03 闇夜の霹靂 2
舞踏会場は熱気に満ちて蒸し暑いほどだったが、湿気を含んだ夜風が通り抜ける街は肌寒さを増す。
目立ちにくい枯葉色のショールを羽織ったヘレーネは宿から静かに抜け出した。
西に傾いた欠けた月は、夜空を覆う厚い雲に溶け込んでいった。街燈の明かりを頼りに、トラウン川の畔に建つ郵便宿駅に向かう。
ザクセン王国の王都ドレスデンで教育を受けている兄のルートヴィヒ・ヴィルヘルムに手紙を出したい。
外国からの賓客を招いた舞踏会で衆人環視の中、見合い相手の皇帝に黙殺という辱めを受けた。
曰くつきの公爵令嬢となったヘレーネの結婚相手を改めて探し直すのは、困難だろう。
女性が一人では生きられない時代──。
娘は父親に、結婚すれば夫に、夫が死ねば息子の庇護を受ける。
結婚という道を閉ざされた女は、父や兄の庇護下に置かれることとなる。
迷惑をかける次期公爵の兄に、許しを請いたかった。
──そして、由々しき事態に備えて、兄の援護を頼みたい。
だが、ザクセンは遠い。
今から手紙を出したとしても返事が届くのは、急いでも三日はかかるだろう。
もどかしくて仕方ない。
(手紙を出すのをやめて、馬車に飛び乗ってしまおうかしら……)
速度の早い郵便馬車に乗せてもらえれば翌日中に兄の元に到着するだろう。
こんな辛い場所から逃げ出したい。
兄の胸に飛び込んで非道を訴え、縋りつき甘えたい。
逃避行という魅力的な衝動がヘレーネを誘惑する。
(あぁ……ダメよ。しっかりしなさい)
きっと見知らぬ土地の暗闇が心を弱くさせるのだろう。
戒めるように
全てを失ったヘレーネだが、妹のためにまだやるべきことは残っている。
浅はかな選択をして後悔だけはしたくなかった。
「っ!」
暗い路地から突然、黒い外套を身に纏った背の高い男が現れ、ヘレーネの前に立ちふさがった。
声にならない悲鳴を上げて、ヘレーネは一歩後ずさる。
男が黒いフードを外すと、暗闇でも目を引く赤金色の髪がふわりと流れた。
「驚かせてしまい申し訳ありません、へレーネ公女殿下。まさかこんな時間に一人で出かけるおつもりですか?」
「
彼の名は、マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス。
バイエルン王国の東部、ドナウ川とレーゲン川が交わるレーゲンスブルクに居を構えるタクシス侯爵家の世継ぎだ。
整った顔立ちの貴公子だが、やや吊り上がった目と、すっと通った鼻筋は気難しい猫を連想させた。
「……もう、アントンとは呼んでいただけないのですね……」
どこか寂しそうに呟いた青年は、珍しく目尻を下げて微笑みかける。
ヘレーネは胸がギュッと苦しくなった。
お互いに身分のことなど気にせず思いの丈を語り合った記憶がヘレーネの脳裏に蘇る。
あの頃、余り笑わない彼を微笑ませる度に仄かな達成感を覚えていた。些細なことで一日中幸せでいられたあの頃が懐かしかった。
「そんな薄着で、いったいどちらに行かれようとしたのですか?」
「少し散歩を……」
「……ご迷惑でなければ、お供させていただけませんか? お一人でいらっしゃるのは不安でしょう」
「いいえ、結構です。お気遣いなく」
断りの言葉を口にして、言い方に棘があるとへレーネは忽ち後悔した。
夜会中、皇帝に眼中にない扱いをされ、周囲から憐憫と嘲笑の的になって疲れ切っていた。
心がささくれていたとはいえ、無関係のアントンに八つ当たりをするのは間違っている。
後悔を滲ませたヘレーネは、唇を噛みしめた。
「──手紙を、出したいのですか?」
胸に抱く手紙に気づいたアントンは真剣なまなざしをヘレーネに向けた。
見られたものは、仕方ない。ため息混じりに頷いた。
「ええ、そうです。ザクセンにいる兄に」
アントンは一度きつく目を伏せると、おもむろに跪いた。
「無礼を承知で申し上げます。どうかその手紙を私に預けて下さいませんか」
「……でも……」
「この手紙が重要な物であるならば、ザクセンに届くまでの時間を惜しんではなりません。タクシス家ならば、どこよりも早く兄上の元へお届けできます」
アントンの申し出に対して、ヘレーネは即座に返答できなかった。
最速で手紙を届けることができるのは、ヨーロッパ広しといえどタクシス家を置いて他にない。
タクシス家はヨーロッパ大陸で最大の郵便流通網を築き財をなした一族だ。
神聖ローマ帝国解体の折、タクシス家が独占していた郵便網は莫大な補償金と引き換えに各国家に召し上げられた。
郵便流通事業から手を引いて久しいが、拠点施設も人員もタクシス家の影響は色濃く残ったままだ。
アントンは深く
彼に任せれば間違いはないとヘレーネは確信している。
だが──。
「──どうして? どうしてそこまでしてくださるの?」
「それは……」
震える声でヘレーネが絞り出した言葉は疑問だった。
冷たい一陣の風が二人の間を通り抜ける。
夜空を引き裂くように西の空に光が迸り、雷鳴が轟く。
(ああ、そういうことか……)
ヘレーネは彼の意図を悟った。
アントンが公爵宮殿のあるミュンヘンまで訪れてエリーザベトと秘密裡に会っているのを、へレーネは知っている。
贈り物を持参して定期的にエリーザベトに会いに来たアントンの後ろ姿をへレーネは何度も目撃していた。
「私がエリーザベトの姉だから、でしょ?」
「違います! 私は、ただ」
へレーネの言葉にアントンは弾かれたように顔を上げて首を振る。
タクシス家の侯世子マクシミリアン・アントンは、妹のエリーザベトに懸想している──ヘレーネが知る秘密だ。
皇帝とエリーザベトの恋をへレーネが妨害すれば、アントンは想い人と結ばれる機会に恵まれるかもしれない。
生憎、ヘレーネは皇帝と妹の恋を妨害するつもりは全くない。それがヘレーネの未来を閉ざすことだとしても──。
「ただ?」
「……私はただ……貴女のお役に立ちたいだけです」
「私を助けて下さっても、貴方が願った未来は叶わない。後悔なさらないかしら?」
「決して、後悔はいたしません」
ヘレーネが念を押すと、アントンはきっぱりと言い切った。
再び俯いた彼の表情は見えない。
だが、アントンの声音は痛みを堪えるかのように苦しげに掠れていた。
湿り気の強い風がヘレーネの身体に吹き付け、間近に迫る雨の訪れを告げる。
「───分かりました。この手紙を預けます」
しばしの沈黙の後、ヘレーネはアントンの提案を受け入れた。
彼は大切な宝物を扱うように恭しく手紙を受け取ると立ち上がり、胸に手を当て一礼する。
「必ずや御期待に応えてみせます。──貴女の輝かしい未来に幸多からんことを」
アントンは踵を返すと、夜の闇に溶けるように去っていった。
雨がポタポタと降り始め、石畳に雨染みが広がっていく。
(輝かしい……未来?)
前途有望な候世子が
小走りで宿に引き返しながら、アントンが植え付けた密かな憧れをヘレーネは苦々しく思い出していた。
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