01 夜会の光影

 公爵令嬢ヘレーネ・カロリーネ・テレーゼ・フォン・ヴィッテルスバッハは、夏夜かやの熱気が篭もる大広間の片隅で凍ったように立ち尽くす。

 オーストリア帝国の若き皇帝カイザーフランツ・ヨーゼフの見合い相手として、19歳になったヘレーネはオーストリア西部、ティロル山岳地帯にある湯治場バートイシュルに招かれていた。

 そこで想定外の事態が起こり、ヘレーネの未来は粉々に砕け散る。

 フランツ・ヨーゼフが、妹のエリーザベトにひと目で恋に落ちてしまったのだ。



 今宵は、皇帝の満23歳となる誕生前夜祭──。

 誰よりもめかし込まれたへレーネは、波打つ艶やかな黒髪を丁寧に結われ特注の白いソワレを身に纏う。

 外国の賓客も近隣の貴族も招かれ華やいだ雰囲気の中、従兄妹同士で身分も釣り合う皇帝フランツ・ヨーゼフと公爵令嬢ヘレーネは親交を深める予定であった。


 だが、周囲が何度もお膳立てをしてもフランツ・ヨーゼフは、へレーネと視線を交わすことさえしない。

 皇帝の瞳は情熱的な熱を帯び、エリーザベトただ一人を捉えて離さなかった。

 雪原を踏み荒らすが如く容易に、ヘレーネの真っ白だった未来は踏みにじられ一生消えない汚点がついた。


「あら……なんてこと! 妹君が陛下の御心を射止めるなんて……」

「まさか!  まだエリーザベト姫は15歳ですよ!?」

「でも、陛下のあの気に入りよう……御心が何処にあるかは明らかですわ」


 大広間の中央で青年皇帝に熱烈に見つめられ、恥ずかしそうに俯く妹姫エリーザベト

 会場の隅にひとり追いやられた姉姫ヘレーネ

 姉妹の明暗に驚きと興奮まじりに人々は囁きあう。


「明日のウィーンはこの話題でもちきりでしょうね」

「……ヘレーネ姫はお気の毒ね。今後、どうなさるつもりかしら……」


 フランツ・ヨーゼフの生母であるゾフィー大公妃エルツヘルツオーギンが気遣わしげな視線をヘレーネに寄せる。気力をふり絞りへレーネは微笑みを返した。

 ウィーン宮廷の絶対権力者であるゾフィー大公妃。“バイエルンの薔薇”と称された社交界の華も美貌と若さを失い、権力闘争の厳しさがうかがえる近寄りがたい女傑になっていた。

 しかし今、ゾフィーの双眸から注がれる眼差しには深い同情の色があった。申し訳なさそうに眉間の皺を深めるゾフィーに、ヘレーネは余計にいたたまれない気持ちになった。


 (きっと、もう……私が幸せになることはない)


 王家は体面を重んじる。

 皇帝が目もくれないことが公の場で露わになったヘレーネの立場は死んだも同然。

 婚約者候補から転落しただけでなく、王族の姫プリンツェシンとしての価値も失った。

 今後、まともな縁談など望めまい。人々の好奇の目に晒されながら日陰の身として生涯を終えるのだろう……。


 大公妃の隣に立つ人物に視線を移すと、大公妃の妹であるへレーネの母、ルドヴィカ公爵夫人ヘルツォーギンはすっかり取り乱している。扇を持つ手がぶるぶる震え、今にも卒倒しそうなほど動揺していた。痛々しい母の姿を見てられなくて、ヘレーネは思わず視線を逸らした。


 気づけば白いドレスの裾を強く握りしめている。純白のソワレは、この舞踏会にあわせてミュンヘンの一流の仕立て屋にルドヴィカが発注したものだ。陶器のように滑らかで白い肌を持つ華奢なヘレーネに白絹のドレスは恐ろしいほどよく似合っていた。

 こんな未来が待っているとは露知らず上機嫌で布地を選んでいた無邪気な母の姿を思い出し、ヘレーネの胸は軋むように痛んだ。


 バイエルン王女として生を受けたにも関わらず格下の公爵家へ嫁がされたルドヴィカにとって、お気に入りの娘であるヘレーネが皇家に嫁ぐことは悲願であった。

 ゾフィー大公妃の指示に従い、語学・歴史・礼儀作法・教養・宮廷貴族の暗記と膨大な妃教育を受けてきた。皇妃の名に恥じぬ花嫁支度の準備が整っていた。

 その全てが灰塵かいじんしたのだ。


 (お母様の期待も伯母様の信頼も裏切ってしまった……)

 

 ヘレーネは思わず顔を伏せた。

 この場から逃げてしまいたい。いっそ夏に降った雪のように、この世から溶けて無くなってしまえたらどんなにいいか。

 汚名は一生、そそげない。


 死を迎えようとも皇帝に拒絶された公女の烙印は歴史に刻まれ人々の記憶から消えることはないだろう。

 せめて生きてる間は、一族の恥として幽霊のように息を殺して寿命が尽きるのを待つのだ。

 悲痛な未来を想像すると心が悲鳴をあげ視界が滲み出す。


 ふと、ヘレーネは顔を上げた。

 咎めるような視線が首筋に突き刺さっていた。

 視線の先を辿ると人垣から距離を置いて立つ若者がいる。黄昏を映したような赤金あかがね色の髪が目立つ、背の高い男だ。

 彼は食い入る様にへレーネを凝視している。


 思わず姿勢を正すと、男の刺すような視線は柔らいだ。そして、“それでいい”とでも言いたげな表情を浮かべ口角を吊り上げる。


 (……笑った?)


 ヘレーネは面食らう。

 その笑みは、未来を失った悲劇の公爵令嬢を嘲り笑うものではない。場違いなほど晴れやかで、澄み切った青空のように屈託がない。

 だが、すぐに彼の顔から喜色は消え、苦々しいものへと変わる。

 青年はくるりと踵を返すと、足早に大広間から立ち去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る