04 黄昏と憧憬 1
時は、へレーネが9歳の頃に遡る。
この年、王太子妃マリー・フォン・プロイセンの肖像画が完成した。
別格の気高い美しさで描かれた王太子妃は、バイエルン国王ルードヴィヒ一世の美人画コレクションの珠玉だ。
(……伯母上もご覧になったのかしら?)
美人画が飾られた展示室の中央でへレーネは一人、溜め息をついた。
へレーネの伯父にあたるルートヴィヒ一世が、自ら選りすぐった美女を描いた肖像画は、現在三十点ほど制作され、今後も増えていくだろう。
しかしながら、国王のコレクションには、最も高貴で重要な肖像画が欠けている──へレーネはそう思わずにはいられない。
王太子妃が国王のコレクションに加わったことで、彼女の不遇はより鮮明になった。
従順な妻、良き母、そして福祉に身を捧げる、王妃テレーゼ。
彼女は、バイエルン国民に人気があり愛されている。
だが、国王の愛は得られなかった。
政治的に無力ゆえ無害なザクセン=ヒルトブルクハウゼン公爵家出身の王妃。
裕福とはいえない公爵家では、持参金も財産も期待できない。だが、我慢強く物分かりがいい公女は、我が道を行く国王にとって都合のいい花嫁であった。
ルートヴィヒ一世は献身的な王妃を貶めるようなことを
国民に寄り添い、賢くて我慢強いテレーゼは素晴らしい王妃だと、誰もが高く評価する。
だが、素晴らしい王妃だからといって、幸福になるとは限らない。その賢さと我慢強さ故に辛酸を嘗めることもあるのだ。
国王が王妃の肖像画制作を宮廷画家のシュタイラーに命じ、展示室の特等席に飾る日は来るのだろうか──。
否。きっと、そんな日は永遠に来ない。
もう、美人画コレクションの最大の目玉は完成したのだから......。
突きつけられた現実にヘレーネの胸は痛む。
“ヘレーネ、貴女には王女の娘に相応しい縁談を用意するわ”
王女として生を享け公爵家に降嫁した母のルドヴィカはヘレーネにそう言い聞かせ、格式の高い王室に嫁がせることに野心を燃やす。
テレーゼとへレーネは公女という立場も我慢強い性格も似ている。国王に蔑ろにされる王妃の境遇は、己の未来を示唆しているようでヘレーネは恐ろしくなった。
(私は、テレーゼ様のように耐えれるかしら……)
貶められ軽んじられ、我慢して耐える暮らし──想像しただけで気分が沈み込む。
「……そんな人生は嫌よ」
ぽつりと小さく漏れた本音に呼応するように、空気がふわりと動く。ヘレーネは思わず部屋の隅に身を潜めた。
◇◇────◇◇◇────◇◇
静かに開いた扉から西陽が溢れ、目映ゆさに包まれる。黄金の光の矢を放つ中央に影法師が立っていた。
黒い影が展示室の中央に向かうにつれ、輪郭がはっきりとしてくる。
赤金の髪が揺れて夕陽を跳ね返し、炎のような光がヘレーネの網膜を射貫いていった。
影法師は展示室を見渡すと、白いモスリンの貴婦人の肖像画へ吸い寄せられるように近づいた。
大粒の真珠の首飾りと耳飾りと薄紅の薔薇を胸に飾った美女は、儚げで寂しそうな瞳をしている。
「ここの絵より、母上の絵姿の方が綺麗だな」
西陽を背に受けて呟いた声音は、静かな展示室に不思議なほど大きく響いた。
驚いたヘレーネが身じろぎすると、振り返った少年の見開いた碧眼と視線がぶつかる。
「……どなたかしら?」
「これは失礼をしました。商人の息子アントンです」
へレーネより幾つか年上にみえる少年は、すぐに平静を取り戻すと、洗練された仕草で胸に手を当て一礼する。
襟と縁取りには
豪奢な身なりや立ち居振る舞いから、家格の高い子弟のようにみえた。
(本当に、商人の息子?)
訝しんだヘレーネはアントンに探りを入れることにした。
姿勢を正してアントンに向き直り、努めて淑やかな微笑みを浮かべた。
「お母様、お綺麗なのね?」
へレーネが確認すると、アントンは大人びた表情を一変させ、幼子のように大きく頷いた。
その素直さが可笑しくてへレーネは笑いを噛み殺す。
「でも、そんな美しい方なら、国王から美人画モデルの声がかからなかったかしら?」
ルートヴィヒ一世の美人画モデルに社会的階級による障壁はない。高貴な姫から町娘まで、身分を問わず美貌の持ち主が選ばれている。
少年の端正な面立ちを印象づける大きな碧い瞳は、哀切な色を秘めて柔らかく揺れている。
アントンが母親似だとすれば、その麗容は母親譲りのものだろう。
底意地の悪い質問だと認識しながらも、美しいものに目がないヴィッテルスバッハの血が騒ぎ、へレーネは単純に興味が沸いた。
「国王陛下に逆らい、母は不興を買いました」
「不興?」
不穏な言葉にヘレーネは、アントンの翳りのある横顔をまじまじと眺めた。
「国王に反対されるような無謀な結婚を決行しました。到底、美人画モデルになるのは無理ですね」
「まあ……」
無神経なことを聞いてしまったとへレーネは己の軽率さを恥じたが、一方で疑惑が湧き上がり、へレーネは眉を顰めた。
貴族ならいざ知らず、一商人の結婚に国王が介入するだろうか──そのような条件を満たす家門をへレーネは一つだけ知っていた。
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