08 最上の選択

 大公妃ゾフィーは濃紺の椅子に身を委ね、こめかみを押さえた。

 妹のルドヴィカと綿密に準備した見合いが、砂上の城と化した。


(あの時、エリーゼお姉さまが協力してくださっていたならば……)


 ゾフィーは、深々と溜息をつく。

 ただでさえ血の濃いハプスブルグ家。

 初代オーストリア皇帝フランツ一世の従兄妹婚で生した子に重度の障害や夭折が相次ぐ。

 世継ぎが羸弱なフェルディナント一世とフランツ・カール大公の二人と、後継者不足に陥った。


 だからこそ、手塩にかけて育てたフランツ・ヨーゼフの妻には血が離れた高貴な王家の姫が良かった。


 当初の計画ではフランツ・ヨーゼフの妃として、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の姪にあたるマリア・アンナ王女を据える予定だった。


 美貌の王女と名高いマリア・アンナをフランツ・ヨーゼフに引き合わせた所、二人の間に好意的な感情を芽生えさせることに成功した。

 マリア・アンナはすでに婚約が決まっていた。だが、相手は亡き妻のことが忘れられない16歳年上のヘッセン大公国の公子。婚約は内密に決まってはいたが、まだ公にはなってない。

 交渉の余地はいくらでもあった。


 ゾフィーはプロイセン王妃である姉のエリーゼに縁組の根回しを依頼した。

 好戦的なフランス皇帝ナポレオン三世の対応で、溝が生まれたオーストリアとプロイセン。両国の関係改善をこの縁組により図ることができる。

 しかし、エリーゼは女性が政治に介入すべきでないと、ゾフィーの願いを拒絶した。


 頼りにならない夫を見限り政治手腕を振るい、帝国の臣民たちに“宮廷内のただ一人の本物の男”として畏怖されるゾフィー。

 女は貞淑に夫に付き従うものだという、旧弊な考えに支配されている姉に、ゾフィーの生き方は理解できないようだ。


 プロイセン王家との縁組に失敗した帝国は、皇妃に相応しい王女をヨーロッパ中を探すが見つからず。敢え無く実家のバイエルン王国の伝手で格下の公爵家に、声をかけることになった。

 王女に生まれながら格下の公爵家に嫁いだゾフィーの妹ルドヴィカは、娘を帝室に嫁がせることに意欲をみせた。


 バイエルン公爵の長女ヘレーネは控えめで大人しく、ゾフィーの与えた膨大な課題に、泣き言ひとつ漏らさず黙々と取り組んだ。

 従妹という血の近さは気になったが、健気に努力するへレーネの様子にゾフィーは好感と信頼を持った。


 ヨーロッパで最も厳格な礼儀作法が求められるオーストリア皇妃は、何よりも『忍耐』が不可欠。

 皇帝に蔑ろにされた誕生前夜祭の舞踏会で、ヘレーネは取り乱すことなく最後まで冷静さを保ち、忍耐強さを示した。


 マリア・テレジア時代はウィーン宮廷も寛容であった。だが、ナポレオンの登場で一変する。

 神聖ローマ帝国解体のためにナポレオンが周辺領邦を唆し新興国が台頭。ハプスブルク家を脅かす中で、ウィーン宮廷は偏屈な老人のように『伝統』と『格式』に固執するようになった。

 厳粛で自由のない宮廷暮らしに耐えかねて、若かりしゾフィーは幾度となく涙で頬を濡らしたものだ。


「母上、お願いがあります」


 扉が勢いよく開け放たれ、フランツ・ヨーゼフは、興奮冷めやらぬ様子で足早に入ってきた。


「エリーザベトを私の妃に迎えたいのです」


 頭の中にズキズキと鈍痛が広がっていく。

 ゾフィーは眉をひそめ、息子を見つめる。

 栗毛色の髪。ハプスブルグの血を示す厚い唇とやや長めながら整った顔立ち。若さに溢れた皇帝は凛々しい。

 金糸刺繍の純白の上着、金の線の入った赤ズボンに金ベルト。赤と白──オーストリアを象徴する軍服に身を包み自信に満ちた自慢の息子の姿が、今は腹立たしく映る。


「誕生前夜祭で、然るべき手順を取らずへレーネ姫を蔑ろにして傷物にした責任を取ろうとは思わないのですか?」

「それは……へレーネ姫はお気の毒だと思いますが、仕方ないじゃないですか! 母上もご覧になったでしょう? エリーザベト姫の美しさを! まるで咲き初めた巴旦杏はたんきょうのように可憐で美しい……。あの愛くるしい瞳! 苺のような唇を!」


 恋は息子を詩人に変えたようだ。

 ゾフィーは、頭を抱えたくなった。

 エリーザベトはバイエルン公爵の次女だ。変わり者のバイエルン公に甘やかされたため、周囲が手を焼くほど奔放な性格をしている。

 ヴィッテルスバッハの良くない兆候を宿した、夢見るように煌めく瞳は、頑固で拘りが強くトラブルを招くことだろう。

 オーストリア帝国の皇妃としての適性が、あるようにはみえない。


(だが、今やエリーザベトを妃にする以外の選択肢はない)


 何の落ち度もないヘレーネを蔑ろにして辱めたのだ。ヨーロッパ中探しても、新たな皇妃候補に応じてくれる姫君は見つかるまい。

 息子を諭しエリーザベトを諦めさせ、へレーネを慰め勇気づけ……二人をくっつける予定は、従順なはずの姪っ子の頑な拒絶によりご破算となった。


「母上、どうか私の願いを聞き入れてください」


 懇願するフランツに、ゾフィーは久々に母の顔になり微笑んだ。

 事態の急変はよくあること。臨機応変に対応せよ。ゾフィーは息子に恩を売り、手綱を握ることにした。


「……分かりました。エリーザベト姫と婚約を認めましょう」

「ありがとうございます、母上!」


 ゾフィーの脳裏に、帝都ウィーンのみならずオーストリア帝国中が湧き立った、あの日の光景が蘇る。

 結婚六年目、二度の流産を経て、ようやく大公妃としての役目を果たしたあの日。小さな身体で力強く泣く赤子の姿に、安堵の涙が止まらなかった。


「誕生日おめでとう、フランツィ」


 立ち上がって息子の頬を挟み瞳を覗き込むと、ゾフィーの心をときめかした透き通るような青い海が見える。

 よくぞ無事に大人になってくれた。ゾフィーは万感の想いを込めて息子の頬に祝福のキスを贈る。

 母の了承を得たフランツ・ヨーゼフは、顔を紅潮させ満面の笑みを浮かべて喜んだ。

 

(……まさか、こんなことになるなんて)


 最愛の息子の幸せそうな顔を見ながらゾフィーは思った。

 帝位についてすぐ、革命派を抑えるために処刑を行い“血染めの若者ブルートユング”と悪評がついた息子。

 不憫に思い慶事で悪評を覆そうとしたのだが──。

 その結果、不満の残る縁組を選択する羽目となってしまった。


 息子は天井を仰いで神に感謝する。

 意中の相手と結婚する許可を貰い、喜色満面だった息子は一転、不安気に表情を曇らせる。


「母上、決してエリーザベトに無理強いをしないように、くれぐれもお願いします」


 強要する気がなくても皇帝が望めば、一公女の意志など確認するまでもない。

 心優しい息子だ。それ故に、皇帝という重圧に不憫にもなる。


「ええ、心得ておりますとも」


 ゾフィーの返答に、フランツ・ヨーゼフは安堵したように顔を緩ませ部屋を退出した。

 息子を見送った後、ゾフィーは再び吐息をついた。

 ルドヴィカは花嫁になる娘が入れ替わったことに納得してるのだろうか。


「全く、腹の立つこと」


 ゾフィーは確信していた。

 面倒で甘ったれた末娘気分が抜けないルドヴィカは、責任の軽い公爵夫人という立場を得てからは、より自由気儘に緩みきった暮らしをしている。

 感情的な母親を説得するのは、長女として忍耐強く相手をしてきたへレーネにとって容易たやすかろう。


 ルドヴィカとヘレーネの母娘二人を招待していたが、予期せぬエリーザベトの登場で番狂わせが起こった。

 真面目に皇妃教育を受けていたヘレーネだが、内心、縁談に気乗りしていなかったのだろうか。

 オーストリア皇妃を断るために、皇帝好みの妹を連れてきた?──。


 未婚の皇帝の母親として、息子の遣る瀬無い本能を散らすために、無害で魅力的な女性をあてがうのも仕事のうちだ。

 また、到底容認できない女性に皇帝が恋心を抱いた時は、彼女に縁談を用意してウィーンから逃したこともある。

 息子の女性トラブルを未然に防いできたゾフィーは、自分の息子の趣味嗜好をよく把握している。


 エリーザベトは奔放で、王族らしさがない。頬がふっくらとしていて、弾けるような若さがある。

 性格は幼く、永遠に乙女のような可愛らしさをもつだろう。皇妃に相応しい性格とは程遠い少女。

 ──息子の女の好みのド真ん中である。


(そんな、まさか……)


 ゾフィーは頭を振る。

 隣国バイエルンにまで、そのような皇帝の嗜好の些事が漏れているわけがない。

 ヘレーネは聡い娘ではあるが、策略を張り巡らせるたちではない。

 思惑がうごめくウィーン宮廷で長く暮らしているせいか、随分と疑り深くなったものだ。


 今は、エリーザベトを素晴らしい皇妃にする算段を考えなくては……。

 ゾフィーは胸のざわつきを抑えながら目の前の難問に取り組むことにした。

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