07 朝露の会合 2
昨夜の雨で洗い流された庭園は輝くような鮮やかさでヘレーネを迎えた。
黄色い壁が瀟洒なヴィラ・マルシュタリールの前に立つ貴婦人は笑みを浮かべる。
「朝早くからありがとう、ネネ。貴女が来てくれるのを待っていたのよ」
「お招きいただきありがとうございます」
ゾフィー大公妃の目元は化粧で隠してあるが青黒い隈ができている。濃い目の化粧で誤魔化しているが、よく眠れてないと一目でわかる顔だ。
だが、大公妃は疲れをみせない華やかな笑顔を浮かべた。
『バイエルンの薔薇』と讃えられた大公妃の美貌の名残りが感じられる。
「……昨夜はよく眠れて?」
「正直にいいますと、あまり寝れませんでした」
「あんな恐ろしいことがあったんですもの……ごめんなさいね。ネネには辛い思いをさせたわ」
ゾフィー大公妃はヘレーネの両手を取り、労わるように握る。
ウィーン宮廷を
バイエルン人らしい黒髪に
だから自然と、親愛の情を抱くのかもしれない。
「大公妃殿下に謝っていただくことではございません。謝罪するのは私のほうです」
胸元に入れた手紙がかさりと音を立てる。その感触にヘレーネは勇気づけられた。
深々と腰を屈め、ゾフィー大公妃の右手を取り額に当てた。
「見合いの場を設けていただきながら、皇帝陛下に気に入っていただけず申し訳ありません」
まだ日も昇らぬうちに、タクシス候世子アントンの遣いから手紙が届けられ、ヘレーネは驚愕した。
何をどうやったか不明だが、到着するまでに数日を要するはずの手紙が短時間でザクセン王国に届き、更には兄の返信を持ち帰っていた。
手紙には短くへレーネの提案に賛同した旨と、『バイエルン
バイエルン公の世継ぎであるルートヴィヒがヘレーネの後ろ盾になった。
この世でこれ以上、心強いことはない。
「私の立場を慈悲深く慮っていただき、ありがたく存じます。
今はただ、皇帝陛下と我が妹、そして帝国の将来を微力ながら支えていきたいと、願うのみ──」
「諦めるのはまだよ」
言い終えるのを待たずにバッサリと斬り込んだ声に、ヘレーネは弾かれたように顔を上げる。
大公妃は白い手でへレーネの頬を手挟み、艶然と微笑んだ。その笑みに得体のしれない恐ろしさを感じ、ヘレーネの背中をぞくりとしたものが這い上がる。
聞き分けのない幼子に言い聞かせるように、大公妃がゆっくりと話し始める。
小さな声だが、張りのあるよく通る声が庭園に響いた。
「初めて夫のフランツ・カール大公と会った時、私は貴女以上に散々だった。夢見る若い王女にとって大公の容姿は受け入れがたいものだったわ。
それ以上に堪えたのは、大公は私に全く興味を示さなかったこと──」
突き出た分厚い下唇、鷲鼻、鋭く尖った顎。
ウィーンからバイエルン王国を訪れたフランツ・カール大公を見て、うら若き王女ゾフィーは愕然とした。
ハプスブルク家の特徴的な容姿をした大公は、予想した以上に醜く暗かった。
(これが、マリア・テレジアの曾孫……)
ハプスブルク家一の名君と謳われたマリア・テレジア。輝く美貌の女大公は、叡智と度胸で大国オーストリアを率い、実質的な『女帝』となった。
英傑の曾孫フランツ・カールは、容姿の醜さが性格にも反映されたかのように、陰気で覇気がない。
だが、カールはゾフィーを一瞥すると心底嫌そうな顔をして、溜息をついた。
心が折れそうになりながらも、懸命に話しかけ話題を膨らませようとするが、大公は軽蔑した眼差しをゾフィーに浴びせた。
バイエルン国王夫妻は娘を不憫がって、この縁組に怯んだように消極的になった。
だが、いくら親心が痛もうが、両国関係強化のためにオーストリア帝国皇子との婚姻は必要なことだった。
健康で美形の多産家系のヴィッテルスバッハの血。そして男勝りの弁舌と知性をもつ才気煥発なゾフィーは、オーストリア帝国の未来にとっても欠かすことはできない花嫁であった。
感情豊かな双子の妹マリア・アンナは、カール大公を一目見るなり激しい嫌悪感を露わにした。
「ねぇ、ゾフィー。考え直して。わざわざあんな
「格が落ちた相手なんて、お父上は許してくださらないわ」
バイエルン王国は、ナポレオンによって王国に昇格したばかりの新興王国である。
ナポレオンは神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯を離脱させ、神聖ローマ帝国を解体へ追いやった。
ナポレオンの提案に真っ先に乗って神聖ローマ帝国を裏切り、選帝侯から初代バイエルン国王になったマクシミリアン一世。野心家の父は、娘たちをヨーロッパの有力者の元へ次々と送った。
長女のアウグステ・アマーリアはナポレオンの義理の息子であるイタリア王国の副王に嫁いだ。カロリーネ・アウグステは、オーストリア皇帝フランツ1世の皇妃となった。エリーザベト・ルドヴィカはプロイセン王太子妃に、アマーリエはザクセン王弟の妃となった。
父王は他国に侮られることないように、神経を尖らせている。
政略の駒であるバイエルン王女たちが、自由に結婚相手を選べるはずもなかった。
「マリア・アンナは分かってないわね。私はフランツ・カール大公の
「何故よ!? あんな冴えない皇子のどこがいいの?」
「オーストリア帝国皇帝フランツ一世の皇子は、フェルディナント皇太子とフランツ・カール大公のみ。
皇太子は
因って帝国の将来を託されるのは大公おひとり」
フェルディナント皇太子は、虚弱体質で多くの疾患を抱えている。知能と発達に遅れがあり花嫁選びは難航。未だ独身で、世継ぎを設けることは絶望的と見做されている。
カール大公こそが、次なるオーストラリア帝国の皇帝と目されていた。
ゾフィーは前向きにこの結婚に向き合い、美点を洗い出していた。
王族として生まれたのだから政略結婚は必須。ならばより華やかな大舞台がいいだろう。
フランツ・カール大公は帝国を導く野心も気概もない。無気力で己一人の命でさえ持て余し、世を厭っている。
ならば遠からず、ハプスブルク家の実権はゾフィーの手に転がり込む。ヨーロッパの歴史を紡いできた名門はゾフィーの掌中に収めることができるのだ。
ヨーロッパの、否、世界の支配者として一翼を担うことができるのだ。
そう考えるとフランツ・カール大公はいい結婚相手に思えてくる。
未来の皇妃に相応しく華やかな嫁入り支度をして、ゾフィーはウィーン宮廷へ送り込まれた。
アウグスティーナ教会で夫婦の誓いを立てた後も、フランツ・カール大公はゾフィーを冷たくあしらった。
趣味の狩猟に夢中で妻を顧みない。
女性と浮名を流す。
だが、ゾフィーも夫フランツ・カール大公に愛情など求めなかった。
長年、流産に苦悩したが、宮廷医に勧められたイシュルでの湯治が功を奏し、念願の皇子を産むことができた。
押し寄せる革命の波を巧みに利用して宰相メッテルニヒを蹴落とし、息子に帝冠を被せることができた。
「息子に貴女を受け入れるように、よく言い聞かせておくわ。些細なことに挫けては駄目よ、ヘレーネ」
ゾフィーは胸襟を開き、激励する。
痩せすぎているせいか目つきにキツさがあるものの、ヘレーネは整った顔立ちをしている。
ウィーン宮廷の女官たちに磨かせれば
未来図を描くゾフィーに対して、ヘレーネは暗い顔で首を横に振った。
「大公妃殿下、お許しください。どうか身を引かせてくださいませ」
「何故? この縁談を断ると、一生を燻ることになるわ。よくわかっていて? フランツ・ヨーゼフが花嫁候補の貴女を一顧だにしなかったことは近日中に周辺諸国に広まるのよ」
「わかってます。それでも、この縁談を受け入れるわけにはまいりません」
ゾフィーは何故、姪が頑なに拒むのか理解できない。
不名誉な公爵令嬢から栄えあるオーストリアの皇妃に返り咲けるのに。
「ヘレーネ、貴女は何を恐れているの? 気を強く持ちなさい。情の通じた結婚生活など、王族の結婚には不要よ。
息子は責任感が強いから義務を果たすでしょう。何も心配することはないわ」
フランツ・ヨーゼフの心をヘレーネは掴むことはできなかったが、結果さえ良ければいいのだ。
──跡継ぎの皇子さえ産んでくれたらいい。
励ましの声をかけるゾフィーは、ヘレーネこそオーストリアの皇妃に相応しい素質があると確信していた。
だが、ヘレーネの意志は変わらなかった。
「縁談をお断りすると家族の了承を得てます。妹のエリーザベトには、愛する人と結ばれて幸せな結婚生活を送って欲しいからです」
「妹の為? 馬鹿馬鹿しい。……そんなつまらない理由でこの縁談を拒もうというの?」
畳み掛けるように言い募るゾフィーの剣幕に怯えながらも、へレーネは屈することはなく気持ちを吐露した。
「妹の為でもあります。妹の為……そして、私の為でもあります。私は、愛のない暮らしは耐えられません」
フランツ・ヨーゼフは、へレーネの肖像画を飾ってくれるだろうか。
きっと、飾るまい。
幼い頃に恐れた、貶められ軽んじられ、我慢して耐える暮らし──ヘレーネには到底、受け入れられなかった。
温情をきっぱり断られたゾフィーは額に青筋を立てて、ヘレーネを睨み下ろす。
大人しい従順な娘だと思っていたが、ヘレーネの決意は固いようだ。
嫌がる馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないように、肝心のヘレーネに婚姻への意欲がないなら懇願しても無駄である。
「本当に残念だわ、ヘレーネ。後悔することになるわよ?」
「ええ、きっと大公妃殿下のおっしゃる通り、後悔するでしょう。覚悟はできております」
だが、それが何だというのだ。
愛し合わなくても夫婦にはなれるというのに──。
ゾフィーは呆れ果てた。だが同時にこの姪を哀れにも思う。
愛の有無など不確かなものに拘って名誉回復の機会を棒に振るなんて、なんとも愚かだ。
曰くのついた姫を娶る王家はどこにもないだろう。
不名誉な過去を背負って嘲りの中で生きていくなど、ゾフィーには耐えられない。
「ならば──」
──バイエルン公爵家との縁組は取りやめて、他の王家をあたる。
そんな言葉を口に
目の前の憎らしい姪っ子は、我が身を犠牲にしてでもエリーザベトを皇妃にする気だ。
怒りを湛えるゾフィー大公妃の背中をヘレーネは見送る。
震えがこみあげてきて膝がガクガクと小刻みに揺れる。
両手で胸元を押さえ、深呼吸を繰り返す。手紙の感触はヘレーネの心強い援軍の存在を伝える。激しくなっていた鼓動は徐々に収まり、ようやく元に戻った。
交渉は決裂したが、目的は達成した。
ヘレーネが皇妃となれば、皇帝とエリーザベトに恨まれるだろう。花嫁候補であるヘレーネに関心すらないフランツ・ヨーゼフが、ヘレーネを愛するようになるとは思えない。愛のない政略結婚は、ヘレーネ自身も望まない。
大公妃の提案を受け入れることは、全員を不幸とする。
ヘレーネが身を引くのが最上の選択だ。
気位の高いオーストリア帝国が、王女ではなく格下の公女に縁談を持ち込む。
フランツ・ヨーゼフの花嫁選びは難航しているとみていい。
そして、誕生前夜祭でのフランツ・ヨーゼフの振る舞いにより、他の王家の姫君は恥をかかされるのを恐れて縁談に応じることはないはずだ。
大公妃の求めに応じず、ヘレーネは縁談を拒絶した。
フランツ・ヨーゼフの花嫁候補はエリーザベトただ一人となった。
吉報はやがてエリーザベトの元に届くだろう。
達成感に満ちたヘレーネは、晴れ渡る空を仰いで微笑んだ。
制約の少ないバイエルン公爵家で育ったヘレーネには、想像すらついていなかった。
ウィーン宮廷という金の鳥籠で、自由を求めも
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