05 黄昏と憧憬 2

 商人から身を興したトゥルン・ウント・タクシス侯爵家。

 侯爵家の当主であるタクシス侯爵は、異国の美しい男爵令嬢と恋に落ち、国王を始めとする周囲の猛反対を押し切って結婚した。

 系譜から親しみを覚えたへレーネは、その逸話を記憶に刻み込んでいたのだ。


「……羨ましい」

「え?」


 へレーネのぽつりと漏らした呟きに、アントンは猫のように瞳を瞬かせると、すっと目を眇め冷たい視線を送る。


「どこに羨む要素が? 周囲に祝福されない結婚など、卑しいと蔑まされるだけです」

「いいえ、心から憧れるわ」


 忌々しそうに怒気を孕んだ凍った表情で問うアントンに負けぬよう、へレーネはキッパリと言い切った。


「自己紹介がまだでしたね。我が名はへレーネ……ヘレーネ・イン・バイエルン。初代公爵は、男爵令嬢と愛を貫き周囲から祝福されない結婚をされました」


 男爵令嬢という言葉にアントンはピクリと肩を震わせた。

 やはり、アントンはタクシス侯爵所縁のものだと、へレーネは確信を深める。


 選帝侯の継承権をもつ公爵と男爵令嬢の貴賤結婚は、大きな反発を招いた。長年の交渉と一族間の係争の末、ようやくヴィッテルスバッハ家の正嫡の成員として認められたのは孫の代。

 イン・バイエルンの尊称も闘争の歴史から得たものだ。


「貴賤結婚と蔑む者たちと闘い、権利を獲得してきました」

「闘い、権利を獲得する……」


 アントンはこれ以上ないほどに目を見開き、へレーネの言葉を反芻した。


 へレーネにとって憧れの侯爵家の恋物語を、息子であるアントンが好意的に捉えてなかったことが悲しく思う。

 同時に、公爵家の歴史が示すように、身分差のある結婚は本人も子どもも苦難が伴うのだと、改めて認識した。

 

「蔑む者たちに負けなかった歴史を誇らしく思うの」


 砕けた口調で堅い話を締めてへレーネは微笑んだ。

 つられたようにアントンも、氷のような表情の強張りを溶かした。


「……いつか母の肖像画をご覧にレーゲンスブルクの邸宅までお越しいただけませんか?」

「是非! 見せて頂きたいわ」


 アントンの誘いに、己の心臓が大きく鼓動するのを感じる。

 侯爵が惚れ込んだ美人をこの目で見てみたい。


 是と答えてみたものの、ただの社交辞令に終わる可能性が高い。

 未婚の令嬢が異性の邸宅へどんな理由をって訪れることができるのか。


 へレーネの返答にアントンが口許を綻ばせたように見えたのは、残念な気持ちからくる目の錯覚なのかもしれない。



    ◇◇────◇◇◇────◇◇



 展示室の出会いから、王宮でタクシス侯爵に連れられたアントンの姿を頻繁に見かけるようになった。

 アントンと他愛もない会話を交わすようになって五年ほど経った1848年の春──。


 ウィーン体制で抑圧されていた自由主義と国民主義は、燃え上がるようにヨーロッパ諸国で反乱を巻き起こし、長きに渡りヨーロッパに平和と安定をもたらしたウィーン体制は終焉に向かう。


 “諸国民の春”にバイエルン王国も反乱の気運に巻き込まれ、市民集会が暴動に発展。

 外国人の踊り子ローラ・モンテスとの醜聞を咎められたバイエルン国王ルートヴィヒ一世は退位に追い込まれ、息子のマクシミリアン二世に王位が譲られた。

 テレーゼ王妃の美人画は描かれることなく、国王の美人画コレクションは王宮レジデンツから離宮シュロスへと移送された。



 春に始まった革命の嵐は、秋には勢いが削がれ落ち着きを取り戻した。


「シシィったら、課題も出さないで何処に行ったのかしら……」


 へレーネは、木枯らしの吹くミュンヘンの街道を駆け抜ける。

 平和を取り戻しつつあるとはいえ、最近のエリーザベトは街にふらっと出ていってしまうことが増えた。


 家庭教師のヴルフェン男爵夫人は、勉強しないで遊んでいるエリザベートに鬱憤を募らせると、ルドヴィカに報告に行く。

 ルドヴィカは金切り声をあげて怒り狂い、エリザベートは癇癪を起こし対抗する。


 父のマクシミリアン・ヨーゼフは常に不在。兄のルートヴィヒ・ヴィルヘルムは公世子エルプヘルツォークとしての教育を受けるため家を出ている。

 マクシミリアン宮殿で諍いの火蓋が切られると、宥める役目を担うのはへレーネしかいない。

 争いの火種は小さいうちに消すに限る。


 角を曲がると、亜麻色の髪を揺らし町娘のように軽快に歩くエリザベートがいた。

 声をかけようとして、ヘレーネは固まった。

 エリザベートの横を親しげに歩くフードを被った青年の姿に見覚えがあったからだ。


(アントンが、何故、エリザベートと一緒にいるの……?)


 ヘレーネは自分の喉が急速に渇いていくのを感じた。


 アントンは片手で小さな箱をエリーザベトに押し付けるように渡す。

 この距離からでは、二人の会話は聞こえない。

 エリザベートが揶揄うように何かを耳打ちすると、アントンは照れくさそうに微笑んだ。


(アントンが、笑ってる)


 ヘレーネは衝撃を受けた。

 他愛のない話をする仲になっても、アントンは笑顔を見せることが滅多になかった。それでも、自分と会話する時のアントンは楽しげにしていると感じていたのに……随分と自惚れていたようだ。


 ヘレーネはよろよろと後ずさり、仲睦まじい二人が見えない場所で立ち止まる。

 出来ればこのまま引き返したかったが、公爵宮殿の安寧のために、一刻も早くエリーザベトを連れ帰らなければならない。


「シシィ!」


 大きな声で妹を呼び、わざと足音をたてて近づく。

 角を曲がった先にアントンの姿はなかった。

 エリーザベトが一人、驚いた顔で目をまん丸にして振り返った。


(隠れるんだ)


 エリーザベトと会っていたことをアントンは知られたくないらしい。

 その事実がヘレーネの心に昏い影を落とす。


「ブルフェン男爵夫人が探してらしたわよ。戻って課題を終わらせましょう」

「えーっ! やりたくなーい」

「お母さまがお怒りになるわ。手伝ってあげるから頑張って」


 不満を漏らすエリザベートの胸に抱いた水色の小箱から、甘い香りが漂ってくる。


「その箱、どうしたの?」

「……貰ったのよ」

「誰に?」

「……え────っと……」


 エリーザベトも誰と会っていたか明かす気はないらしい。

 言葉を濁したエリーザベトは、もったいぶるように箱を開けて中から焼き菓子を二本の指の間に挟むと、弄ぶように揺らす。


「ネネ姉さま、食べない?」


 箱に入ってたのは雪玉シュネーバルというお菓子だ。

 小麦粉にバターと玉子を加えた生地で小さな球を作ってオーブンで焼き、粉砂糖をまぶした素朴な焼き菓子。

 香ばしい匂いがヘレーネの鼻腔をくすぐる。


 エリーザベトは悪戯を思いついた子供のような顔をして、ニヤニヤとヘレーネの顔を覗き込んでくる。


「いらない」

「えー!? 食べてあげたらいいのに」

「甘いものは好きじゃないの」

「それは残念、可哀想。仕方ないから全部食べちゃお」


 エリーザベトは焼き菓子を無造作に口に放り入れると口をモグモグと動かした。


 それから、王宮でアントンを見かけても、へレーネは喉が詰まったように、話すことが難しくなった。急に余所余所しくなったヘレーネに、アントンは何も感じていないようで顔色一つ変えなかった。

 時折、探るような碧眼の視線を背中に感じるだけ。

 へレーネは十四歳になっていた。あと数年もすれば縁談の話が舞い込んでくる。

 

 公爵令嬢と侯爵家の世子──王族と貴族。

 明確に線を引かれた身分の違いを自覚して、距離のある付き合いをすべき年頃であった。

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