14 番狂せの始まり 3

 1853年2月18日──。 

 皇帝フランツ・ヨーゼフが暴漢に襲われたという報せは、帝都中に瞬く間に広がった。


 負傷した皇帝が運び込まれたアルブレヒト宮殿では煌々と明かりが灯る。


「兄さんは酷い怪我を負ったのに、『母がこのことを耳に入れないといいが』って母さんのことを心配して気を揉んでいたよ」


 宮殿に駆けつけた三男のカール・ルートヴィヒ大公は、兄皇帝の健気な様子を訥々とゾフィーに語る。


 我が子の孝行ぶりがゾフィーの心を打つが、今は感動している場合ではない。

 捕まったのは今は一人だが、組織が隠れている可能性がある。

 皇帝暗殺計画を企てた襲撃者の背後関係を洗わなければならない。


 日課の昼の散歩をしていたフランツ・ヨーゼフが、ウィーン市壁の下で行われている軍事訓練を眺めていた時に、背後から男が襲い掛かった。

 目撃した女性の叫び声でフランツ・ヨーゼフが振り向いたため、ナイフの刃先は硬いシャツの襟に当たって滑り、幸いにも致命傷は免れたが後頭部に傷を負った。

 男はもう一度ナイフを構えたが、副官のマキシミリアン・オドネル伯爵がサーベルで牽制し、通りがかりの肉屋のヨーゼフ・エッテンライヒが助勢に駆け付け男を取り押さえた。


「兄上の容態は?」


 次男のフェルディナント・マクシミリアン大公が神妙な顔をして皇帝の容態を尋ねるが、瞳の奥の光が楽し気に踊っている。

 長子であるフランツ・ヨーゼフが亡くなれば、皇帝の座は彼の物である。


「刺し傷は深くないのに、高熱が……襲撃犯の男がナイフに毒を塗ったんじゃなかってオドネル伯爵が……」

「神はあの子を見捨てたりなんかしません!」


 涙を流して心配する三男を叱咤するようにゾフィーは励ました。


 純真に兄の回復を願う三男とは正反対の態度を見せる次男のフェルディナント・マクシミリアンは、常日頃から兄の苦境を期待している。

 今も、愉快そうに口を歪ませていた。


 フランツ・ヨーゼフの二歳差の弟フェルディナント・マクシミリアンは兄よりも己こそが皇帝に相応しいと言いたげな態度を隠そうとしない。

 陽気で社交性とカリスマ性があり周囲に魅力を振りまき、物静かで内向的なフランツ・ヨーゼフの劣等感を刺激して苦しませていた。


 幼い頃は仲が良かったのに、いつの間に仲違いするようになりお互いに憎み合い足を引っ張り合うようになってしまった。


 ゾフィーが野心家の次男を一睨いちげいして諌めていると、武官侍従が報告にやってきた。


「襲撃犯は、ハンガリー人の仕立屋見習いのヤーノシュ・リベーニと判明しました……」


 犯人の名前に、フェルディナント・マクシミリアンの身体がぴくりと反応したのを、ゾフィーは見逃さなかった。

 目を大きく見開き口を両手で覆う次男は、まだ誰も知らない極上の醜聞を知った宮廷夫人のように興奮で震えていた。



「何を知ってるの!?」

「……いや……特に何も?」


 尋問内容を聞き終えたゾフィーは、アルブレヒト宮殿の一角にフェルディナント・マクシミリアンを連れ出し追及した。

 掴みかからんばかりのゾフィーから逃れるようにフェルディナント・マクシミリアンは両手を上げて後退あとずさる。

 どうやら次男は犯人に心当たりがあるらしい。


「嘘おっしゃい! 襲撃犯のことを知ってるわね! あなた、まさか……」

「母さん、俺はオーストリア帝国の皇帝にはなれない立場・・・・・・・・・・だってことはよく弁えてるよ」


 フェルディナント・マクシミリアンはいつになく真摯な表情でゾフィーに真実を問うように見つめてくる。

 大きな青い海のような瞳は吸い込まれるように美しい。


 ゾフィーは能面のような冷たい顔で撥ね退ける。

 唇を真一文字にして何も語る気はない。 


 やがて諦めたのかフェルディナント・マクシミリアンはため息をついた。


「神に誓って、犯人のこと・・・・・は知らない」

「犯人のことは? 知ってることは何でもいいから吐きなさい!」


 陽気で明るい次男の顔に戻ったフェルディナント・マクシミリアンは、気まずそうにポツリポツリと自白する。


「……えーっと、その……兄さんが懇意にしてた踊り子の苗字が……確かリベーニだった気がするんだよねぇ」

「フランツィが、ハンガリー女とねんごろになっていたってこと!?」


 ゾフィーの身体から血の気が失せていく。


(本当に男ってやつは役立たずばかり!)


 帝国の臣民たちに“宮廷内のただ一人の本物の男”として畏怖されるゾフィーは、呆れ果てて言葉を失った。


「いや~、どこまで懇ろになってたかまではよく分からないけど、溌剌として兄さんの好みの可愛い子でさ、どうも舞踏学校の費用を用立ててやってたみたいだよ」

吝嗇ケチなあの子が、何も関係のない女に金を出すものですか!」


 こんな馬鹿げたことを起こさないために、選定した女性を身の回りに置いてたというのに。

 

 尋問内容が書かれた報告書にゾフィー大公妃は目を通す。


 帝都ウィーンにあるプラーター公園に出店していた屋台主の姪、マルギット・リベーニと皇帝フランツ・ヨーゼフは知り合いになった。

 

 襲撃犯ヤーノシュとその妹マルギットの故郷、ハンガリーのチャクヴァールの村では、ハンガリー人の血で染まったブルートユングカイザー血染めの青年皇帝の恋人になった村娘の噂が広がり大騒ぎになった。

 兄として妹を弄んだ皇帝に何らかの制裁を加えないことには、狭い田舎で年老いた母親は生きていけなくなる。


(こんなところにも孝行息子がいるわ)


 ゾフィーは薄く笑った。

 襲撃犯に、守りたいものがあるのは重畳ちょうじょうなこと。

 どんな困難でさえ、ゾフィーを打ちのめすことはできない。

 戦うのだ! 戦い勝利を掴むことで、愛する者を守ってきたように。


「エーィエン、コシュート」

「……母さん、何だって?」

「ハンガリー人の襲撃犯ヤーノシュ・リベーニは、捕まった際、『エーィエン、コシュート!』と呟いたらしい。さぁ、ウィーン中の酒場にこの噂をばら撒いてきなさい!」


 尻を叩くように追い立てると、フェルディナント・マクシミリアンは逃げるように宮殿を後にした。

 『エーィエン』はハンガリー語で『万歳』を意味し、『コシュート』は1848年のハンガリー独立運動の指導者の名だ。


 “青年皇帝フランツ・ヨーゼフは、君主国オーストリア帝国に独立運動を鎮圧されたことを恨んだハンガリー人の凶刃に倒れたのだ”


 帝国に真摯に身を捧げる若き皇帝の姿にオーストリア帝国の臣民は感動の涙を流すだろう。


 ゾフィーは暖炉に報告書を放り込んだ。

 歴史は勝者が綴るものだ。


 尋問官には、民族的自決を阻むオーストリア帝国に対する怨恨についてのみ記し、個人的事情は触れないように指示しよう。


 襲撃犯ヤーノシュ・リベーニは死刑を免れない。

 母親の身の安全と年金の支給を約束することを条件に、妹と皇帝のスキャンダルには口を噤んでもらう。


 暖炉の中で灰になったのを確認したゾフィーは、見合いが中断した姪のヘレーネをバイエルン王国に一旦帰らせることに決めた。


 このままヘレーネをウィーンに留まらせていては、兄を困らせるのが好きなフェルディナント・マクシミリアンが、余計なことを吹き込みヘレーネを不安にさせるだろうから──。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚 槙島ポメロ @maxima_pomelo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ