第十二更 光


「……だから、そういう筋書きのなさがいいんでしょ⁈」

助手席のけろこが、肩にかけた毛布を握りしめて叫ぶ。

「いや。ちゃんと伏線とか考察とかストーリーがしっかりしてるほうがオレは好きだもん」

薬師寺は運転しながら、冷めた声でそれに答えた。

「伏線はあるわよ。あんたほんとにちゃんと見たの? 超華麗に回収してたじゃない」

「ジョントラボルタのダンス以外忘れた」

「最低よ、最低」

鼻を鳴らし窓の外に顔を向けたけろこに構わず、薬師寺はハンドルを切る。後部座席で磐長は苦笑いするだけだ。


「お、コンビニ」

そのまま路肩に車を停め、運転席のドアを開け振り返る。

「なんか飲む?」

「リンゴジュース」

「またそれ?」

言いつつ車から降りて、コンビニに入っていく。

「おれも行ってこようかな……」

ひとりごとのように呟きながら、磐長も車を降りていく。その後ろ姿を目で追っていたけろこが、ふとコンビニ横の路地に目をとめた。

「……」

目を凝らすようにして何かを見ていたが、突然車を降りて路地に向かった。ブランケットで身を隠すようにして、その入り口で足を止める。


 薄暗い路地に、誰かが膝を抱えて座り込んでいる。

「……!」

人影に気づいたその男が、慌てて顔を上げた。少し伸びた黒髪と、海に似た深い青の瞳。彼が——彼こそが哀原成海であることを、しかし、けろこは知らない。庇うように押さえている彼の左腕には、血が滲んでいた。

「……痛むの?」

けろこが一歩進んで、しゃがみこみ傷を見る。

「ッ、……あ……いや、もう、」

「血、まだ出てる」

肩にかけた鞄から、けろこがハンカチを取り出し、その腕に結んだ。成海は、彼女の背に光る街灯の眩しさに、目を細めた。彼女の長い睫毛が伏せられるのを、ただ黙って見ていた。神々しさすら覚えて、瞬きさえできない。

「……気休めだけど」

「あ……りがとう、ございます」

腕に巻かれた、小さな「K」の刺繍がある白いハンカチを見て、成海は慌てて礼を言う。そんな成海を見て、けろこは小さく微笑んだ。そっと毛布を成海の頭からかけ、優しく肩に触れた。微かな温もりと、懐かしいような匂い。震えるほどの安堵が、成海の内から湧き上がった。けろこは立ち上がる。

「……あの……」

「じゃあ、行くわね」

「っ……はい」

何かを言いかけて、けれど何も思いつかず、その言葉を飲み込み、成海は頭を下げた。次に顔を上げると、そこに彼女はいなかった。ぐ、と毛布を握り、腕の痛みも忘れて、成海は光の方を見つめていた。


   *


 高野が、震える手で牌を切る。隣の安田は煙草を吸いながら、涼しい顔で牌を取った。そのあまりの動じなさと反して、高野は冷や汗が止まらない。今、吉鯖と安田の点差は八千ある。既に南三局を迎えており、普通なら逆転は難しい。……普通なら。高野は思う。安田が本気を出せば、あるいは。けれど、先程の安田の言葉。これは、高野自身の戦いであるという、その言葉の真意を考えれば。

 安田は、臆することなく二萬を切る。高野の目が、怯えと焦りに塗られていく。

「……おい、安田」

静寂を切り裂くように、吉鯖の不機嫌そうな声が響いた。安田を睨む。

「貴様……本気でやっているのか?」

「……ふっ」

肌に刺さるような鋭い声色も意に介せず、安田はせせら笑い吉鯖を横目で見る。

「よく考えたら、お前、別に負けたって失うものもないだろう」

「……何?」

見るからに、吉鯖の怒りが増していく。傍目で聞いている高野の方が、恐ろしくなってきた。安田は笑みをたたえたまま、珍しく饒舌に話す。

「組の取引がどうのとか、どうせお前もさっぱり興味がないはずだ。当然俺も興味がないし、賭けている物も何もない」

「……」

「そんなお前と打ったとて、何になる? くだらん勝負だ。こんな茶番で本気を出す気はない。俺と本当に麻雀がしたいなら——賭けろ。つまらん矜持や建前ではなく、お前自身のすべてを賭すなら」

安田の瞳が、ほんの一瞬、紫の炎を放つ。

「俺はいつでも戦ってやる」


ぎり、と歯軋りの音が聞こえた気がした。

「……偉そうな口をきくな。巫山戯やがって。いいのか? それなら、この勝負は残り一局、同じように流して俺が勝つぞ」

言いながら、吉鯖が最後の牌を切り、流局になる。

「そうすればいい。俺は裏切って上がったりしないしな」

「は、え、ちょ……!」

思わず声を上げた高野を、安田の視線が射るように貫く。高野はぐ、と詰まり、いやそもそも俺に雇われたんじゃなかったのかあんた、と思うが、声には出せない。

 安田が手牌を眺め、一枚切る。それを見て高野も、震える手で配牌を揃えた。

「……」

牌を見つめる高野の額に、一筋の汗が流れた。その目を見つめて、安田が僅かに微笑む。

 吉鯖が溜息をつきながら、やる気なさげに一枚切った。戸惑う高野の指が、数秒の後、一つの牌を選び取り、たん、と前に置いた。そして真っ直ぐ、手配を見つめる。

 やるしかない。安田は一度決めたことを変えるような人間じゃないと、高野はもう知っていた。この場は、高野にとって、もはや自分自身との勝負になったのだ。やるしかない。


 その目にはもう、迷いはない。


   *

 

 京都の北の果て、夕鶴港にエンジン音が響き、ゆっくりと止まった。物陰に隠れて停車したバイクに、一人の男が跨っている。ライトを消して、ヘルメットを取り、海を見る。春の終わりのぬるい夜風が、黒髪を攫った。闇の中で陰りを帯びた青い瞳は、水面に反射した街の明かりを、ぼんやりと眺めた。

 男は──成海は、我に返ったように、海から目を逸らした。荷物を取り出して肩にかけ、ネックウォーマーで口元を隠す。慣れた足取りでコンテナに入り、荷物を下ろした。腕時計を一目見て、小さく息をついてずるずるとしゃがみ込む。ふと、コンテナの外に目をやり、空に光る月を見上げた。


 同時刻、港の反対側に、ぼろぼろの車が停車した。

「夕鶴港……て、今はもう廃港になってるよね」

「だね。神音が高野と全を連れてくるはずだけど……まだかな」

磐長が運転席の方に身を乗り出し、ふとけろこの方を見た。

「……大丈夫? 寒くない?」

「あ……平気」

無意識に自らを抱くようにしていたけろこが、ぱっと腕を解いた。深いブルーのドレスは露出が多く、春先にはまだ少し肌寒そうだった。

「ん? 毛布は?」

薬師寺がようやく気づいて、問いかける。

「あー……まぁ……」

けろこは言葉を濁し、目を逸らした。海の上に月が光っている。


   *

 

 河の牌の数が増えていく。高野は、しかし、そちらを見ることはほとんどない。真っ直ぐに、自分の牌だけ見つめている。

「……」

僅かに揺れる高野の虹彩を眺め、安田が唇を開く。

「……高野」

はっとして、安田の方を向く。恐怖を孕んだ、縋るような目だった。

「……先生」

「……どうだ? 調子は」

「え……」

それだけ言うと、安田は微笑み、牌を切る。

「……何を企んでるのか知らんが、お前が一度上がったくらいで勝敗は変わらんぞ。俺はこの局を流す。どうせ安田もそのつもりなんだろう。貴様がそのようなスタンスの中、真面目に打つのは癪だからな。とっとと切って終わらせろ、素人」

吉鯖は頬杖をついて、すっかりやる気を失った顔で低く呟く。黒い目は高野を見てさえいない。


 素人だ。高野は思う。吉鯖と高野の点差は、一万三千。素人の適当な上がりで、捲る事は不可能だ。その上、残りのツモ回数はあと二回。手のひらに爪が食い込むほど、強く拳を握る。

 吉鯖が牌を切る。高野の河をちらりと見て、すぐに興味を失い視線を外した。はじめから、鳴きもせず、河の様子も滅茶苦茶で、素人そのものだ。話にならない。吉鯖はそう結論づけて、安田もこんな奴がサポートだからあのような戯言を言ったのだろう、と考えた。

 高野が、震える手で牌を取り、そろりと見る。その眉が僅かに下がり、気取られないように唇を噛む。

 だめだ。やっぱり無謀だった。絶望に目を閉じながら、高野は成海との約束を思い出す。


「……先生」

その声は、やけに落ち着いていた。安田は思わず高野を見る。

「どうして助けたいのかって……俺に聞いたでしょう」

「……」

安田は答えない。

「俺は……俺は、ただ、自分のためなんだ、こんなこと。成海のことを本気で、昔の友達だからだなんて純粋な気持ちで、助けたいわけじゃない。……俺は自分の、このクソみたいな人生の……人生の、罪悪感を、和らげたくて。何かに……何者かになりたくて。友達を助けた自分、に、なるために。そんな……クソみたいな動機なんです、俺は、先生」

そう言って、諦めたように笑いながら、牌を切った。

 沈黙が流れる。牌を置く小さな音だけが、数回、響いた。

「高野」

取った牌を見た安田が、静かに呼んだ。

「水面の月は偽物だと思うか」

「……え?」

安田は、手の中でそのツモ牌を弄びながら、手牌を見て笑った。そこに並んでいるのは、バラバラのタンヤオ、これ以上ないほどどうしようもないゴミ手だった。

「俺にはわからん。片目じゃ真偽は見えない。映った月も空にある月も、何が本物で何が偽物か。……だが、わかることが一つある」

高野の金色の瞳が光った。安田は手の中の牌を河に置き、その目を見据えた。

「お前がすくうのは海底の月だ」

高野は小さく目を見開いた。それから、逡巡して、瞼を閉じる。


 すべてを、見ようとすること。


 深い夜の海の中に、満月を見た。眩しい光に、目を開く。

 最後の牌に、手を伸ばした。

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