12 番狂せの始まり 1

 バイエルン王国、王都ミュンヘンの空を覆う鈍色にびいろ雲は分厚い。


 到着したアントンを迎えたのは、ニヤニヤと意地悪く笑うエリーザベトだった。


「あら、また来たのね」


 “諸国民の春”以降、度々ミュンヘンに訪れていたアントンは、街をぶらつくエリーザベトに見つかり、姉に告げ口すると脅されていた。


 口止め料としてヨーロッパ中の珍しいお菓子をエリーザベトに強請ゆすられている。


 すでにエリーザベトは大きな瞳を爛々と輝かせ片手を伸ばし、賄賂を待ち構えていた。


 お淑やかで思慮深い姉のヘレーネと同じ姉妹とは思えない。


 エリーザベトの奔放ぶりは高貴な公女には見えず、市井の町娘と何ら変わらない。


 いつもなら苛立ちが湧く見慣れたエリーザベトの姿を、アントンは電撃に打たれたように凝視した。


「なによ!? 人を爪先から頭のてっぺんまでジロジロ舐め回すように見て気持ち悪い!」


バイエルン娘バイリッシュ田舎娘ボイリッシュ……」


「ああん? 誰が田舎娘ですって?」


 失礼なことをボソリと呟くアントンに、エリーザベトは拳を握り臨戦態勢に入った。


「エリーザベト公女、こちらをお納めください」


 アントンは立腹するエリーザベトの手に、素早く賄賂を握らせた。


「ふ~ん、何これ!? チョコレート? んっ!……ジャリジャリして美味しい!」


「古代チョコレートと呼ばれる物です。シチリア島モディカから運んだ貴重な品ですよ」


 早速、噛り付いたエリーザベトが歓喜の声を上げた。


 カカオと砂糖のみのシンプルなアステカ時代からの製法で作られる古代チョコレートは、低温で処理するため砂糖の粒が残りシャリシャリとした独特の食感がある。


 レーゲンスブルクで待つ、可愛い弟妹たちの好物だ。


 情報収集のためヨーロッパ各地を回るようになったアントンは、各地の銘菓をタクシス家に持ち帰っていた。


 異母弟妹にも土産を渡せば、ギクシャクした雰囲気は緩み、雪解けしたように交流が芽吹いていた。


 だが今は、脳裡に閃いた思いつきを試すためにも、弟妹たちには我慢してもらおう。


 バイエルン公爵家の次女にして、田舎娘の趣のあるエリーザベト──フランツ・ヨーゼフ好みで身分も高い公女の存在はアントンの強力な切り札になるやもしれない。


「お気に召しましたか?」


 エリーザベトは古代チョコレートをザクザク噛むのに夢中になっていて返事ができない。


 代わりにコクコクと頷いた。


「そうですか、それは良かった。また、珍しいお菓子を持って参りますので、くれぐれもご家族には気づかれないように、お一人でお召し上がりくださいね」


「ん!」


 古代チョコレートを口一杯に頬張るエリーザベトは、言葉にならない声で返事をした。


 青年皇帝にはもう一つ大事な『女の好み』が存在する──フランツ・ヨーゼフは、ふっくらした少女を好む。


 嗜好を把握しているアントンはエリーザベトをもっと太らせ、フランツ・ヨーゼフの好みに近づけることに決めた。


「んーっ、やばいわ! 食べだしたら止まらない、癖になるウマさ!」


 ペロリと平らげたエリーザベトは、また出迎えた時のニヤニヤした意地悪そうな瞳でアントンを見上げた。


 重大な秘密を抱え、それを誰かに漏らしたくてうずうずしているようだ。


「……さぁーて、さぁーて、どうしよっかなぁ?」


「なんでしょうか?」


「ん──? まぁ、美味しいお菓子を持ってきてくれたしぃ、特別に教えてあげてもいいかなぁ……」


「何をでしょうか?」


「んーとね、ネネ姉さまは、今、どこにいるのでしょーか?」


 教えてくれるんじゃないのかよ! とアントンは苛ついたが、ヘレーネに関することなので辛うじて堪えた。


 気まぐれなエリーザベトの言葉と行動が一致しないのはままあることだ。


「今日は、ヘレーネ公女はなかなかいらっしゃいませんね」


「残念ねぇ、アントン。わざわざ、レーゲンスブルクから見にいらしたのに」


 そろそろ街をぶらつくエリーザベトをヘレーネが呼び戻しに来てもいいころだ。


 訝しがるアントンに近づいて、エリーザベトは誇らしげに告げる。


「なぁ~んと、ヘレーネ姉さまは皇帝陛下とのお見合いのために、ウィーンに行ったのよ!」


「あのブルートユング血染めの若者と?」


「えっ、何それ!?」


 通例、オーストリア帝国の皇族は20歳から成人と認められる。


 だが、異例の18歳で成人となり、オーストリア帝国の若き皇帝となったフランツ・ヨーゼフ一世。


 彼が即位したのは、メッテルニヒ体制が崩壊し、先帝フェルディナント一世が退位する1848年の革命の真っ只中のことだ。


 統治下にあるイタリアやハンガリー、チェコで独立運動が起き、新皇帝は次々と帝国内に軍隊を派遣し、動乱を鎮圧する。


「オーストリア帝国の青年皇帝は、即位してすぐに射殺や絞首刑で大勢の反逆者を粛清している」


 特に、ハンガリーでは114人のマジャル人の要人を粛清した。


 引退していたハンガリー元首相バッチャーニュ伯爵を跪かせて射殺し、同日、安全を保証されていたはずの13人のハンガリー将軍を柱にくくりつけて処刑した。


 世界中にショックを与えたフランツ・ヨーゼフはブルートユングカイザー血染めの青年皇帝と恐れられていた。


「……そんな怖い人とネネ姉さまが結婚するの?」

「ああ、このままではそうなるな」


 ショックで慄くエリーザベトに空返事をしながら、アントンはミュンヘンからウィーンへの最短ルートを考えていた。


 今からウィーンへ向かい、自分の目で様子を確かめたい。


 もうすぐ正午を迎える。すぐ出立しなければ、夕方までにウィーンに到着できない。


 焦るアントンは、エリーザベトの様子になど構ってる余裕はなかった。


「では、エリーザベト公女、これにて失礼しま──」


「私が、ネネ姉さまと皇帝の結婚を阻止するわ! 絶対に!」


 エリーザベトが、まるで宣戦布告でもするかのような勢いで、言い放った。

 

「は?」


 アントンは思わず呆然とする。


「止めるって、どうやって?」


「ど、どうにかよ! ともかく阻止するの!」


 意欲があっても、無策では期待できまい。

 時間の無駄だとアントンは、会話を切り上げウィーンへ向かう。


  この時は、皇帝とヘレーネの結婚を阻止することなど不可能だろうとアントンは思っていた。

 運命の悪戯が、歯車を狂わせるとは知らずに──。

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