10 王と候

 レーゲンスブルクに戻る馬車に揺られながら、アントンは窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めた。

 大人しく座っているが、アントンの心の中は騒がしく落ち着かない。


 なぜ祖母の汚点を暴きたかったのか──。

 名家出身の祖母はトゥルン・ウント・タクシス家の女帝で、アントンは一度も敵うことがなかった。

 後妻が産む子供たちが増えていくに従い、身分の卑しい母の血をひくアントンたち兄弟は居場所がなくなっていった。


 心は憎悪で滾り復讐の機会を窺う。だが、無力な子供にできることなどない。アントンは鬱屈した想いを抱えながら成長するしかなく、次第に疲れてきた。

 祖母の汚点を暴いて一矢報いた気になり、安い復讐に自己満足して終わりにしようと考えていた。 

 

「闘い、権利を獲得する……」

「ん?」


 目の前に座った父マクシミリアン・カールが、アントンの呟きに反応して、嬉し気に顔を綻ばせた。

 距離ができ何も話してくれなくなった亡き妻の忘れ形見が随伴したことに、マクシミリアン・カールは舞い上がっていた。

 そんな父の心情が理解できず、アントンは不思議そうに父を見上げる。


「王宮で、ヘレーネ・イン・バイエルンという女の子に会ったんだ」

「イン・バイエルン……バイエルン公のご息女だね」

「その子、お父様とお母様のことを羨ましいって、心から憧れるって言ったんだ。……それに、バイエルン公の始祖も男爵令嬢と身分差のある結婚したって」


 アントンは膝の上の拳を強く握りしめた。


「だけど……」

「アントン?」

「……僕には、よく分からない」


 アントンが両親の貴賤結婚にいい感情を抱いてないことに、誰よりもガッカリしていた。

 父母の身分差婚を蔑む者はいても、好意的な感情を示す者など初めてで、アントンは戸惑う。


 タクシス家は商人から身を興したとはいえ、最上位貴族家門。代々、皇帝特別主席代理を務めた名門である。

 ヴィッテルスバッハ家やホーエンツォレルン家などの王家とも血の繋がりがある高貴な家柄だ。

 名門貴族である後妻の血を引く子供たちが次々に誕生する中で、男爵令嬢の血を引く自分に居場所などあろうはずがない。


 “貴賤結婚と蔑む者たちに負けずに闘い、権利を獲得する”


 ヘレーネの言葉が木霊のように脳裡に響いて、離れない。

 大人になればすぐにでも、タクシス家から出て行ってやるとアントンは考えていた。

 貴族の身分を投げ打ってタクシス家の名が聞こえない、遥か遠くへ赴くことができると期待していた。これで憎悪から逃れられ、自由を手に入れられるのだと。

 だが、それが本当に選択すべき未来なのか揺らいでいる。


 ヘレーネに、母の肖像画を見に来てほしい。

 自分でも何故だか分からないが、アントンは誘いの言葉を口にしていた。そして、彼女は見に行きたいと意欲を見せてくれた。

 レーゲンスブルクにへレーネが訪問するその日まで、タクシス家に留まろう……アントンはそう決意した。


 その日から、アントンは侯爵の父に伴って王宮に顔を出すようになった。ヘレーネに会って顔を見て言葉を交わせば、己の進むべき道の答えが見つかる気がしたからだ。



    ◇◇────◇◇◇────◇◇



 王宮の伺候に随伴するようになった息子アントンと、行き帰りの馬車の中で言葉を交わすようになった。

 死期が近づいた母の懇願を断りきれず決まった、二度目の結婚。

 侯女マティルデ・ゾフィーとの再婚によって出来てしまった愛息子との距離が、ぐっと縮まったとマクシミリアン・カールは心の中で感涙していた。


 彼は、愛する亡き妻の面影を色濃く残す息子が好きで好きでたまらない。

 本音をいえば、息子を猫可愛がりしていたい。赤毛の可愛い頭も撫でくりまわしたい。

 警戒心を解いて、冷たくツンツンせずに、懐いて欲しい。甘えて欲しい。

 

 だが、思春期の息子を構いすぎると嫌われそうなので、必死に我慢している。

 マクシミリアン・カールは、愛息子に嫌われたくない。

 同時に、息子が傷つく姿もみたくはなかった。



 混乱の1848年。

 “諸国民の春” に刺激された民衆が王宮に突入。王族は避難のため一時的に逃げ出す。軍隊の弾圧により春に浮かれた空気は萎み、王宮が元の落ち着きを取り戻したのは秋の頃。


 久々に王宮に顔を出したへレーネ公女は、アントンに会っても微笑むことなく会話を拒否して背を向ける。


 年頃になった異性と距離を取るのは正しい行為だ。

 アントンは平気なふりをして表に出さないようにしている。本音を隠しがちな愛息子だが、父親なので息子の気持ちは手に取るように分かる。

 へレーネ公女に会えるのを心待ちにしていた健気な息子が、戸惑い落ち込んでる。

 自分でも気づかぬうちに、何か嫌われることをしでかしたのではないかと自問自答している息子は不憫だ。


 カールはこほん、と咳払いをして気持ちを切り替えた。

 これから厳しい現実を息子に突きつけねばならない。傷は浅ければ浅いほうがいい。


「公爵と侯爵の間には、大きな越えられない身分の隔たりがある」

「何がおっしゃりたいのです?」

「誤解しないでくれ。私はおまえの邪魔したくないんだよ。応援してやりたいと考えてるんだ。だがな……」

「ですが、何です?」


 目を細め臨戦態勢に入った息子に、怖気づいてしまう。

 思わず涙目になりかけたカールだが、息子の前で涙を見せるわけにはいかない。

 邪魔したくない息子の恋路。影ながら応援してやりたい息子の初恋。

 だが、息子の幸せのためならば、心を鬼にしてでも言わねばならないこともあるのだ。


 息子が気に入った子が、何の身分も持たない庶民の娘ならまだ良かった。

 貴族にとって庶民の娘との結婚は、家門からの追放を意味する。

 カールはアントンが家督を継がないのは寂しく思うだろう。だが、息子の幸せを思い賛同し、レーゲンスブルクに立派な邸宅を作り、息子夫婦に限りない支援を惜しまなかったはずだ。


 だが現実、へレーネはバイエルン公爵家の息女だ。

 バイエルン初代国王マクシミリアン1世のヴィッテルスバッハ家の家督争いに協力し、忠実な臣下であり続けたバイエルン公爵家。

 この功績により“バイエルンの中の公——バイエルン公ヘルツォーク・イン・バイエルン”という儀礼称号を授けられ、子孫である直系の子女はイン・バイエルンの名乗りを許されている。

 マクシミリアン1世の娘であるルドヴィカ王女が嫁いだことで関係はより強化され、バイエルン王国の親王家といってもいい地位にいた。


 現在、バイエルン三代目国王となったマクシミリアン2世はマリー王妃との間に、ルートヴィヒとオットーの二人の王子はいるが、王女はいない。

 政治の駒として王女の代わりを担う公女は、重要な役目をもつ。

 ヘレーネは薔薇のような際立った美貌や華やかさはないが、清純さと落ち着きがあり、大人しく聡明な娘として評価されている。


 君主というのは概して、癖のある性格が多く我儘だ。高貴な身は血が濃いためか、癇癪が酷く偏屈で拘りが強い者が多い。

 難所といわれる王室に耐えうる姫君は、重宝される。


「公女は王家の姫プリンツェシンとして、大事なお役目があるんだよ」

「……」

「家臣としてお支えして、適切な距離を取らなくてはならない」


 侯爵家の嫁にするのは天と地が入れ替わらない限り無理だ。公女のことは諦めてくれ。

 他の女の子に目を向けたらどうだい?

 そんな無神経なことを言って息子の逆鱗に触れたら怖いから、マクシミリアン・カールはそこまで言えない。

 けれども、父の指摘は聡い息子に充分伝わったはずだ。


 神聖ローマ帝国の時代ならば、皇帝直属の直臣として公爵家と侯爵家の縁組みは可能だった。メクレンブルク公爵家出身のカールの母テレーゼが、タクシス侯爵家に嫁いできたように。


 神聖ローマ帝国から離脱の時、バイエルン王国のように国家に昇格して侯国になっていたならば、へレーネ公女と侯世子である息子との結婚の可能性はあったかもしれない。 

 だが、家業を円滑に遂行する為に一貴族に留まったタクシス家は、バイエルン王国の家臣となり領邦君主の身分を失った。

 王族と貴族の間には越えられない障壁がそびえ立っていた。

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