09 侯爵家の恥

 思わぬ番狂わせで諦めたはずの恋が手の届く場所に転がり込んできたことに、トゥルン・ウント・タクシス家の侯世子エルププリンツマクシミリアン・アントンは、動揺していた。

 なぜならば“番狂わせ”の責任の一端は、彼にあったからだ──。




 トゥルン・ウント・タクシス侯爵家の跡継ぎである父のマクシミリアン・カールが男爵令嬢ヴィルヘルミーネ・フォン・デルンベルクと恋に落ち結婚を望んだ時、祖母は猛反対した。

 だが、祖父の急死により家長の座を得た父は、愛する母との結婚を強行した。


 穢らわしい赤毛の持ち主で身分の低い男爵令嬢の血を引く孫たちを祖母は可愛がることはなかった。


 マクシミリアン・カールの初めての男児であるアントンでさえ、視界に入るのも疎ましく幽霊のように見えないものとして祖母は遇した。

 母ヴィルヘルミーネは5人の子女に恵まれたが、体調を崩すとあっという間に命を散らし、7年の短い結婚生活を終えた。


 祖母は母の喪が明けると、愛妻の死に弱っていた父に後妻をあてがった。エッティンゲン=シュピールベルク侯の息女マティルデ・ゾフィーは、王族に次ぐ地位をもつ最上級貴族家門シュタンデスヘルの出身。侯爵家当主に相応しい身分の釣り合う花嫁だ。

 父親とマティルデ・ゾフィーとの挙式を見守った祖母は満足し、ひと月後にこの世を旅立っていった。


 祖母は死してなお、アントンたち母子に嫌がらせの手を緩めないのだと思い知った。

 後妻は美丈夫の父に夢中になり、すぐに懐妊した。父は亡き妻の忘れ形見であるアントンを気遣うが、侯爵家の奥向きを差配するのは後妻である。

 父は後妻との間にできた新しい命の誕生と共に別家庭の住人になっていった。


 まだ幼いアントンにとって、それは裏切り行為としか思えなかった。自立できない年齢ゆえ、憎しみの感情を露わにすれば居場所を失う。

 次第に、感情を悟られぬよう口を閉ざし氷のような無表情を貼り付けるようになった。

 いつしか父とは埋めがたい溝ができていった。


 

 身分の卑しい者を徹底的に厭悪し黙殺する。

 そんな祖母に私生児がいることをアントンが知ったのは、十二歳の春。


 裏切者・・・の父に媚びを売り、アントンは煌びやかなバイエルン宮廷に足を踏み入れた。

 新興国と侮られぬように初代バイエルン国王マクシミリアン1世が贅を凝らした王宮レジデンツは、ゲーテやナポレオンも驚嘆させた豪奢な洗練された装飾で彩られていた。


 だが、誰もが目を奪われる華やかな空間を尻目に、アントンは舞踏ホールの上にある展示室へ向かう。

 そこに憎き祖母の火遊びの証拠があると知ったからだ。


 ナポレオン・ボナパルトとの軍務のため夫が留守の間に起こした、祖母の不貞アバンチュールは、後ろ指を指されても仕方ない醜聞であった。


 卑しく穢らわしいのはどちらだ!?

 不義の子を身籠るなど、淫魔の如く汚らわしい!


 アントンは祖母への憎悪が止まらなくなり、その隠し子をどうしても見たくなったのだ。

 隠し子──父の異父妹となる叔母は外交官と結婚し帝政ロシアに移り住んでいた。

 だが、王宮に肖像画があると耳にした。

 美貌に恵まれた叔母はバイエルン国王の目にも留まり、絵画のモデルを依頼されたという。


 叔母の肖像画が飾られた展示室へ続く廊下は、西陽が差し込み真っ赤に燃え上がっていた。

 アントンの記憶にある母親の姿は若く美しいままだ。心優しい人ゆえ消耗し、蝋燭の火を吹き消すように命を儚くした。

 母を冷遇しつづけた祖母。憎き女の汚点をとくと見てやろう。

 アントンは乾いた笑いが込みあげるのを抑えながら、展示室に足を踏み入れた。


 街で評判の靴屋の娘。

 ユダヤ人コミュニティの議長の娘。

 イタリアの伯爵令嬢。

 英国特使の息女。

 宮廷劇場の人気女優。

 ギリシャの英雄の娘。

 そして、バイエルン王国の姫君たち。

 少女のように可憐な乙女から、成熟した色香を薫らせる貴婦人。天真爛漫に微笑む者もいれば、知性を湛えた眼差しを向ける者もいる。

 華美に着飾る貴婦人もいれば、簡素な服装が美貌を際立たせてる才媛もいる。


 女好きで芸術好きの国王は、呆れるほど多くの美人画を所有していたが、軽く見渡すだけで、アントンはお目当ての肖像画を発見することができた。


 祖母と鼻梁の形がそっくりなので間違いない。

 大粒の真珠の首飾りと耳飾りと茶色の毛皮を身に纏った貴婦人は、驚くほど祖母に似ていた。


 名門メクレンブルク=シュトレーリッツ公爵家の美人姉妹として名を馳せた祖母の血を引くだけあって、確かに叔母の美貌は際立っている。

 だが、多くの男性と浮名を流し、決闘にまで発展した毒婦ぶりを知っているだけに、叔母の玲瓏とした美しさがアントンの目には汚らわしく映る。


 やはり、母の楚々とした美しさには敵うまい。

 特に、肖像画に収まる母は、心根の清らかさが表情や佇まいに滲み出て、慈愛に満ちている。バイエルン王が認めた美女たちですら、母の美しさの前では霞んでしまう。

 アントンは満足した。

 これであの忌々しい家から、いつでも大手を振って出ていけると──。


「ここの絵より、母上の絵姿の方が綺麗だな」


 安堵から口が緩み、本音が零れ落ちた。

 微かな衣擦れの音に振り返ると、波打つ黒髪の少女が明るい茶色の瞳を瞠り硬直していた。

 バイエルン人らしい艶やかな黒髪と榛色の瞳をもつ華奢な少女は、警戒心を押し隠しアントンを誰何する。


 商人の息子と答えたのは、嘘ではない。

 トゥルン・ウント・タクシス家は商人であることに重きを置いている。

 だが、息子の初伺候に舞い上がった父が用意した豪奢な衣装は、とても一商人の息子には見えず、説得力を台無しにしていた。


 少女の肌理きめ細かい白肌は、薄暗い室内でも淡く光を纏う。

 知性の輝く瞳を煌めかせ、少女は慎重にアントンに幾つかの質問をした。

 まだ十にも満たないように見える少女は、国内貴族を網羅しているのか、アントンの素性を割り出したようだった。

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