第2話 薄幸令嬢の婚約者
真っ赤な色に艶やかな花柄が入った着物を着た、というよりも着られているようにも見える十六ほどの柔和な印象のある少女が、モダン柄の着物と濃紺の袴を粋に着こなした十五ほどの華やかだがきつい印象のある少女の荷物を持ち女学校の門を後にした。
昨今の帝都では、女学生の間で袴を履くことが流行している。
つややかな黒髪を豊かに編み、健康的な体躯をした可憐な容姿のきつめの美少女は、艶のない髪を無造作に一つ結びにして無表情に後ろを歩く、不健康に痩せた青白い顔の少女に向かって侮蔑の視線を向けた。
「お姉様がいつも真っ赤な着物をお召しだから、わたくしまで笑われてしまいます」
「ごめんなさい、旭」
旭と呼ばれた少女は、美しい唇をくしゃりと歪め笑う。
「お姉様は、女学校でなんと呼ばれているかご存じですか?」
後に続く言葉は、毎日決まって同じだ。
「娼婦ですよ、娼婦。由緒正しき華峰家の長女が、なんて嘆かわしいことなの」
はたからみたら、姉妹が仲良く内緒話をしているような構図で嫌味を言い募る。この会話は、女学校へ行く道と帰る道に飽きもせず繰り返される。
「下品なほどに真っ赤な着物、年齢が祖父ほども離れた婚約者。お姉さまって、本当に変わってますわ。わたくしなら、楚々とした中にも粋な物を選びますし、婚約者だってもっとお若くて素敵な方がいいです。ね、小夜お姉さま」
「旭の着物はいつも素敵だし、あなたなら、婚約者にも愛されるわ」
小夜の言葉はいつも決まって同じものだ。
それ以外の言葉を紡げば、旭の実母であり小夜の継母である華峰菖蒲にあることないこと言いつけられ折檻をうけからだ。
「当然ですわ」
幾度も耳にしたはずの小夜の言葉は、今日も旭を満足させたようだ。
機嫌を損ねてはならないと顔色を窺っていた小夜は、小さく息をつく。
***
物心ついたころから華峰小夜は、華峰家で厄介者として扱われてきた。
小夜は、父親である華峰蒼が若い折、家の反対を押し切って当時の婚約者である菖蒲を差し置き、愛しい女と駆け落ちした末に産まれた娘だった。
小夜の実母は産後の肥立ちが悪く小夜を産んですぐ亡くなり、産まれたばかりの赤子を抱えたうえに、働くことに不慣れな蒼はすぐに根を上げ華峰家に帰った。
華峰家に戻ってからは、幼い小夜に蒼は見向きもしなかった。
愛した妻を奪った娘として憎まれた方がまだましだったかもしれないと思うほどに、蒼は何事にも無関心を貫いた。妻を失って、魂まで失ったかのように。
その様子に危機感を抱いた先代は、以前の婚約者に頭を下げ、新たに所帯を持たせた。
新たな女を与えれば。それも幼いころから婚約者として育ってきた気心の知れた間柄の男女であれば、腑抜けた蒼も正気を取り戻すだろうと思ったのだろう。
残念ながら、その試みは外れた。
一度婚約を破棄され男に裏切られた女と、愛した女を失い全てに興味を失った男では心を交わすことが叶わなかった。
それでも後継者を求める声は重く、一年後産まれたのが小夜の腹違いの妹である旭だ。
次は男をと求められていたが産まれることなく、華峰家では二人の女児が育つこととなった。
***
「おかえりなさい。旭」
華峰邸の玄関で華やかな着物を着た、三十後半ほどの髪を結いあげた旭によく似たきつめの美女が出迎える。この家の女主人である華峰菖蒲だ。
「ただいま帰りました、お母様」
笑顔で言葉を返す娘に満足げに頷き、玄関先で頭を下げているもう一人の娘に虫でも見るかのような視線をよせる。
「小夜、霧城子爵がいらしてます。荷物を置いたら客間にいらっしゃい」
菖蒲の言葉に小夜の肩がびくりと震える。
その様子に綺麗な二重の目を弧にした菖蒲は、ふふと笑った。
「旭、いらっしゃい。子爵からあなたの大好きなお菓子をいただいたの」
「まあ、わたくし霧城のおじ様大好きよ」
「あなたが出ていったら霧城子爵の視線を独り占めにしてしまうから悪いでしょう。部屋でお菓子を食べていらっしゃいな」
「はぁい」
無邪気にはしゃぐ旭の傍を通り抜けようとした小夜の肩を菖蒲が掴む。
「粗相がないようにね。小夜」
肩の痛みに眉をひそめていると、旭が笑った。
「お姉様は、いつもおじ様の前で粗相してばかりですものね。先日は、菓子皿を割りましたし、その前はお湯呑。おじ様が弁償と言って包んでくださってますけど、いくらなんでも失礼すぎます」
「そうね。子爵にいただいたそのお着物も汚さないようになさい」
旭と菖蒲の言葉に、はいとだけ返事して荷物を置きに奥の部屋に足早に向かう。
途中、華峰家の中で三番目に大きな部屋である、旭の部屋に立ち寄り、荷物を置き自室へ向かう。
屋敷の最奥に近い場所の、元は物置だった場所が、小夜の部屋だ。
同じ華峰家の娘なのに旭の部屋とは大きさも、置いている家具の質も違う。
だが、自室があるだけましだろう。父の過ちで産まれてきた子なのだから。
女学校で使う荷物をボロボロの机の上に置き、急ぎ客間に向かった。
「おお、小夜。待ちわびたよ」
客間には、六十過ぎの、洋装に身を包んだ白髪で恰幅のいい老人が、四十前半ほどの無気力な目をした神経質そうな蒼と、にこやかに笑う菖蒲と共に卓を囲んでいた。
ふすまの前で一礼して入室する小夜の一挙手一投足を、半開きの目の老人はなめるように眺めている。
小夜はこの婚約者が恐ろしい。
先祖が作った借金を援助するという名目で、霧城大和の婚約者におさまったのは今よりも幼いころだった。
それまでは使用人同然の扱いを受け、着るものも食べるものもろくに与えられていなかったが、大和の婚約者になったことで小さくとも部屋を与えられ、最低限の着物と食事も与えられるようになり飢えることもなくなった。
華峰家から嫁がせるには相応の教養も必要だとして、女学校にも通うことができるようになった。
以前に比べたら格段に生活はよくなったが、月に一度、面会と称して大和が訪れる時が苦痛でたまらない。
「お茶をお出しして。小夜」
菖蒲に促されるまま、用意されていたお茶を婚約者の前にそっと差し出す。
細心の注意を払って出された湯呑は、大和によって倒された。
「何をしているの。あなたは、いつもいつも!」
大和の目の前で怒鳴る菖蒲の目は笑っている。
彼女は、今の小夜の状況が愉快でたまらないのだろう。
「申し訳ございません、霧城子爵。この子のしつけは子爵にお願いしてもよろしいでしょうか」
嫣然と笑いながら座布団の横から大和に差し出されたのは、竹製の鞭だった。
「うむ。これも幼子に対するしつけだから、仕方がないね」
もっともらしいことを言いながらも、大和の目はぎらぎら輝いている。
大和の婚約者になってから繰り返されているこの茶番に、早く終わってほしいと思いながら着物の袖をまくり、両腕を大和に向かいさしだした。
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