公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚

槙島ポメロ

◇◆プロローグ◆◇

 昔むかし……というほど遠くない少し昔、美しい王女がおりました。

 王女は、政変により祖国を追われた異国の王子と恋仲になります。

 しかし、国王は公爵家への降嫁を命じました。

 婚礼の最中、哀しんだ王女は呪いの言葉を唱えます。


 “この結婚から生まれ出るものは全て、ひとつ残らず神の恵みにあずかりませんように”


    ◇◇────◇◇◇────◇◇


 バイエルン王国、王都ミュンヘン。

 ルートビッヒ通りシュトラーセを吹き抜ける小雪まじりの風が、マクシミリアン公爵宮殿の窓をカタカタと震わせる。

 子供部屋で眠る公爵令嬢ヘレーネは夢の中で、幼い女の子と出会った。


「ねぇ、王女の呪いはどうすれば解くことができる?」


 輝く瞳で無邪気に尋ねられ、胸を突かれた様にヘレーネは何も言えなくなった。

 生まれる前から、公爵家にとぐろを巻いて鎮座している呪い。

 忌まわしいが空気のようなもので、今まで呪いを解くという発想に至ったことすらない。


 へレーネはただ黙って首を横に振るしかなかった。

 途端に、女の子の瞳が曇りまなじりに雨露のような涙を貯めて俯いてしまった。

 心配になって覗き込むと、女の子は小さな歯が生えた口から言葉を紡ぎだした。


  静かな夜、聖なる夜


 歌声が耳朶を打ち、夢の世界から引き剥がされたへレーネは目を覚ました。

 ベッドの上で目を瞬くと、兄のルートヴィヒ・ヴィルヘルムが窓辺に立ち小さな声で歌っているのが見えた。夜空に瞬く星に聞かせているような優しい響きの歌声が、夜の闇に溶けていく。


  ものみな眠り、目覚むるは

  ひとつ聖なる父と母


 兄の後ろ姿が寂しそうで、ヘレーネは胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 頼りになる三歳年上の兄は、時折寂しそうな顔をして遠くをみることがある。そんな時は決まってヘレーネも胸がチクッと痛み、泣きたくなった。


  巻き毛の愛らしき男の子


「おとこのこ!?」


 驚きの声を上げ、思わずベッドから起き上がる。

 ルートヴィヒは歌うのをやめると、静かにベッドへと近づいてきた。


「起きたのかい? ネネ」

「にぃしゃま、あかちゃんうまれたの? おとこのこ?」


 兄の顔を見上げてへレーネは矢継ぎ早に尋ねる。兄妹の母、ルドヴィカは臨月を迎えていた。

 もうすぐ弟か妹が産まれるのだ──。

 母親の大きなお腹を撫で話しかけていたヘレーネは、新しい家族の誕生が楽しみで仕方なかった。

 ルートヴィヒはヘレーネの隣に腰掛けると、妹の頭を撫でながら優しく微笑んだ。


「赤ちゃんはまだ、生まれてないから安心して。生まれたら必ず起こしてあげるから──」


 頭を撫でるルートヴィヒの手がぴたりと止まり、周囲の様子を窺う。

 ヘレーネも兄の真似をして耳を澄ませると、嘶きとともに馬が駆け出す音が聞こえた。

 深夜にも関わらず、公爵宮殿から疾走する馬たち。何らかの重大な知らせをバイエルン王国をはじめとする親戚筋に伝える必要が生じたのだ。


「ネネ、やっぱり起きて! 産まれたみたいだ! 僕たちの新しい家族に会いにいこう!!」


 早馬は、バイエルン公爵家に赤子が誕生したことを告げるものであろう。

 珍しく興奮している兄が差し出す手に、ヘレーネは迷いながらも小さな手を伸ばす。

 弟か妹か早く知りたい。生まれたばかりの赤ちゃんに会いたい。そして、母の大きなお腹を撫でていたように赤ん坊の小さな頭を撫でてやりたい。

 けれども──。


「かぁしゃま、おこらない?」


 こんな夜中に子供が起きだし会いにいくことをルドヴィカは快く思わないだろう。

 ヘレーネにとって最大の懸案事項は母親の機嫌だ。普段は愛情深く優しい母であるルドヴィカだが、ひとたび怒り出すと激しい雷雨のような怒りを炸裂させる。

 妻のヒステリーを恐れ、父のマクシミリアン・ヨーゼフは公爵宮殿にあまり帰ってこない。

 バイエルン公爵家のすべては女主人であるルドヴィカの胸ひとつで決まる。

 公爵である父でさえ、バイエルンの王女としてせいけた母に敵わない。

 この公爵宮殿はルドヴィカの異母兄であるバイエルン国王ルートビッヒ一世が結婚祝いに与えたものだ。

 父の居場所は、宮殿ここにはなかった。


 父のように逃げ場のない幼い兄妹は、ひとたび母の心が荒れると部屋の片隅で息を潜め冬を耐える小鳥のように縮こまる。

 兄に妹の心配は重く響いた。


「そうだね……怒られるかもしれない。だけど赤ん坊は小さくて儚いんだ。祝福の言葉をかけて安心させてあげたい。ネネ、僕と一緒に怒られてくれる?」


 大好きな兄の頼みを断れるヘレーネではない。こくりと大きく首肯すると、ルートヴィヒと手を繋ぎ、母の寝室へ駆け出した。


「大丈夫、今夜は聖夜ハイリッヒアーベント──きっと、神様が僕たちを守ってくださるよ」


 ヘレーネがあまりにも強張った顔をしていたせいだろう。ルートヴィヒが、繋いだ手のひらをぎゅっと励ますように力を込めた。



    ◇◇────◇◇◇────◇◇



 懸念とは裏腹に、出産を終えたばかりのルドヴィカは上機嫌で兄妹を迎えた。


「ルイ、ネネ。あなたたちの妹よ」


 そう言って抱きかかえた赤子を見せながらルドヴィカは、聖母のように慈しみ深く微笑んだ。

 機嫌のいい時の母は、いつもより数段美しく見える。ヘレーネは心の底から安堵しつつ、母の腕に抱かれた小さな命に視線が釘付けになった。

 すやすやと穏やかな寝息を立てている小さな妹を見て、ヘレーネは胸が高鳴る。

 ふっくらとした頬も、長いまつげも、薔薇色の唇も、何もかもが愛らしくて目が離せない。


「……かあいい!」


 思わず声を上げると、ルドヴィカは嬉しそうに笑った。


「でしょう!? 二人とも仲良くしてあげてね?」

「もちろん!  おねぇしゃまですもの!」


 ヘレーネが張り切って宣言すると、ルドヴィカは目を細め微笑む。


「母上、この子の名前は決まった?」


 ルートヴィヒがじれったそうに訊ねると、母は誇らしげに胸を張って答えた。


「エリーゼお姉さまの名を頂戴することになったの……エリーザベトよ。可愛い名前でしょう?」


 エリーゼの愛称で親しまれるルドヴィカの姉のエリーザベトは、ルドヴィカのたくさんいる兄姉けいしの一人。優しく穏やかで慎み深い女性だ。

 そして、プロイセン王国の王妃となることが約束されている王太子妃でもある。そんな伯母の名を貰えるなんて、これ以上名誉なことはあるだろうか。


「エリーザベト……素敵な名前だね」


 ルートヴィヒが微笑んで言うと、ルドヴィカの表情はさらに華やいだ。


「さっそく、愛称を考えてあげないとね」

「……だったら、リシィはどうかな?」


 兄の提案に、ヘレーネは飛びつくように賛同した。


「しゅてき!」

「……そうねぇ……」


 ルドヴィカは思案する顔つきになった。彼女がもったいぶり、わざと焦らすときは許可を与えるときだ。兄妹の頬が期待で紅潮する。 


「リシィ……いいわね。バイエルンらしく可愛いらしい響きだわ」


 母のお墨付きを得て、愛称が決まったばかりの妹の頭をルートヴィヒが愛おしむように優しく撫でる。ヘレーネも兄に負けじと手を伸ばし、エリーザベトの柔らかな湿った髪に触れた。


「よろしく、リシィ」

「よろちく、シシィ」


 ヘレーネの舌足らずな言い間違いにルートヴィヒは吹き出した。


「違うよ、ネネ。シシィじゃなくて、リシィだよ。僕の後に続いて言ってごらん……リシィ」

「シシィ!」


 兄の発音をヘレーネも真似てみたが、その口から出てきたのは異なる呼び名だった。

 その様子に母は可笑しそうに肩を揺らす。


「ネネったら、もう!」


 ルートヴィヒは呆れ声を上げ、兄妹の微笑ましいやり取りにルドヴィカはくすくすと笑い出した。

 だがヘレーネにとって笑いごとではない。大事な妹の名をちゃんと呼べないなんて一大事だ。


「シシィ」

「リシィだよ」

「シシィ!」

「リシィだってば」

「シシィ!!」


 真剣に何度も発音を訂正しようと試みるが、上手くいかない。ヘレーネは泣きそうになったが、泣き出したのは”シシィ“だった。

 不意に‘ふぇっ’と泣き声がしたかと思うと、見る見るうちに赤ん坊は激しく泣き出した。

 

「シシィ……ごめんなしゃい」

「僕たちが大きな声を出したから吃驚びっくりしたんだね」


 ヘレーネは小さな声でおろおろと謝った。身体を震わせて泣くエリーザベトの腕をさすろうと手を伸ばして、ピタリと止まった。 

 か細い泣き声を上げるエリーザベトの大きく開けた口に、白い小さな歯が一本生えていた。

 泡が弾けるように夢の残像が脳裡を駆け巡る。


 “ねぇ、王女の呪いはどうすれば解くことができる?”


 母の横顔をヘレーネはそっと伺う。

 出産という大仕事を無事終えた母は微笑みを浮かべている。

 すべてを恨み憎み呪った婚姻の中でも、幸せを感じる一時ひとときはあるのだ。


 母がもっと幸せを感じることができれば……。一時ではなく、もっともっとたくさんの幸せで満たすことができたなら……。

 いつか、この婚姻を赦し呪わなくなるかもしれない。


  天国のような安らぎの中で眠れ


 囁くようにルートヴィヒが歌うと、赤子は気持ちよさそうに目を細める。

 昔、兄が打ち明けてくれたことをへレーネは思い出す。彼には夜空の星になってしまった小さな弟がいた。だから、ヘレーネが生まれてくれてとても嬉しいのだと。

 ルートヴィヒはヘレーネに常に甘く、願いは何でも叶えてくれた。祈るような優しさで包み込み守ってくれる。


 ようやく今、ヘレーネは兄の哀しみの一端を理解した。それは胸が張り裂けそうな心の痛みをずっと抱え続けるということ。

 いとけない大事な宝物のエリーザベト。死んでしまうなんて、“ぜったいに、いや!”とへレーネは恐れた。


 硝子細工のように儚い小さな掌にヘレーネは指でそっと触れる。エリーザベトは応えるようにギュッとへレーネの指を握った。その柔らかで力強い温もりはヘレーネの胸に火を灯すように熱くさせた。


「シシィ、あたしのいもうと」


 エリーザベトが夢の中で少女の姿になって、家族の誰よりも先に会いに来てくれたのだとへレーネには思えてならない。

 誰のところでもなく自分のところに一番に会いに来てくれた大事な大事な妹。


 (あなたをあたしが、いっぱいまもってあげる)


 兄がヘレーネを慈しみ守るように、ヘレーネも妹を慈しみ守っていこう。

 へレーネは小さな胸にそっと聖夜の誓いを立てた。

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