第3話 薄幸令嬢と屍食鬼

 誰かに与えられる痛みが怖い、ということもあるが、小夜が血を流すたび、部屋や家の隅で黒いものが蠢くのが見えるのだ。


 小夜の血が黒い影を呼び寄せることを知ったのはいつ頃だろうか。


 傷の手当もされず、放っておかれた腕を抱え、痛みに寝れずにいた日、小夜の腕に実態の定かではない黒い影が押し寄せてきたことがある。


 恐怖に固まる幼い小夜の前で、影は両腕を取り、血を舐めた。


 すると、とたんに黒い影は霧散し、闇夜に消えたのだ。


 そんな出来事が何度も起こるうちに、出来る限り血を流したままにしないように気を付けるようになった。


 消えてしまうとはいえ、小夜が血を流すたびに黒い影が集まってくるのを見るのは心地よい気分ではない。


それに、血を舐めた黒い影が消えるたび、残された黒い影たちの敵意が小夜に向けられているような気がしてならない。


 黒い影は表立って小夜を傷つけることはなかったが、小さなものを隠したり、小夜の足をひっかけて転ばせようとしたりして困らせてくる。


 普段は無視しているが、小夜が血を流した日は、黒い影たちが色めき立つのが分かるのだ。


 黒い影に目を付けられないように足早に戻る。


 部屋には、わずかながらだが女中からもらった傷薬がある。


 毎月折檻されている小夜に同情してくれたのだ。


 残り少なくなった傷薬を、裂けた皮膚に塗り込み、古着を裂いて作った包帯を両腕に巻いた頃、旭が部屋に飛び込んできた。



「お姉様、わたくしの徽章を知らない⁉」



 徽章とは、小夜たちの通っている女学校の校章のことだ。袴につける用にバンド型になっているものとバッジ型になっているものがある。


 旭は、袴の色とバンド部分の色が異なることを嫌い、バッジ型を用いていた。


 その徽章を無くしてしまったらしい。



「知らないわ」



「そんな。わたくし、落してしまったのかしら。お姉様、探してきてくださらない?」



 黒い影を肩に乗せた旭の言葉に、ちらりと外を見る。


 外はすでに日が暮れ、暗くなっている。


 徽章のように小さなものを探すには不向きだ。


 そのうえ、昨今帝都では凄惨な事件が多くなっており、夜間の外出は極力控えるように女学校でも注意されていた。


 噂では、屍食鬼という名の鬼が、夜な夜な出歩き、人間を襲っているらしい。


 なんでも、土葬したはずの死体が蘇り、生きた人間の血肉を求めさまよっているそうだ。


 教師たちは噂を否定しているが、噂好きの女学生の間で、まことしやかに広がっている。



「せめて……明るくなってからでは……」



「なにかおっしゃって?」



 喉を食い破られ血を抜かれた死体の話を思い出し、思わず旭の言葉に反論してしまったが、笑顔で睥睨する旭の言葉に口をつぐむ。


 旭の言葉は、お願いの体をしているが実質命令だ。断れば、菖蒲に言いつけられ大和の「しつけ」以上の折檻が待っている。



「探してくるわ……」



「ありがとう、お姉様。お姉様の徽章を借りようかとも思ったけれど、他人のものを身に着けるのって、気持ち悪いでしょう? お願いしてよかったわ」



 よろしくね。と優雅に手を振り、部屋を後にした旭に気づかれないようため息を落とし、使用人用のお仕着せに着替え、提灯を借り、暗くなった外へ出た。




 昼間は明るく健全な様相の道も、日が暮れると途端に不気味なものに変わる。


 華峰邸は、女学校のある中心部からやや離れた場所にある。


 女学校付近にいけば、ガス灯も立っているだろうが、華峰邸付近は暗い。


 運がよかったのは、今夜が満月だったことだ。


 月明りに照らされ、道が見やすいことがありがたい。


 それでも徽章を探すには明るさが足りなかったので、昼間通った道をたどりながら隅々まで提灯で照らして探す。


 暗い中、人とすれ違うたびに体がこわばったものの、皆、道の隅でかがんでいる小夜には目もくれず帰路に急いでいた。


 こんな広範囲に落したものを、しかも暗くなってからなんて見つかるわけがないと思いもしたが、見つけなくては家に帰れそうにもない。


 出がけに菖蒲に見つかり、どこにでかけるのかととがめられ、理由を話したら、嫣然とした笑顔で見つけるまで帰ってこないよう言いつけられたのだ。


 旭が徽章を落したのは、帰路で旭に話しかけた小夜に注意をとられたせいで、その罰なのだそうだ。


 菖蒲にとって、小夜は自分を捨てさせた女の子どもだ。


 幼いころに小夜を養子に出すという話もあったが、蒼が嫌がり手元に置かれた。


 駆け落ちから戻って以降、何事にも関心を見せなくなった蒼が唯一関心を見せた瞬間だったと、菖蒲は憎々し気に語っては小夜を折檻していた。


 菖蒲が蒼に愛されず、跡取りの男子を産めずにいることも小夜のせいだと詰られた。


 蒼が小夜のことどころか、華峰家の全ての雑事に関心を見せないことをいいことに、菖蒲が実質的に実権を握っている。


 華峰家での小夜の扱いは、菖蒲の匙加減一つだ。


 小夜は、自分の不運を嘆くという感情すら知らずに育っていた。


 淡々と言われたことをこなすこと。折檻の痛みに耐え、声をたてぬこと。


 それが小夜にとっての日常だ。



「きゃああああああああ」



 十字路に差し掛かった時、女の悲鳴が夜闇に響いた。


 提灯の火を吹き消し、近くの塀に身をひそめる。


 芯まで凍えそうな冬の夜の空気の中に、むっと血の匂いが広がる。


 逃げなくては。


 そう思った瞬間、獣のような人間のうなり声が近くに聞こえる。



「おや、この女のものとは違う血の匂いがしますね。これは、いい香りだ」



 踵を返し駆けだそうとした瞬間、背後の男に捕まった。


 何の気配もなく現れた男は、三十代ほどで、黒い髪を腰まで伸ばした、いかにも裕福そうな黒のスーツにハットをかぶった痩躯の狐面に似た顔を、小夜に向けて軽薄そうに笑っている。



「離して……ください……」



 恐怖を隠しきれず震える声で懇願したが、男が小夜を掴む手は強くなる。



「現場を見られてしまいましたからね。残念ですけど、あなたも餌になってもらいましょう」



 男が指さした方向を思わず見てしまう。


 灰色の肌をして瞳が白濁した男が女に覆いかぶさり喉笛に噛みついている。まるで野生の獣のように、幾度も首を振りながら女を揺さぶる男の口からは、血が迸っていた。



「かわいらしいでしょう。我々はなりそこないと呼んでいるんですけどね、ああも一心に血を求める姿は愛おしくすらあります」



 口から悲鳴が零れ落ちそうになり、すんでのところで飲み込んだ。男の拘束を解こうともがくが、びくともしない。



「ああ、それにしてもあなたの血はいい香りがしますね。私でさえ食指が伸びそうだ」



 押さえられた腕から、巻いていた包帯が解かれ舌を這(は)わされる。


 ひっと声を抑えながら男をみれば、満足そうに口元をぬぐっている。



「これは……なりそこないにやるには惜しい味わいだ」



「離して!」



 恐怖と嫌悪から男を突きとばすと、さっきまでびくともしなかった男の拘束が外れ、勢いよく灰色の男の前に倒れ伏してしまった。



「ぐるぁぁぁぁぁぁ」



 小夜を前にした灰色の男は、血まみれの女から飛び離れ、小夜の首筋に噛みついてきた。


 首筋に鋭い歯が突き立てられ、皮膚が破れる感触がする。じゅるじゅると下品な音をたてて、首筋から外へ流れる血が吸われている。



「なに⁉ 力が入らない……。女、私に何をした‼」



 体内の血液が勢いよく無くなっていく感触に気が遠くなっていく。


 男が小夜に向かい、怒りにまかせて手を伸ばす。



「ぎゃああああ」



 男の手が地面に落ちたのは、小夜の肩に着くかつかないかの瞬間だった。


 男が怒りの叫び声をあげている間に、小夜の首筋に噛みついていた灰色の男の首が飛んだ。


 小夜の体に抱きつき、ぴくぴくと痙攣している灰色の男の体を誰かが蹴り飛ばし、小夜から離した。



「大丈夫か?」



 倒れそうになっていた小夜を抱き支えたのは、二十歳ほどの、月のような目の色をした美しい顔立ちの軍人だった。


 月明りの下でもわかるほど透き通る白肌に、金の瞳。どこか異人じみているが、この国の人間の特徴を引き継いだ面差しをしている。



「手が治らない! 銀の剣ですね!」



 切り落された手を切断面にくっつけていた男は、軍人に向かって牙をむく。



「ようやく尻尾を掴んだぞ。不知火夜光! お前が屍食鬼を連れ歩き、夜な夜な人を襲っていることは軍でも把握済みだ。一緒に来てもらおう」



 夜光と呼ばれた男は手と腕の切断面を自ら食い破り、肉片を吐き捨て、切り落された手を腕につけた。


 すると肉が意思をもっているかのように動き出し、切り落されたはずの手が治る。

 肉が蠢く様子に、小夜は恐怖心から吐き気をもよおし、目をそらす。



「あなたごときに付き従う私ではありません。こたび殺されたなりそこないについては、後ほど責任を追及させていただきます」



「人を襲わせておいて何を!」



 銀の剣を振るった軍人から、距離をとった夜光は、地面に躓きながらその場から走り去っていった。




「ああ……よかった。まだ息がある」



 灰色の男——屍食鬼——に喉元を食われていた女は、幾度も喉を噛みつかれ血を流していた。体内の血も抜かれているようで気絶している。


 気を失った女を介抱する軍人を手助けしていた小夜の首に、白いハンカチがあてられた。



「君も被害者なのに、手伝わせてすまない。せめてこれで傷口を押さえて」



「あ……ありがとう、ございます」



 感触から絹のハンカチだと分かった。こんな高価なものを、と恐れ入ったが、すでに汚してしまっているので、観念して受け取った。


 噛まれた傷跡は鈍く痛む。



「あの……屍食鬼っていうのは噂の……」



 夜光という男がなりそこないと呼んでいた首と胴の離れた屍食鬼が視界に入り、小夜はそっと目をそらす。



「今夜のことは口外しないでほしい。屍食鬼の存在も噂のままであってほしいんだ。今回のことは、ただの物取りの犯行、とだけ」



 女の手当を終わらせ、軍帽を外して汗をぬぐう軍人の髪は、月明りの下でも明るい胡桃色だった。


 珍しい色合いにしばらく見入っていると、軍人は困ったように笑みを浮かべる。


不躾だったと慌てて目をそらしたころに、応援の人たちが到着して気絶した女を保護し、切られた屍食鬼を回収していった。



「助けていただきありがとうございました。それでは、私はこれで……」



 落してしまった提灯は破れてしまったが、まだ使えそうだと拾い上げる。


 襲われたとはいえ、旭の徽章を見つけられずに帰ってしまえば折檻が待っている。


 身体は辛いが、このまま帰ってしまうほうがもっと辛い。


 外での恐怖よりも内への恐怖の方が勝り、徽章を探しにいこうと軍人から火を借りた。



「一人では心細いだろう。怪我もしていることだし、家まで送ろう」



 提灯に火を貰い、そのまま別れようとした小夜は軍人の言葉に戸惑った。


 このまま徽章を探しに夜道に行くと言えば止められることは明白だ。


かといって、家に帰ってしまえば旭と菖蒲からの叱責が待っている。


 困り果てて黙っていると、目の前の軍人も困ったように短い頭を掻いた。



「こんな夜更けにうら若いお嬢さんが出歩いていると、また襲われてしまうよ。さあ」



「徽章を……探さないといけないんです……」



 差し伸べられた手をとることができず、呟くように言葉を吐いた。



「徽章? 女学校の?」



「その……妹が落してしまって、見つかるまで家に帰れないんです……」



 自分でもなぜそんなことを言ってしまったのかわからない。


 けれど、いかつい軍服とは裏腹の優しそうな垂れ目で見つめられると、自分が彼の好意に甘えられない理由を話していた。



「なるほど、失せ物を探していたのか。それなら、一緒に探そう」



 軍人の言葉に、うつむいていた顔をぱっとあげ、慌てて断りを入れる。



「そんな、軍の方に手伝っていただくなんて恐れ多いです」



「こんなに暗い中、傷を負った事件の被害者を一人で放り出すなんてできないからね。さあ、そうと決まったら探すぞ。地面を照らして」



 困惑する小夜を前に、明るく言い放った軍人は、その場に四つん這いになり地面を隅々まで見はじめた。



「何をされているんですか、香月少尉」



 屍食鬼を担いだ軍人が焦ったように使づいてくる。


 四つん這いになって地面と顔を近づけている男は少尉だったのか、と小夜は焦りを隠せない。



「このお嬢さんが、失せ物をしていてね。見つかるまで帰れないそうだから、一緒に探しているんだよ」



「それなら、駐在所に届けられているかもしれないじゃないですか」



 朗らかに笑う香月は、呆れ顔の軍人の言葉になるほど、それもそうだ。とポンと手を打った。





「駐在所にも届けられていなかったね。君の傷も心配だし、今夜は帰りなさい。詫びは僕がしてあげるから」



「そこまでご迷惑をおかけするわけには参りません。その……ありがとうございました」



 結局、徽章は見つからなかった。


 駐在所に行った後、届けられていないことが分かってから香月は手の空いた軍人たちに徽章探しを命じ、探してくれたのだ。


 それでも徽章は見つからず、小夜の傷も心配だということで捜索は打ち切られた。


 こんなに多くの人の手を煩わせてしまったことが申し訳なく、小夜は顔をあげられない。



「それがね、君の傷は早期に血清を打たねばならないものなんだよ。あの鬼には未知の病原菌が潜んでいてね」



「え……」



「すぐに僕たちの研究所に連れて行ってあげたいところだったのだけど、見たところ君は未成年だし、血清を打つには保護者の許可が必要なんだ。なに、大丈夫。潜伏期間は四日ほどで、その間に血清を打てばどうってことないから」



 その説明も踏まえて君のお宅に訪問したいんだ。と告げる香月に、小夜は若干血の気が引いた。


 そんなわけのわからないものが帝都の夜を跋扈していたなんて。


 血清を打たねばならないと言っていたが、菖蒲は許してくれるだろうか。


蒼はきっと無関心だろうが、金がかかることに対しては難色を示す。


 不安に身を苛まれているうちに、小夜たちは華峰の屋敷に着いた。



「遅いですわ、お姉様。徽章はわたくしの部屋にありましたのよ。徽章探しに無駄な時間を裂いて、今夜のお手伝いができなかったことをお母様は怒ってらっしゃるわ。これもお姉様の身勝手のせいですからね」



 玄関を開け女中に帰ったことを告げると、帰宅の音を聞いた旭が待ちわびていたかのように出てきた。


 そして、血に濡れた小夜の首筋に目をやり眉をしかめたあと、共に入ってきた香月の顔を見てぽうっとした表情をしている。



「そちらの方は?」



「初めまして、香月瑛人と申します。このお嬢様が物取りに襲われているところを保護いたしました。ご主人はどちらに?」



「あら、今呼びにいかせますわ。お茶でもいかがです? お姉様、すぐに着替えて用意してきてくださいな」



「いえ、お宅のお嬢様は怪我をしていますので、遠慮いたします」



「姉はこの程度の怪我なんてしょっちゅうで慣れておりますの。粗忽者なんです。でも、確かに、このようにみっともなく怪我をしている者に淹れられたお茶なんて飲みたくはないですわよね。わたくしが淹れますので、少々お待ちくださいな」



 軍服の階級章に素早く目をやった旭は、瑛人の顔をうっとりと眺めてから奥へと引っ込んだ。


 途中、菖蒲につかまって部屋に行くようにと言われたようで、言い争う声が聞こえた。



「お手間をとらせて申し訳ございません。この家の主は、用があって出られませんの。ご用件はわたくしが伺います」



 奥に引っ込んだ旭の代わりに、菖蒲が出てきて香月に深々と頭を下げる。



「まあ、小夜。そんな怪我をして。日が暮れてから出ていったあなたが悪いんですよ。嫁入り前の体に傷をつけて、霧城子爵にどう言い訳をするおつもり? 下がって手当していらっしゃい」



 菖蒲の言葉に黙って頷き、瑛人に礼をし、その場を後にした。




 部屋に入ったとたん、安堵感からその場に座り込む。


 大和の「しつけ」に加えて、凄惨な現場に巻き込まれたのだ。肉体的だけでなく精神的な疲労も大きい。


 道すがら水を入れて持ってきた桶に手ぬぐいをつけ、首筋を洗う。


 桶の水は、すぐ血の色に染まった。


 鏡面が割れた鏡台で傷口を見ると、穴が二つ空いていた。


 首を飛ばされた屍食鬼の口に大きな牙があった。その噛み跡だろう。いくらか血も吸われたようで、頭がくらくらしている。


 幸いなことに血は止まっていた。残り少ない傷薬を取り出して塗る。


 部屋に帰るときにすれ違った女中仲間が傷を見とがめ、古い包帯をわけてくれたので、それを首に巻いて、ようやく人心地ついた気がした。


 洗濯するために、汚れてしまった着物を脱ぎ、つぎはぎだらけの寝巻に着替えた。瑛人から差し出されたハンカチも洗わないといけない。


 血に濡れてしまった高級そうな絹のハンカチを手に、小さくため息をつく。

 これでは洗ったとしても汚れが落ちずに返せないだろう。


 新しく同じものを買って返すのが礼儀なのだろうが、小夜の手元にお金はない。

 旭はお小遣いをもらっているが、小夜が貰えるはずもなく。


女中と同じように働いても、給金もない。


 どうしようかと逡巡していると、どすどすと乱暴な足音が近づいてきた。



「あなたに血清を打つようにですって⁉ 夜も更けてから外に飛び出して行って勝手に怪我をしたあなたごときにそんなことができるわけないでしょ! まったく、我が家に恥をかかせないでちょうだい!」



 ふすまが乱暴に開かれ、鬼の形相の菖蒲があらわれる。



「旦那様はあなたのことなどどうでもいいと寝てしまうし、あなたはあなたで軍人を連れてくるし、いったい何を考えているの!」



 振り上げられた手が小夜の頬を打つ。


 徽章を探しに出るようにと言いつけられた事は、なかったことにされているが、それもいつものことだ。


 言い訳をすれば折檻はよりひどくなる。


 歯を食いしばり、せめて口内を傷つけないよう気を付けながら菖蒲の平手を受け続けた。



「あなたはしばらく外出禁止です。花嫁修業に家のことをしていなさい」



 小夜の頬が真っ赤にはれあがた頃、ようやく菖蒲の気がすんだようで部屋から出ていった。


 いつもならば竹の鞭で、大和が「しつけ」を行う場所を叩いていた菖蒲だが、鞭は大和が折ってしまった。


代わりのものが見つからず手を使うしかなかったようだ。


 鞭ではなく手を使う羽目になった菖蒲は、手が痛い、と忌々しそうに吐き捨てていた。


 扱いはともかく、霧城子爵の婚約者で華峰家の長女である小夜が、頬を真っ赤に腫らして外を歩いていたら外聞が悪い。


しばらくは外に出されることはないだろう。


 両腕も、首筋も、頬も、どこもかしこもが痛かった。


 それでも、血に濡れた着物とハンカチを早く洗わないと。


と洗い場に向かう。


 華峰家の女中のお仕着せである着物はこれ一着しか持たされていないし、ハンカチは返せないかもしれないが早く洗えば汚れも少しはましになるかもしれない。


 家中が寝静まったのを確認して、これ以上菖蒲の怒りに触れないよう、こっそりと裏に出て井戸から水をとる。


 冬の夜の水は冷たい。


 手がかじかむのも構わずに洗い続けた。


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