13 番狂せの始まり 2

 同日同時刻──。

 オーストリア帝国、帝都ウィーン。

 皇宮ホーフブルクに隙間風が吹き込む。

 白磁に金彩が施された陶器製暖炉の炎が、大きく揺らめいた。


「今宵の舞踏会で、皇帝息子と引き合わせますからね」 


 目の前に座るゾフィー大公妃は、ヘレーネに告げた。

 横に座る母親のルドヴィカ公爵夫人は、舞い上がりそわそわと落ち着かない。

 ヘレーネは冬の湖面のように固まる。


 今宵の賓客を招いた舞踏会で、見合い相手のオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフと対面する予定だ。


「皇帝陛下に気に入っていただくのよ」

「……はい、お母様」

「この縁談がまとまる事を期待しているわ」

「……はい、伯母上」


 ルドヴィカ公爵夫人とゾフィー大公妃の期待に、ヘレーネは押し潰されそうだった。


 めかし込んだにも関わらず、ウィーンの華やかで洗練された空気の中にいると、野暮ったくて場にそぐわない気がしてくる。


 緊張するヘレーネに、珈琲とデザートが供された。

 珈琲に口を付けると、オレンジ・リキュールとラム酒がふわりと香る。

 ヘレーネの凍えた身体は、ようやく人心地ついた。


 珈琲カップの絵柄は、薄紅色の薔薇が描かれた可愛らしい意匠だ。

 大公妃の趣味というよりは、若い女性が好みそうなデザインだ。


 出されたデザートは、煮林檎が入ったプティングトルテで、表面に散らされた白い実がコリコリした歯ごたえが特徴的だ。


 気後れするほど華やかなウィーンの街で圧倒され、ホーフブルクでハプスブルク家の歴史の重厚さに押し潰されそうになっていたヘレーネの胃と心に、素朴なトルテの優しい味が沁みる。


「美味しい」


 思わずヘレーネが感想を漏らすと、ゾフィーは満足気な表情を浮かべた。


(もしかして──)


 ヘレーネは目の端に控える女官たちの表情をさりげなく観察した。

 彼女たちの微かに浮かべる表情は、是だ。


「白い実が何とも不思議な食感で美味しいです」

「アーモンドよ」

「アーモンドなんですね。こんな食感がするアーモンドは初めて食べます」

「ちょっとした工夫をしてるのよ。……そんなに気に入ったなら、また用意してあげてもいいわ」


 ゾフィー大公妃は不機嫌そうに渋面で横を向いているが、かすかに頬が赤い。

 母のルドヴィカが嬉しいときに、わざと渋い顔をして喜びを隠すことがある。


 世界に名だたるハプスブルク家に嫁いでウィーンの女帝となった姉と、バイエルンの国内貴族である公爵家に降嫁した妹──天と地ほど境遇の違う二人の姉妹は、感情の隠し方がよく似ていた。


「ありがとうございます。──伯母上自ら、お作りくださったのですね」

「ふふっ、いやだわ。ヘレーネにすぐに気づかれてしまった」

「お姉さまお忙しいのに、今でもお菓子作りをされてるのね」


 ゾフィー大公妃は悪戯を見つかった少女のように、楽し気に笑う。

 穏やかな空気に包まれ、バイエルンの姫たちは自然と笑い合った。


 母親のルドヴィカがはじめての子供の縁談に舞い上がっているように、伯母のゾフィー大公妃にとっても初めての子供の縁談に心を躍らせているのかもしれない。


 アーモンドはたくさんの実をつけることから“子孫繁栄”を表し、林檎は聖書の逸話から“知恵”を意味する。

 若いヘレーネが好むようなティーセットを吟味し、願いを込めた焼き菓子を自ら作り、大公妃はもてなしてくれたのだ。


 歓迎してくれているのだと知ると心が温かくなる。


 ヘレーネは未知なるウィーンでの暮らしの恐れが、少し和らいだ気がした。


 ゾフィー大公妃は野心家でしたたかな女性として人々に恐れられている。それは、聡明で向上心のある彼女の大公妃としての鎧の部分でしかない。


 少女のような無邪気さと女性らしい細やかな気遣いの両方を内面に兼ね備えたゾフィー大公妃となら上手くやっていけそうだとヘレーネは感じた。


「フランツィもマクシミリアンも私の焼き菓子を食べて大きくなったのよ。これから忙しくなるけれど、落ち着いたら皆でお茶会しましょう」

「大公妃殿下、ありがとうございます。楽しみですわ」


 未来の嫁と姑となるはずの二人は心からの笑みを浮かべた。


 和やかな空気を切り裂くように、扉が勢いよく開き女官が慌てた様子でやってきた。


「大変です! 」

「まぁ一体、なんですの?」


 ゾフィー大公妃はヘレーネをかばうように前に出て、女官に事情を話すよう促した。


「皇帝陛下が暴漢に襲われ、重傷です!」


 突き刺すような悲鳴があちこちで上がる。

 ふらついたゾフィー大公妃の元へ、ヘレーネは駆け寄り支える。


 青褪めたゾフィー大公妃の手を握ると、戸惑うような視線とぶつかった。

 ヘレーネが励ますように頷くと、ゾフィー大公妃は不安気な表情を引き締め、すぐに凛々しい顔に戻る。


「陛下の元へ参ります」


 高らかに宣言したゾフィー大公妃はヘレーネの手を握り返すと、部屋から出ていった。



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 ゾフィー大公妃はお菓子作りが好きで、1840年ごろからお菓子レシピを集めています。

 ハプスブルグ家が好んだお菓子を知る上で貴重な資料となっているそうです。

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