02 闇夜の霹靂 1
舞踏会を終え宿に戻ったヘレーネは寝台の上に腰掛けた。
神経が昂って、今夜はとてもじゃないが眠れそうにない。
(……どうして、こんなことに?)
思えば最初から、皇帝との見合いは番狂わせの連続だった。
1853年8月15日水曜日の午後、公爵家の夏の居城ポッセンホーフェンから、ヘレーネと母親のルドヴィカは馬車に乗り込んだ。
エリーザベトが現れ、見合いに付き添うと言い出したのは出発直前のこと。
馬車を通せんぼしてでも譲らない勢いに、押し問答を続けていては遅刻と、同行を許さざるをえなかった。
旅程途中にある宿場で休憩すると、エリーザベトは馬の世話をすると言い出し、ヘレーネとルドヴィカが止めても聞かなかった。
エリーザベトが言い出したら聞かないことはいつものことだ。
馬に水を飲ませて水桶をひっくりかえし、スカートの裾と靴をビチャビチャに濡らた。
待ち受ける見合いに緊張して黙りこくるヘレーネとは対照的に、エリーザベトは濡れぼそったことさえ可笑しく、陽気にはしゃいで笑っていた。
ルドヴィカは遅刻決定だと大層不機嫌だった。
バイエルンの海と呼ばれる王国最大の湖キームゼーを過ぎると国境を越える。
オーストリア帝国の小都市イシュルに大幅に遅刻して到着したヘレーネたち一行を、皇帝は出迎えてくれた。
そしてたった一度、目線を合わせただけで、二度とヘレーネを見ることはなかった。
吸い込まれるようにエリーザベトを見つめる皇帝を呆然と眺めるしかなかった。
アルプスの明るい陽ざしに輝くキームゼーの湖面のように、煌めく瞳でエリーザベトから目を離そうとしない皇帝の姿に、へレーネは打ちのめされた。
(あの時、エリーザベトの同行を断ればよかった)
順調満帆だったヘレーネの人生は、終わりを告げた。
長女として生まれたヘレーネは、昔から上手く泣けない子供だった。エリザベートが泣き喚くような時でも、ヘレーネはぐっと堪え慰める方に回る。
涙を溢すことも呻き声を上げることもできず、膨らむ不安を押し潰すように膝を抱え身を縮める。
どれほどそうしていただろう。背後の扉が音を立てた。
「ヘレーネ公女殿下、お休みのところ申し訳ありません。ゾフィー大公妃殿下より、伝言を預かってまいりました」
ノックの音に続き、女の低い声が扉越しに聞こえてくる。ヘレーネは緩慢な動作で身を起こし、扉へと視線を向ける。
「どうぞお入りになって」
「失礼いたします」
頭に白いものが混じる黒髪の貴婦人が静かに室内に入ってきた。
「わたくしは、侍女頭のリヒテンシュタイン=エステルハーツィと申します」
冬の月のように冴えた佇まいの宮廷夫人が腰をかがめて礼をとる。
「大公妃殿下からの伝言です。明朝、お会いしたいとのことです」
「……わたくしにですか? 妹のエリーザベトではなく?」
訝しく思い眉を寄せると、エステルハーツィ夫人は少し困ったような顔で薄く微笑んだ。
「はい。大公妃殿下は、ヘレーネ公女殿下のご心痛をお察しになり、心を痛めていらっしゃいました」
「そう、なのね……伯母上にお礼を申し上げないと」
へレーネの様子を大公妃に報告するのであろう。
侍女頭の色褪せた淡い灰色の瞳がへレーネを捉え、
「日の出にはお迎えにあがります。ご準備をお願いいたします」
エステルハーツィ夫人は淡々とした声で用件を言い終えると、恭しく一礼して退出した。 侍女頭の足音が消え、静寂を取り戻すとヘレーネは顔を強張らせた。
皇帝フランツ・ヨーゼフは妹のエリーザベトに心を奪われている。
見合い相手として呼ばれたへレーネは用無しになったはず。
いくらゾフィー大公妃がヘレーネに同情的だとしても、慰めるために朝早くから呼びつける必要があるだろうか。
(もしかして、伯母上はわたくしを──)
嫌な想像が頭に浮かんだ途端、目の前が暗くなる。
胸騒ぎに急き立てられ、ヘレーネは机に向かう。
考えすぎだと一笑に付してしまうには、引っ掛かりを感じる。
自分自身だけでなく、妹のエリーザベトにも関わってくる問題。
僅かな違和感も疎かにしてはならない。人生の岐路に立たされていると警告が頭に響く。
ヘレーネは落ち着かせるように息を吐き、ペンを握った。
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