06 朝露の会合 1
暁光に照らされて、東の空が白み始める。
昨夜の激しい雷雨は嘘のように去り、
亜麻色の髪を寝台に散らし、昨夜の舞踏会の主役は世界一幸せそうな微笑みを浮かべていた。
ヘレーネは、あどけない寝顔の妹を揺する。
「エリーザベト、起きて」
「ん、んん……まだ、五時じゃない。姉さま、どうしたの?」
エリーザベトは寝転がったまま、壁にかかる時計をぼんやりと見上げた。
このまま寝かせてやりたいのはやまやまだが、今すぐ起きてもらわねば、約束の時間に間に合わない。
ヘレーネは有無をいわさず、掛布を奪おうと引っ張る。
「起きてちょうだい」
「あ……っ!だ、だめ!」
エリーザベトはあわてて毛布を抱きしめた。
これから、二人の運命に関わる大事なことを確認しなければならない。
抵抗する妹を見下ろし、ヘレーネは小さく息を吐くと、表情を引き締めて静かな声で尋ねた。
「シシィ、貴女は、オーストリア皇妃になりたい?」
「え?」
姉の意図が分からず、エリーザベトは眉を寄せてヘレーネをまじまじと見つめる。
「どうなの? なりたくないなら、きっぱりと辞退なさい」
「急に、何を言ってるの?」
エリーザベトの眠気が一気に吹き飛んだ。
毛布を蹴り上げ、がばりと飛び起きると、唸るように声を搾りだした。
「どういうこと!?」
「大公妃殿下が、私を御呼びになってるの。これから大事なお話があるそうよ」
「なんで、ネネ姉さまに!?」
「わからないわ……。だけど、ウィーン宮廷のことをお決めになるのは皇帝陛下ではなく、皇帝の生母である大公妃殿下よ」
ゾフィー大公妃の思し召しひとつでウィーンのすべてが決まっていく。
大公妃の仇敵であった宰相メッテルニヒは、1848年の“諸国民の春”により政権を追われ亡命した。
ウィーン宮廷の権力を握ったゾフィー大公妃は、フェルディナント1世が退位すると夫のフランツ・カール大公を飛び越えて若干18歳の青年だったフランツ・ヨーゼフを帝位につけた。
ゾフィーに手を引かれ玉座に就いたフランツ・ヨーゼフは、母親に頭が上がらない。
「……フランツが、ネネ姉さまの夫になってしまうということ?」
「皇帝がシシィを望んでいたとしても、大公妃のご意向に逆らえないのは確かね」
「そんな!」
絶句したエリーザベトの瞳が潤み、大粒の涙が零れ落ちた。ヘレーネは妹の濡れた頬を指で優しく拭う。
「ねぇ、シシィ。大公妃殿下がどんなお話をなさるかは分からないわ。──けれども、貴女の気持ちを知っておかないと対処のしようがないの」
廊下の柱時計が鳴り、大公妃との約束の時間を伝える。
ヘレーネは寝台に腰掛けると、宥めるように妹の髪を撫で耳元で優しく囁いた。
「どうしたいのか貴女の希望を教えてくれる?」
「……フランツのお妃様に私じゃない誰かがなってしまうのは嫌!」
方針は決まった。
大公妃からどんな話が飛び出すか分からないが、妹を悲しませる形にはしない。
ヘレーネは、決意を込めて妹をきつく抱きしめた。
「大丈夫よ、エリーザベト。私、うまくやるから任せて頂戴!」
慌ただしくヘレーネが出ていった扉をエリーザベトは呆けたように見つめた。
朝早くから一体、何が起きたのか。
大人しく行儀がいいと評判の姉は、人が変わったように騒がしかった。
静寂が戻り、エリーザベトは、もう一度ベットに寝ころんだ。
亜麻色の長い睫毛が、涙の雫をはじく。
脳裡には、昨夜の皇帝の誕生前夜祭の光景が広がる。
フランツ・ヨーゼフの情熱的な視線をエリーザベトは甘く反芻した。
“何一つも可愛いところがない”
母のルドヴィカはいつもエリーザベトに厳しく駄目出しをして褒めてくれない。
エリーザベトを出来損ないの最悪な気分にさせてくれる。
家庭教師のブルフェン男爵夫人だって青筋を立て怒った顔で、エリーザベトを追いかけまわし文句をつけてくる。
それなのに──。
エリーザベトは皇帝の心を掴んだ。
ヨーロッパの歴史を紡いできた名門中の名門ハプスブルグ家の皇帝フランツ・ヨーゼフを夢中にさせたのだ。
誕生前夜祭の舞踏会で、フランツ・ヨーゼフは誰とも踊らなかった。
ただただ、エリーザベトを熱く見つめていた。周囲がざわつき母や伯母の大公妃が動揺して可笑しかった。いつもは冷静な姉は青褪めて固まっていた。
そして、舞踏会のフィナーレを飾るコティヨンをエリーザベトと踊りたいと望んだ。
ダンスが終わると、蕩けるような甘い表情で大きな花束を渡してくれた。
歓声が上がり大騒ぎになった。
「フランツがそばにいて、ずっと一途に私を愛して守ってくれる……」
輝くばかりに眩しく素敵な未来が、エリーザベトを待っている。
令嬢たちの羨望の眼差しは、エリーザベトの自尊心を満たし幸せな気分にさせてくれた。
同時に、ゾフィー大公妃の眉根を寄せた表情も、困惑した母親の姿も思い出して、エリーザベトは落ち着かなくなった。
「なんで彼は皇帝なんだろう。……皇帝じゃなければ良かったのに」
虚空に向かって呟いた言葉は、誰もいない部屋に広がって消えた。
ぶるっと震えが背中を駆け上がっていった。
急に息苦しくなり、心臓の音がやけにドクドクと騒がしい。
太陽が顔を出し始め、小鳥たちの囀りが祝福している。
晴れやかな朝を迎えたのに、部屋の中はやけに薄暗い気がした。
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