香月様にお仕えいたします」
助手席で丁寧に礼をする小夜に、瑛人は悲し気に眉を顰める。
「少し休もうか」
車は、研究所から少し離れた小高い丘に着いた。
丘から見える吸い込まれそうな星空に見入りながら、瑛人と共にあたりを散策する。ひょこひょこと片足をかばいながら歩く小夜を優しくエスコートしてくれた。
展望台に着いてから、しばらく二人は無言だった。
「見てください。香月様に助けていただいた時のような月が出てます」
沈黙に耐え兼ね空を見上げた時、美しい満月が目に飛び込んできた。
屍食鬼から小夜を助けてくれ、落とし物を共に探そうを言った瑛人の笑顔に惹かれたことを思い出す。
熱を出した小夜を助けてくれた時も、離れで食事を共にしたときも。
子どものような笑顔で、駄菓子を分けてくれていたことも。
出会った期間は短いが、瑛人の存在は小夜の中で確かに大きくなっていた。
それなのに、華峰家を助けてくれた礼として仕えるなどと可愛げのないことを言ってしまった。
だから、瑛人は何も話さずにこちらに顔も向けてくれないのだろう、と月を指さしていた手をそっとおろす。
自分を婚約者にと求めてくれたことが嬉しかった。
それがたとえ、この身に流れる血を確保するためだとはいえ……。
「僕は……あの夜会った時から、君のことを好いていた」
ゆっくりと小夜に向き直った瑛人が口を開く。
あたりは暗かったが、月明りに照らされて、顔が赤く染まっているのが見えた。
「君の血が研究に必要なことは嘘偽りないことだが、それを口実に婚約者がいることを知ってなお、君をあの場所に引き留めた」
瑛人の金の瞳が小夜を捕らえる。
「本来であれば、婚約者がいる身の女性に近づいてはいけないことは分かっていた。だが、僕は自分の欲求に負けて理由をつけて君に近づいた。そのうえ、君の意見も聞かず婚約を結んだ」
まるで罪を告白するかのように苦しそうに語る瑛人の言葉に胸が揺すぶられる。
「すまない……」
帽子を脱ぎ、頭を下げる瑛人に、一歩近づいた。
「正直……驚きました」
か細い小夜の言葉に、瑛人の肩がびくりと揺れる。
「私の価値は、この身に流れる血だけだと思っていました。だから、私はこの思いを諦めなければと自戒していました」
ぱっと顔を上げた瑛人と瞳が交わる。
自分に求められていたものが血だけではなかった。
瑛人に与えられてきた優しさが、職員に対するものだけではなかった。
その事実に、小夜の瞳から一筋涙が零れ落ちる。
「私も……ずっとあなたが好きでした」
一生伝えることがないだろうと思っていた言葉をおそるおそる伝えると、パッと花が開くように瑛人が笑う。
この笑顔を、いつまでも見ていたい。と小夜は思った。
「名で呼んでもいいか」
「はい」
「小夜。私と共に、生きてくれ」
「はい」
差し伸べられた手に手を重ね、二人は互いに見つめあっていた。
「お帰り。怪我は無かった? お腹空いてない? お風呂沸いてるからね」
瑛人に大切にエスコートされ、研究所の離れに入ると、音を聞きつけた蛍が飛び出してきた。
「ああ、小夜が足首を少しひねったようだがすぐに治るそうだ」
「さぁーよぉー?」
自然に小夜の名前を呼んだ瑛人に、にやりと笑った蛍が絡む。
「名前で呼べるようになったんだね。若旦那。よかったねぇ。小夜ちゃん、怪我してるなら着替え手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です。一人でできます‼」
蛍の追及に顔を赤くしている瑛人と小夜に、蛍はさっさと着替えてくるように命じる。
瑛人の軍服は大和との戦闘で汚れていて、小夜の喪服も髪も乱れている。
こんな状態であの告白をうけたのか。と今更ながら恥ずかしくなり、慌てて瑛人の元から走り去り、着替えに向かった。
背後で瑛人が寂しそうにしていたことは、蛍しか知らない。
小夜が髪を整え、着替え終わって出てきた時、井戸で手と顔を洗った瑛人が入ってきた。
互いに目が合った二人は、さっきまでの丘での出来事を思い出し、頬を染めもじもじしている。
そんな様子の二人を見て、蛍はこっそり微笑んだ。
「ほらほら、まずはご飯食べて」
お櫃に入ったご飯を茶碗によそう蛍の姿に、小夜のお腹がぐぅと鳴る。
通夜ぶるまいの席で出ていたごちそうには全く手が伸びなかったというのに、蛍が作ってくれる素朴な料理は、心の底から食べたいと思った。
「ありがとうございます」
「お礼なんていいよ。小夜ちゃん、旦那の婚約者になったんでしょ? だったら、私は小夜ちゃんの使用人でもあるんだからさ。あ、これから小夜様って呼ぼうかな」
婚約の話を蛍も知っていたことに、少し恥ずかしく思いながらも微笑みを返す。
「……今まで通りの呼び方で、お願いします」
「えー、どうしようかな」
冗談めかして茶化す蛍の袖をそっと掴む。
「蛍さんに、小夜ちゃんって呼ばれるの、好きなんです」
「そう言われたら仕方ないね。かわいいなぁ」
整えられた小夜の頭を高速でなでなでする蛍の姿を、瑛人が嫉妬交じりの目で睨んでいた。
「もう、そんな目で見ないの。正式に婚約者になったんだから、今度二人で出かけてきなよ」
「蛍」
蛍の提案にじっとりとした目をしていた瑛人の瞳が輝いた。
「間違っても、駄菓子屋に案内しちゃダメだよ」
「うっ……」
呻く瑛人に、案内するつもりだったの。と蛍は呆れ顔だ。
「私、行きたいです。香月様のお好きな場所」
瑛人が毎食後に持ってきてくれる駄菓子は、今や小夜の楽しみになっていた。
それほどまでに瑛人が夢中になる場所を見てみたい。
そう思って発言したのだが、瑛人はなんだか微妙な表情をしている。
「あの……香月様? 私、何かいけないことを言いましたでしょうか」
「僕のことも……名前で呼んでもらえないだろうか……」
気まずげに言葉を発した瑛人は、耳まで赤くなっている。
そんな姿を見た蛍は、プッと吹き出し、瑛人に睨まれ慌てて口元を押さえていた。
「あ……瑛人様……」
そんな雰囲気の中で名前を呼ぶことは恥ずかしかったが、瑛人の望みはできる限り叶えたい。
名前を呼ぶ。ただそれだけで、小夜の頬も熱くなっていく。
名を呼ばれた瞬間、瑛人がパッと笑う。
「今度の休みに、出かけようか。小夜」
「……はい、瑛人様……」
「はいはい、食事食べちゃってー」
二人の間に流れる甘い雰囲気を断つように、蛍の声が離れに響いた。
食事が終わり、瑛人も人心地ついたようだ。
落ち着いたタイミングを見計らい、小夜は瑛人に話しかけた。
「瑛人様、折り入ってお願いがございます」
目の前で平伏する婚約者の言葉に瑛人(あきと)は困ったように首を傾げた。
「私の妹、旭をどうか助けてください」
旭は、混乱して通夜ぶるまいの席から飛び出してしまった。今頃は、菖蒲たちが見つけ出しているか、落ち着いて華峰家に帰っているころだろう。
「旭は、霧城子爵と同じく不老不死の儀式を受けた。と言っておりました」
その言葉に瑛人の雰囲気が厳しいものになる。
「不老不死の儀式……」
「はい。霧城子爵と共に、旭が受けたと言っていました。子爵が血清で元に戻ったのなら、あの子にも血清をと思い……」
甘い雰囲気から一転し、周囲の空気が張りつめていく。
「わかった。だが、血清は万能じゃない。あの血清はまだ研究段階で、打ち続けなければ屍食鬼に戻ってしまうんだ」
そんな……と呟いた小夜に、瑛人と蛍が気の毒そうな目を向ける。
不老不死の儀式を受けた霧城子爵は、屍食鬼に変貌した。
おそらく、その儀式とは以前瑛人から聞いた吸血鬼が仲間を増やすための儀式ではないかと予想している。
大和が一時期行方をくらましていたのも、儀式を受けた後に若返った自分を霧城家に受け入れさせるために暗躍していたためだろう。
霧城子爵は、一時的に吸血鬼の能力を手に入れ若返ったが、屍食鬼化してしまった。
血清を打ち、元の姿に戻った子爵を見た時、これがあれば旭も……と考えたのだが。
「それなら、もっと私の血を役立ててください!」
「だめだ。焦る気持ちは分かるが、一定量以上採ることは君の健康を損なう。今の状態で研究を続けていけば、今のものよりも良いものもできると思うから待っていてほしい」
「はい……」
血清が完全に屍食鬼を人間に戻すものではないことが分かり、少なからず落ち込んだ。
知らず知らずのうちに、自分の血の力を過信していたようだと内心反省する。
「旭さんのことは、後日華峰家に連絡してみよう。それから、不老不死の儀式についても聞きたいことがある。この件に関しては、僕に任せてくれないか」
「ご無理を申し上げてすみません」
再び深々と頭を下げる小夜を止め、頭を上げさせた瑛人は優しく微笑む。
「いや、有益な情報をありがとう。霧城子爵の取り調べの指針もたつ」
さすが僕の婚約者だ。と瑛人が軽口を叩いたことで、緊迫した空気が柔らかなものに変わった。
旭が逃げ出してからずっと気がかりだったが、菖蒲に詰め寄られたり、瑛人との婚約のことを突然知って混乱したりと、なかなか言い出せなかったのだ。
気がかりだったことを瑛人に預けられたことで、重かった気持ちが少しだけ軽くなった。
「さあさあ二人とも、深刻な話は終わりにして、お風呂入ってきて!」
頃合いを見計らったように蛍が声をかけてきた。
瑛人を先に、と風呂を進めると、真っ赤な顔をして辞退してくる。
「小夜ちゃんも気が早いな。まだ婚約段階なんだから、旦那のお風呂は帰ってからね」
瑛人の顔が赤くなったのは、そういうことか。と自分が風呂を進めた意味を知り、かぁっと顔が熱くなる。
「そ……そういう意味では……」
「わかってる……わかっているから……」
「は……はい……」
互いに顔を赤く染めながらやりとりをしている二人に、似たもの同士。と蛍が笑った。
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