11 ホイリゲの夜

 トゥルン・ウント・タクシス家は、ヨーロッパに広く脈を張り各地の宮廷の奥深くに根を下ろしている。 

 それはウィーンでも変わりない。


 エムメリヒ・トゥルン・ウント・タクシスは、目の前の本家の坊ちゃん・・・・を片目で眺めながら、かすかに炭酸が残る辛口の白ワインを飲み干した。

 エムメリヒの鍛えられた体躯はひと目で軍人だと分かる。左目に黒い眼帯をした生粋の将校である彼は、トゥルン・ウント・タクシスのオーストリア分家の出だ。


 若造と舐められがちな若き皇帝の傍らで仕え、鷹のように片目を光らせ威厳を添えるエムメリヒは、フランツ・ヨーゼフの信頼も篤く父とも友とも慕われている。


 生粋のウィーン子であるエムメリヒは、『ホイリゲ』でワインを嗜むのが好きだ。

 ウィーンには庶民的な家族経営の居酒屋ホイリゲ今年のがあちこちにあり、1年未満のワインの新酒が味わえる。

 ワイングラスではなくジョッキでワインを飲むのがホイリゲ流だ。


 眼帯で長身の有名人であるエムメリヒは、どこにいても目立つ。

 喧噪から離れたテラスのテーブルに陣取って、四方山よもやま話をするのが一番安全だ。


 目の前にいる赤金の髪が特徴的な青年はトゥルン・ウント・タクシスの候世子エルププリンツだ。

 速いが乗り心地の悪い郵便馬車を乗り継ぎ、ヨーロッパ各国の分家に顔を出し情報収集に勤しんでいる。


 後妻の子が跡目を継ぐかと思われたが、急に存在感を出してきた野心家の青年だ。

 彼が求める情報を出さなければいけないが、近衛騎士隊長の職務から許される範囲内でお願いしたいものだ。


 店内のどよめきが外のエムメリヒたちの耳にも飛び込んできた。

 ホイリゲの小ぎれいな看板娘たちが色めきだっていた。


「若き皇帝は、田舎娘ボイリッシュをご所望とか」

「なら、私たちにもチャンスがあるんじゃないの!?」

「田舎娘がお好きなのかしら……」


 ウィーンの情勢について細かく聞いていたマクシミリアン・アントンは肩をびくつかせた。


「おいおい、何言ってんだい。大公妃のご実家のバイエルン娘バイリッシュから選ぶらしいぞ」

「なぁ~んだ。ただの聞き間違いね」

「「えー、残念」」


 看板娘たちは渋い顔をして散り散りになった。


 (ここまで、情報が広がっているのか……)


 秘密裡に進んでいたホーエンツォレルン家の王女との縁談が頓挫して、ゾフィー大公妃が実家であるヴィッテルスバッハ家に打診したのはここ最近のことだ。

 チーズを千切りながら庶民の情報伝達能力に感心していたエムメリヒは、ぎょっとした。


「おいおい、顔が青白くなってないか。白ワインなんかで酔うなよな」


 マクシミリアン・アントンは据わった目でエムメリヒを睨むように視線を合わせると、搾りだすような声で確認する。


「やはりバイエルンから妃を娶ることになったのか……」

「ああ、そうらしいな。血が濃すぎるとよくないんだが、仕方ない」

「そうか……」


 アントンは茫然として、空になったジョッキを見つめた。

 エムメリヒは渋面になった。何となく、嫌な予感がする。


 酔っ払いの相手は苦手だ。

 だが、本家の坊ちゃんを放置するわけにはいかない。……かといって酔っ払いを家に持ち帰って介抱する羽目になるのも面倒だ。吐いたり暴れたり泣き出したりされても、鬱陶しい。

 若者のお世話は青年皇帝だけで勘弁してもらいたい。


「おーい! 葡萄ジューストラウベンサフトを持ってきてくれ!」

「あら、もうお連れさん、酔っぱらったの?」


 顔見知りの看板娘が笑いながら、白濁した葡萄ジュースをアントンの前に置いた。

 アントンは一気に飲み干した。エムメリヒ将軍のアルコール濃度を下げよう作戦は上首尾だ。


(あのフランツィも結婚か……)


 幼少のみぎりより仕えてた我が君主が、ついにご成婚される。

 若さ溢れる看板娘のムチムチの後ろ姿を見送りながら、エムメリヒの胸に言い知れぬ物哀しさが浮かび上がる。


 大公妃のお眼鏡に適うバイエルンの姫君は、おそらくフランツ・ヨーゼフの好みではないだろう。


 皇宮で厳しく育ったフランツ・ヨーゼフにとって、教養にあふれ抜け目ない宮廷夫人はお好みではない。宮廷でそつなくこなすような小賢しい女に対して、潔癖な青年は生理的嫌悪感を持っている。

 宮廷夫人の代表であるゾフィー大公妃が息子の息抜きにと斡旋する利口で弁えた魅惑的な女性は概して、彼の好みとはかけ離れている。

 だが、孝行息子の皇帝は、不満を漏らさずに相手をしている。


 フランツ・ヨーゼフが若干十八歳で帝冠を戴いたのは、ゾフィー大公妃の手腕あってのことだ。

 青年皇帝の私生活は、母という厳格な看守が四方八方に目を光らせている。

 母親に従順に従う青年が、いつか爆発しないかエムメリヒは気を揉んでいた。


「皇帝は『田舎娘がお好み』か……」


 皇宮から縁遠い庶民がなぜ的確に皇室の核心を突くことができるのかと、エムメリヒは可笑しくなった。

 “諸国民の春” でウィーンがきな臭くなった1848年、フランツ・ヨーゼフはラデッキー将軍が率いるイタリア戦線に送られた。危険なウィーンから少しでも遠ざけたいというゾフィー大公妃の親心である。


 まだ大公だった皇帝の尊き御身を、誰よりも近くで守ったのは他ならぬエムメリヒだ。

 側で侍るエムメリヒは、フランツ・ヨーゼフの女の好みをよく知っていた。


 サンタ・ルチアに向かうイタリアの旅路で、母の手から離れ自由を謳歌するフランツ・ヨーゼフが熱い視線を注いでいたのは、うら若き田舎娘たちだ。

 無垢な乙女たちに不用意に接触しないように、エムメリヒたち将校は、青年皇帝を厳しく監視をしていた。


「皇帝は田舎娘が好きなのか?」


 アントンは先ほどの蒼白な顔とは打って変わった真剣な目でエムメリヒの返答を待っていた。

 エムメリヒは力なく笑う。


「シュタイアーマルクの例もある。温室の薔薇よりも野に咲く花がお好きなのは、血の濃いあの家の男の本能やも知れん」


 オーストリア初代皇帝フランツ一世の弟ヨハン大公。彼は、湖畔で偶然出会った美しい田舎娘と恋に落ちた。

 シュタイアーマルクの郵便局長の娘アンナ・プロッフルとの婚姻は、皇族や貴族の猛反発にあった。


 ヨハン大公はハプスブルク家の遺産相続権と皇位継承権を放棄して、恋を貫いた。

 娘の行く末を心配する郵便局長のために、本家のトゥルン・ウント・タクシス家は影に日向にと助力を惜しまなかった。 


 だが──。

 フランツ・ヨーゼフは、庶民との婚姻を選んだヨハン大公のような選択はすまい。

 神が選び与えたもうた皇帝の地位をフランツ・ヨーゼフは大切にしている。


「責任感の強い方だから、好みじゃなくてもバイエルン娘と上手くやるさ。母上と上手く付き合ってるようにな」

「フランツ・ヨーゼフは田舎娘がお好き……」


 ぶつぶつ呟くアントンを横目に、エムメリヒはブルートヴルスト血の腸詰に噛り付いた。

 処刑続きでブルートユング血染めの若者と揶揄される哀れなフランツィの悪評を、めでたい慶事が吹き飛ばしてくれることを心から願った。

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