第8話 薄幸令嬢の新生活
朝になり、ベッドを出た小夜は、蛍が洗ってくれていた着物に着替え、泣いて腫れぼたっくなった目を恥ずかしそうに伏せている。
借りた浴衣は洗って返すと言ったら、蛍にそれはあげるよと言われ、しばらく逡巡したのちにありがたく受け取ることにした。
着の身着のまま華峰家から救出され、生活に必要なものを何も持っていなかった小夜にとって蛍の申し出が身に染みる。
瑛人たちと研究所を出て一里ほど歩いたところに、垣根に囲まれたこじんまりとした茅葺の民家があった。
「研究所に泊まる際に使っている僕の家だよ。ここを君の寮にしようと思うんだけど、どうかな?」
「こんなに素敵な場所を使っていいんでしょうか」
「研究所にも宿泊施設はあるにはあるんだけど、いかんせん男所帯だからね。ここなら、落ち着いて使ってもらえるかと思って。ここにあるものは全部自由に使ってもらってかまわないからね」
古いけれど落ち着いた佇まいの家からは、瑛人の香りがした。
「この家には守りを施しているけれど、君は不知火家から狙われているし、ご家族からも距離をとっているよね。申し訳ないけれど、一人での外出は控えてほしい」
その代わり、蛍が日々の必要なものを届けてくれると言われ、恐縮しきりだ。
「護衛もかねて、ちょくちょく様子を見に来るよ」
「冷めちゃったけど、食事を用意しておいたから。あとお風呂も。よかったら使ってね」
「なにからなにまで、ありがとうございます」
笑顔で家を後にする蛍と瑛人に向かい深々と礼をして、姿が見えなくなるまで見送った。
しんとした部屋に入り用意されていた食事をいただく。
瑛人と話している間に温めなおしてくれたようで、味噌汁がまだ温かかった。
具だくさんの味噌汁に、アジの干物。小松菜のお浸しに、白米に、香の物。
「こんなに贅沢なものをいただいてもいいのかしら……」
これまでの食事とは比べ物にならないほど豪華な食事にそっと箸をつける。
一旦箸をつけると、体が栄養を求めていたことを思い出したかのように空腹を訴え始め、夢中で食べる。
どれも、これまで食べたことがないほど美味しかった。
特に干物など、これまで頭と骨しか食べたことがなかった。
華峰家で食事を与えられずに飢えた時に残り物を漁ってのことだ。
「美味しい……」
一人きりの食事だが、華峰家で一人で食べているときとは違って心持が軽い。
食事を終えて、膳を片付け終えた後、昼からなのにいいのだろうか。と迷いながら風呂に入った。
蛍が頑張ってくれたのだろう。民家の庭にある湯殿には、檜の浴槽に湯がたっぷりはられていた。
浴槽に水を用意するには、井戸を何往復もしなければならない。
そして、風呂を炊くには、付きっ切りで火をおこしていないといけない。
華峰家では、家族と使用人が使った後の残り湯を使っていた。
いつも湯はほとんど残っておらず、湯も冷めて水に近くなっていた。
小夜に対してあたりのきつい使用人が先に入った時などは、小夜が入っていないことに気が付かなかったと言いながら湯を落とされ、井戸水で頭と体を洗うしかなかった日もあった。
用意されていたいい香りの洗髪剤と石鹸を使い、頭と体を時間をかけて丁寧に洗う。
以前は、灯りを使うことも石鹸を使うことも制限されていたので、いつも暗い浴室であってないような石鹸の欠片を使い急いで体を洗っていた。
こんな風に明るい中でゆっくり体を洗い、たっぷりと湯のはられた湯舟に浸かるのは初めてだ。
明るい中、湯の上から見た自分は傷跡だらけで、あばらのういた貧相な体をしていた。
「これから……私、どうなるのかしら……」
研究所で血を提供することが仕事だと言われたが、それだけで今のような生活が保証されるとはにわかには信じがたかった。
華峰の家から逃げられたことでほっとしているが、いつか菖蒲たちが小夜を探して連れ戻すのではないかという恐怖心がぬぐえない。
それに、まだ小夜は大和の婚約者なのだ。華峰家の家長と婚約者の許しを得ずに職業を持ったことで、どのような罰を与えられるだろうかと考えるだに恐ろしい。
ぐるぐる回る不安を振り払うように、小夜は湯舟に頭から潜る。
賽は投げられたのだ。これから小夜は、ここで生活していくしかない。
瑛人は、あの家から出て自活する道を開いてくれたのだ。それならば、精一杯お務めを果たそう。
ざばりと頭を湯舟から出し、顔をパンと叩く。
「しっかりしないと」
そのままの勢いで浴槽から出た頃には、湯はすっかり冷めていた。ふやけた指先で浴槽と風呂場の掃除を終わらせ、体を拭いて浴衣に着替え家に戻る。
「うわ!」
「きゃっ」
囲炉裏端で帽子を脱ぎくつろいでいた瑛人が、風呂上りの小夜の姿に驚き顔を赤く染めていた。
人がいるとは思っていなかった小夜も、瑛人の声に驚き思わず悲鳴を上げてしまう。
「す……すまない。そういえば蛍が風呂と言っていたな。淑女の風呂上りを見ようと思って来たわけじゃないんだ……」
上気した肌に、しっとり濡れた黒髪。
昼だというのに浴衣姿であることに気が付き、小夜も顔が熱くなる。
「お……気になさらず。ここは、香月様のお家ですし。私が昼からお風呂をいただいていたことが悪いんです」
「いや、君に悪いところなんて一つもない!」
「あの……すぐに着替えてきますので」
「あ……それならこれを」
畳の間に引っ込み着替えようとした小夜に、瑛人が大きな風呂敷包みを押し付ける。
何かと思い、その場で中を確かめると、綺麗な着物や寝巻用の浴衣が沢山入っている。
「受け取れません……」
「いや、何の用意もなく家から連れ出してしまったのはこちらの落ち度だ。古着で申し訳ないが、使ってほしい」
「でも……」
「それでは、僕はこれで」
「あ……」
赤い顔を隠すように帽子を目深にかぶった瑛人は、包みを返そうとする小夜から逃げるように足早に出ていった。
途中、何かに躓いたようでバランスを崩していたが、すぐに立ち直り去っていく。
ふと囲炉裏端を見ると、包みはもう一つあった。
部屋に持ち帰り開いてみると、中身は手ぬぐいなどの生活品が詰められている。
着物の包みは、古着と言ってはいたもののほとんど使われた形跡のない新品同然の品ばかりだった。
柄行も、小夜の雰囲気に合ったものが多く、試しに当ててみると寸法もぴったりだ。
「明日、お礼を言わなければね」
大和にも着物を贈られてはいたが、貰ってこれほど嬉しいと思うことはなかった。
髪を乾かすことを忘れ、畳の間に置いてある姿見の前で贈られた着物を当てて見ているうちにくしゃみが出た。
風邪を引いてしまっては、明日からのお勤めに支障が出るかもしれないことに思い至った小夜は、空いていた箪笥に着物を丁寧に仕舞い、乾いた手ぬぐいで髪を拭き乾かした。
乾かし終わる頃には、陽はすでに傾いて、血の色のような夕焼けが空に広がっている。
こんな風に心が満たされたのは初めてだ。
贅沢に使える時間。
栄養が整えられた食事、たっぷり湯のはられた浴槽、綺麗な着物。どれもが、自分に与えられるとは思ってもいなかったものだ。
それだけ、この身に流れる血が瑛人にとって貴重なものなのだろう。と、瑛人の優しさに勘違いしそうな心を正す。
瑛人が帰った後、暗くなってきたので雨戸を締め、家の戸締りをする。
畳の間にもどり、ふすまで仕切っていた寝室を開けると、そこにはすでに布団が敷かれていた。
瑛人と蛍の気遣いにじんと心が温かくなる。
いつもなら働いている時間だが、今はもうすることがない。
この家には、華峰家や女学校で見ていたような黒い影もない。
瑛人が守りがあると言っていたので、不浄なものもはじいているのだろう。
清廉な気配をすぅっと吸い込む。
病み上がりで疲れもたまっていたため、おずおずと布団に横になった。
布団はふかふかで、太陽の香りが小夜を包んだ。
華峰家では、捨てられていた煎餅布団を使っていたので、こんなに清潔で温かい布団を使えることに感動した。
布団の感触を楽しんでいるうちに、すっと眠りの世界に入っていった。
雀の声で目を覚まし、雨戸を開くと朝の冷たい空気が部屋に入り込んできた。
すうっと吸い込むと、爽やかな気分になる。
布団をあげ、寝巻を脱ぎ、箪笥の前で逡巡(しゆんじゆん)した後、自分が着てきた着物を身に着ける。
これから部屋中の掃除と食事を作らないといけない。
せっかく貰った着物を汚すことが忍びなかったのだ。
台所に下り、食材が無いか探していると、戸をとんとんと叩く音がした。
「どうー? 心地よく過ごせてるー?」
「佛木さん、どうして」
開いた戸の先にいたのは、食材の入った風呂敷を持った蛍だった。
急いで来てくれたのだろう。吐く息が真っ白で、頬が上気している。
「蛍でいいよ。だって、食事の支度、しなくちゃいけないでしょ」
いそいそと台所に入っていき、持ってきた食材を置いてゆく。
ご飯を炊くための釜に手を伸ばした時に、慌てて止めに入る。
「材料さえあれば、一人でできますから。蛍さんの手を煩わせるわけにはいけません」
蛍から奪った釜を手に、外にある井戸に向かった。
しゃきしゃきと米を研ぎ、水を入れ竈に乗せ、火をつける。
「気を使ってくれてるの? ありがとう。手際いいね」
「水瓶の水も変えておきますね」
「だぁめぇ。小夜ちゃんの体調が良くなるまで、食事のお世話は私がしまーす。栄養失調と過労で倒れてたんだからね!」
流れるように動く小夜を面白そうに観察していた蛍は、水瓶に水を汲もうと外に出ようとした小夜の前に立ちはだかる。
「でも……」
「でもじゃありませんー。病み上がりに労働は禁物だよ。さ、囲炉裏で温まってて」
蛍に背を押され、炭をおこして温かくなっている囲炉裏前に座らされる。
蛍は、水瓶に水を汲むために井戸を往復しはじめた。
蛍だけを働かせている居心地の悪さに俯いていると、すかさず蛍が声をかける。
「もうすぐ若旦那も来るからさ、そしたら相手してあげてよ」
「え……香月様が……」
「そうだよ。若旦那ってさ、自分の邸宅でご飯食べるのあんまり好きじゃなくてさ、だいたいいつもここで食べてるの」
「そんな、それじゃあ私、お邪魔では」
「そんなことないって。若旦那一人でここで食べるの、いつもつまんなさそうだなって思ってたんだよね。小夜ちゃんが一緒に食べてくれたら私も嬉しいな」
「それじゃあ、蛍さんも……一緒に」
「だめだめ、これでも香月家の使用人だからね。小夜ちゃんは、研究所の職員で若旦那の保護対象だし。護衛も兼ねての食事ってことでいけるけど、私は使用人だからね。別に食べるよ」
瑛人が来ると聞いて、更に居心地が悪くなる。
瑛人の顔を見られることは嬉しいが、瑛人を前にすると妙に胸がそわそわするのだ。
せめて蛍も一緒にいてくれたら、と思ったもののすげなく断られてしまった。
「でも……何もしていないのが落ち着かないんです」
「いいからいいから。できるまでお茶でも飲んで待っててよ」
囲炉裏に鉄瓶をかけた蛍は、お湯が沸くまで待ってね。と笑うと、手際よく朝餉を作っていった。
目の前に置かれた温かい茶を少しづつすすっている間に、朝餉の支度ができていく。
香ばしい米の香りに、美味しそうな焼き魚の匂い。
軽快に菜を切る音に、味噌汁の香りが食欲をそそり、小夜のお腹が小さく鳴る。
蛍に聞こえていないだろうかと、そっとお腹を押さえ顔を赤くしていた時、玄関の戸を叩く音が聞こえた。
はーいと返事をした蛍が、戸を開ける。
「あ、若旦那。ご飯できてるよー」
「ああ、ありがとう蛍」
戸の外側にいたのは、瑛人だった。
軍服をきっちり着こなし、帯剣している。
蛍に開かれた戸から、迷いなく中に入ってきて、剣を脇に置き小夜の前に座る。
そこにすかさず蛍が茶を淹れた。
「昨日は、ありがとうございました」
昨夜のことが気まずかったが、瑛人は気にしていない様子だったので気まずい気持ちを押し隠す。
風呂上りに鉢合わせたとはいえ、家の手配から、着物や生活必需品の手配までしてくれた瑛人に自然と頭が下がった。
「着物は……気に入らなかったか?」
小夜の姿に、瑛人が不安そうな顔をする。
「いえ、全部見事なものばかりで着るのがもったいなくて。汚してもいけませんし」
「汚れたら別のものを持ってくる。だから、遠慮せず着てほしい」
「そんな、申し訳ないです」
瑛人と小夜の押し問答に割って入るように、蛍が朝餉の膳を瑛人の前に置いた。
「遠慮せず受け取ってあげてよ。一生懸命、若旦那が選んだんだからね」
ぱちんと片目をつぶって笑いかけ、小夜の分の膳を運んでくれた。
蛍の言葉を聞いた瑛人は、軽く茶を吹いている。
「ほ……蛍の古着の中からな!」
「えー、私はあんな着物持ってなかったけどなー」
「蛍‼」
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
ぽんぽん行きかう二人の会話が面白く、ふふっと笑う。蛍に文句を言っている瑛人の耳が、ほんのり赤くなっているのは気のせいだろう。
「小夜ちゃん、本当に気にせずに着てあげてね。そうじゃないと、着物がもったいないよ」
「は……はい」
あの着物が瑛人自ら選んでくれたものだと知って、ほんのり心が温かくなる。たとえそれが、職員の福利厚生の一環であったとしても、誰かに気にかけてもらうという行為が小夜にとっては珍しいことだったからだ。
朝餉を食べたら着替えようと思いながら、瑛人と共に蛍の用意してくれた膳に箸を入れた。
朝から、いつも食べている量よりもかなり多い朝餉を食べたので胃が苦しい。残して昼に食べることも考えたが、蛍が楽しそうに昼の下準備をしているのを見て、懸命に食べた。
瑛人は、そんな小夜の倍量のご飯を平らげていた。
男の人で軍人だからよく食べるのだな、とぼんやり見ていると、瑛人と目が合った。
にっこり笑った瑛人は、小夜に向かって小さな箱を差し出した。
思わず両手を掬うように差し出すと、そこに四角い包みの何かが箱から降り出てくる。
「これは?」
「食後の甘味にどうぞ」
四角い包みをかさかさ剥いで、中から出てきた茶色いものを口にした瑛人を見ながら、真似をして包みを剥いて口にする。
お腹はいっぱいだったが、包みから漂ってくる甘い香りへの好奇心が勝ってしまった。
「甘い……」
「キャラメルは、初めて?」
「はい」
甘味なんてこれまで口にすることのなかった小夜にとって、甘く焦がした乳の味がするキャラメルは、驚くほど美味しかった。
口の中から無くなるのがもったいなくて、長い時間をかけて口内で楽しんだ。
「あーまたそんなもの食べて! 子どもじゃないんだから」
「いいじゃないか。食後の楽しみなんだ」
「小夜ちゃん聞いてよ。旦那ってね、この歳で駄菓子が好きなんだよ」
「駄菓子?」
膳を下げに来た蛍に見とがめられて、瑛人(あきと)は少し気まずそうにしている。
「そうそう。研究所から出た先の町中に、馴染みの駄菓子屋があってね。よくそこで駄菓子を買ってくるんだよ。食べるなら、パーラーのあいすくりんとか菓子屋の羊羹とかにすればいいのに」
「手軽に食べられるのがいいんじゃないか」
幼いころ旭のお伴で連れていかれた駄菓子屋のことを思い出す。
華峰家の娘として、駄菓子屋のような場所で買い物をすることを禁止されていた旭は、家族にばれないよう小夜を見張りにたてて、駄菓子屋での買い物を楽しんでいたのだ。
色とりどりの菓子やおもちゃが並んだ場所で、旭はそれらを大量に購入しては、友人たちに配っていた。
もちろん、小夜は仲間ではないため、楽しむことはなかったが。
旭の友人たちが、楽しそうに遊んだり菓子を頬張る姿を、子どもながらに微笑ましくみていたものだ。
「いいですね。駄菓子屋」
そんな駄菓子屋で、瑛人も楽しんでいるのかと愛らしく感じる。
「ほら、いいじゃないか」
「えーだめだよ、若旦那を甘やかしちゃ」
小夜の反応に気をよくした瑛人が、事態が落ち着いたら一緒に駄菓子屋に行こうと言い出し、蛍にたしなめられて終わった。
キャラメルを食べ終わった後、座っていていいという蛍に無理を言って、膳の片付けを手伝い、蛍と共に部屋の掃除を終わらせた。
蛍と働いていると、礼も言われるし、褒めてもくれ、なんだかこそばゆい。
その間、瑛人は茶を飲みながら紙の束を読んでいた。おそらく仕事関係のものだろう。
「お手伝いありがとう。あとは旦那と研究所に行って健康診断してきてもらってきてね」
「はい。血を採るんでしょうか」
研究所の病室で休んでいるとき、幾度か検査という名目で血を採ったことを覚えている。大きな針のある注射器という器具を肌に刺して採るのだ。
痛みは我慢できるが、皮膚を破る針に血が抜かれていく感触は慣れず、これから血を採ることを想像すると少しだけ怖く感じた。
それでも、これが自分の仕事だと首を振り、恐怖心を追い払う。
「最終的には定期的に血を採らせてもらう予定だが、まずは君の健康状態が良くならないことにはできないんだよ」
不安に思っていることが伝わったのだろう。小夜を安心させるように瑛人が微笑む。
「そうそう。血を採った後って具合が悪くなったりするって言うし、ただでさえ青い顔してるんだから、健康になってからじゃないと危ないよ」
「健康診断しだいだが、しばらくは栄養を採って、ゆっくり休むことも君の仕事だから。遠慮なく蛍を使ってほしい」
「ちゃんと休んでるか、毎日監視に来るからさ」
「え……」
そんなことが仕事でいいのかと戸惑う小夜に、蛍が笑顔を向ける。
「え、じゃなくて、それが小夜ちゃんの仕事なの。ね、若旦那。さ、出かける前に着替えておいでよ」
気風のいい蛍の言葉に、瑛人が優しく頷いた。
***
「こんにちは。顔色が良さそうね、小夜さん」
「お世話になります。宇佐美先生」
瑛人について研究所の診察室に入った小夜は、隼の前で礼をする。すると、すぐに隼の前にある丸椅子を勧められた。
瑛人に貰った白地に松と梅柄の着物が汚れないよう、慎重に腰かける。
これまで、継ぎのある着物か毒々しい赤い着物しか着たことがなかった。
なので、瑛人や蛍にも似合うと褒めてもらったこの着物を大切に着たいという思いが所作に現れていて、その様子を見た隼が微笑ましく笑う。
「香月のお坊ちゃんや佛木さんに言っておいたように、あなたの栄養状態が良くなるまでは採血はしないわ。でも基本データは盗らせてね」
隼の言葉通り、検査着に着替えた小夜は、身長から体重、体のサイズまで測られ、羞恥心が限界に達している。
「お疲れ様。大分体重が少ないわね。それに、貧血もある……」
「あの……私のお仕事は、血を提供することなんですよね」
「そうよ」
「なら、できるだけ早く血を採ってください。私、こう見えても健康なんです」
小夜の診断結果を見て眉を顰めていた隼に、家を出る前から言おうと思っていたことを一気に言った。
焦るような表情をした小夜に、隼はふっと笑う。
「小夜さんは、とても責任感が強い人なのね」
「じゃあ」
検査着の袖を捲り両腕を差し出す小夜を前に、首を振った隼は眼鏡を外し、モダン部分を軽く口にする。
「でも、だめよ。あなたの血はね、貴重なものなの。あなたが健康を損なってしまったら、もう二度と手に入らないかもしれない。だから、小夜さんは自分の体を労わって、健康な状態に保ってほしいの。怪我もなるべくしてほしくないわ。もちろん、病気もね。できる?」
真剣に噛んで含めるように言う隼に、小夜は頷くしなかなった。
これまで、傷つけられることも、食事を抜かれることも、熱を出すこともあった。
それでも小夜に割り振られた仕事が減ることはなく、不調な状態を押しながら、与えられたことをこなしてきた。
だから、血を抜かれる程度のことが仕事になるなんて思いもよらないことだった。
これまで、瑛人と蛍から与えられたものに対し、小夜はどれだけでも血を採られてもいいと思っていた。
そうすることでしか、彼らに報う方法が思いつかなかったのだ。
「あなたの仕事は、自分を労わることよ」
「自分を……労わる……」
「そ、そのうえで、私たちにいい血を提供してちょうだいね」
眼鏡をかけなおし、パチンと片目を閉じた隼(はやて)に、まだ栄養状態がよくないから、あと一貫ほど太るよう申しつけられ、その日の小夜の仕事は終わった。
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