第十三更 一人じゃない


 手に取った牌を裏返し、きつく瞑った目を、ゆっくりと開ける。高野の瞳に、手の中のそれが映る。

「……っ、………」


握られていたのは、一筒だった。


「……ッは、」

手から牌が零れ、卓に落ちる。安田と吉鯖が、それを見る。

「……そろった……」

呟いた高野が、震えた手をぶつけるようにして、手牌を倒す。

「……、は?」

叫んだ吉鯖が腰を浮かせる。安田も身を乗り出して目を見張り、卓を見ている。

「……国士無双」

「……き……さま、これ、は」

吉鯖の言葉を遮り、安田が突然音をたてて立ち上がった。高野はびくりと肩を跳ねさせて、安田を見る。

「よくやった‼︎」

安田が叫んだ。満面の笑顔で、高野の頭をぐちゃぐちゃに撫でる。あまりの驚きに、高野は呆然と口を開けている。


 吉鯖は、立ち尽くして高野の手牌をじっと見ていた。

「……貴様……」

安田の手から解放された高野が、僅かに頬を赤らめながら、吉鯖に向き直った。

「まさか……貴様、まさか。あの捨て牌……」

吉鯖の脳裏に、高野の河が浮かんだ。

「はじめから、卓に着いた瞬間から、これを狙ってたのか……⁈」

「あ……は、い」

照れたように、高野は頭をかく。吉鯖がさらに目を見張る。

「ば……馬鹿な、そんな、気の違ったような賭けを、何故……」

その呟きを聞いた高野の目が、すっと細められた。まるで熱に浮かされたような笑顔で、こともなげに応える。

「それぐらい狂った賭けしなきゃ、オレの生き残る道なんてなかったでしょ」

「……!」

息を呑む吉鯖を尻目に、安田は椅子に座って悠々と煙草に火をつけた。

「千六百・八千でお前の点数は四万八千。お前の勝ちだ、高野」

安田の声に、高野は卓に目を戻す。最後に手にした牌、丸い模様の描かれた一筒を見つめた。


「……成海……」


   *

 

 足を組んでソファに座り、ローテーブルの上の携帯電話に手を伸ばす。ボタンを押すと、スピーカーから流れる高野たちの声が切れた。電話を折りたたみスラックスのポケットにしまいながら、谷松は微笑む。

「さて……決着もついたようですし、こちらの条件はすべて飲んでいただくということでよろしいですね?」

向かいに座る男は、無言で唇を噛んだ。部屋にいる数名のスーツの男たちも、固唾を飲んで成り行きを見守っている。

「……そんじゃ、そういうことでよろしくお願いしますよ、兄貴」

谷松はへらへらと笑いながら立ち上がり、そそくさと部屋を出た。止める者はいなかった。ドアが閉まりきるまで、部屋に向かって頭を下げる。ばたんという音とともに、谷松は顔を上げるが、そこに表情はない。真顔のまま、踵を返し、廊下を歩く。胸ポケットから携帯電話を出して、電話をかける。


「……もしもし、やくちゃん? 夕鶴港にはついた?」

「お、神音ちゃん、ついたよ」

薬師寺の声は落ち着いていた。谷松は歩きながら、腕時計を見る。

「……六原慧子もそこにいるな?」

「うん、いるよ」

薬師寺がけろこを——慧子を見た。少し驚いたように、慧子も彼を見る。

「ほんじゃ、俺様がしてきたオヤクソクの話するわ。その女にも聞かせてやって」

「ん、わかった」

薬師寺が通話をスピーカーに変えて、慧子と磐長に目くばせした。


「さて、まず君のことだけど、六原さん。いくつか質問していいか?」

戸惑うように二人を見た後、慧子は少し警戒しながら電話口に顔を寄せた。

「……ええ」

「あんた、やくちゃんの店に飛び込んだのはわざとだな?」

慧子は目を伏せ、溜息をつく。

「……そうね」

「やくちゃんの店に俺が頻繁に出入りしてるの知ってて行ったんだろ。西木と鈴鳴の関係が良くないことも知った上で、俺が鈴鳴の人間だから。はじめっから目付けてたわけだ」

静かに、慧子はそれを聞いていた。驚く様子も、繕う素振りもなく、ただ暗い目で携帯の画面を見ている。

「……ええ。あなたのことは……西木組にいれば、嫌でも耳に入るわ」

「お~、光栄なこった。お嬢さん、だがな、まさか鈴鳴に助けを求めれば助けてもらえるだろうなんて、そんな甘っちょろい考えだけで行動してたわけじゃないな? いくら西木と鈴鳴の仲が悪いからって、鈴鳴が西木からの逃亡者をおいそれと守ってやるわけねえもんな」

「そうね、それくらいはわかってた。……いいえ、わかっていたはず、だったのだけど。結局あなたたちは、なんの見返りもなく、私を助けると言ってくれたから……予定とは随分変わってしまったわ。初めは鈴鳴の弱みの一つでも見つけて、その情報と引き換えに西木と取引でもしようかと思っていた……」

「だろうね。……それどころか、実はやくちゃんのこと、人質にでもするつもりだったんじゃないの?」

慧子は答えない。

「……けど、そうだな。弱みを掴んだのはこっちだったわけだ」

顔を上げ、慧子が目を見開いた。磐長は僅かに首を傾げる。

「あんたをネタに強請ったら、すぐしどろもどろになったぜ、向こうさん。ボケ息子本人には……まあ、有難いことに会わずに済んだが、西木には顔見知りが数人いてな。いやはやこっちとしてはさ、なんつーの、渡りに船? 助かったよお、いろいろ他にもお話したいことがたっくさんあったんだ。全部、お嬢さんの腹の子供の話したら、一発だったよ」

慧子が息を飲んだ。

 確かに彼女の中には、新たな命が宿っていた。けれどそれはまだ、誰にも——

「……どう、して……知ってるの……」

「オレが言ったの」

薬師寺が、慧子を見ずに低く呟く。

「……っ!」

慧子はぱっと彼を見た。

「ま、正直ただの勘だけど。……よく当たるんだよね、オレの勘」

「いや~お前さん運がいいよ本当。安心しな、あんたの処理はこっちでするっつー約束だ。隠れて暮らしてもらうだろうが、お腹のガキも生ませてやれるよ」

「……あ、あ」

震えながら、慧子が手で口元を覆う。泣きそうな表情は、初めて見せるものだった。

「……ありがとう、ございます……」

「……礼言うなら、俺じゃねーんだけどさ」

小さく笑って、谷松は外に停めていた車に乗り込む。


「とりあえずそれはまた後で、だ。さくちゃん、頼みたいことがあるんだけど」

「ん、何? 神音」

「その廃港で今から、西木の人間と哀原成海の取引がある予定だったんだ。で、俺がさっきしたお話で、芙蓉町周辺担当だった哀原成海はこちら預かり……と言ったんだが。事と次第によっちゃあ、先回りされて、処分されるかもしれない。一応釘は刺しといたけど……」

磐長は察した様子で頷く。

「つまり、その哀原成海って子を探して守ってあげればいいんだね」

「そういうこと。俺も今向かってるし、高野くんや先生も連れて行こうと思うんだけど、できれば先に動きはじめてくれねえ? 取引の時間が近づいてる」

「わかった」

「サンキュー。んじゃ、また後程」

 電話が切れて、薬師寺は携帯電話をしまいながら、磐長と目で合図を交わす。

「じゃあ、おれは行くよ。……ここで待ってる?」

「うん。よろしく、さくちゃん」

「気を付けて」

「そっちこそ」

ドアを開け、磐長が車外に出た。夜の闇に溶けていく背中を、薬師寺が窓越しに見送る。


「……なんだか……手慣れてるのね」

呟いた慧子の方を見ると、どこか遠い目をしていた。今までと少し雰囲気が違う。ずっと気を張っている様子だったが、今は憑き物が落ちたような、肩の荷が下りたような顔をしている。

「……手慣れてる? ……ああ、オレらの……なんだろう。なんていうか……チームワークのことなら、まあ、そうかもね。実際慣れてるし」

「……そうなの?」

「いろいろあるからね~」

「……」

慧子は黙り込み、俯いた。薄紅色の瞳は、空虚で感情が読めない。


「……私は」

膝の上で拳を握り締め、力なく笑う。

「私も……あなたたちみたいに、なれたらいいのに」

「……」

「……ずっとひとりだったから。これからも……ひとりなのかも、しれないけど」

そう言って、薬師寺の方を見る。虚ろな目に、薬師寺の戸惑うような表情が映った。

「もし……できるなら、許されるなら……私は……」

沈黙の後、薬師寺が、優しく微笑んだ。含みを持たせた、小さな子供に見せるような笑みだった。

「……君は一人じゃないよ」

「……」

「もう君は一人じゃない」

慧子がはっとして俯いた。そっと、腹に手を置く。まだ何の兆しもない、けれど確かにそこにある、もう一つの鼓動を聴く。


「もしまた君が、……君たちが困ったら。その時は、きっとまた助けてあげる」

囁くような薬師寺の声に、慧子は顔を上げないまま、目を閉じる。

「……本当?」

「もちろん」

慧子は瞼を開いた。静かに涙を流しながら、薬師寺を見上げて微笑み返す。


「……うそつき」


   *

 

 煙草を吸う安田に続いて、疲れ切った様子の高野がビルから出てくる。目を擦りながら、ポケットの携帯電話に手を伸ばしたその時、目の前に猛スピードで走ってきたアルファロメオが停車した。

「うお⁈」

「や、お疲れヒーロー」

驚愕する高野に、窓を開けた谷松が軽く手を上げ声をかける。

「とりあえず乗りな。話は後だ」

唖然とする高野をよそに、安田は平然と車に乗り込む。慌てて高野もその隣に座った。ドアが閉まるのと同時に、車は急発進して、夜の芙蓉町を駆け抜けていった。

 

   *


 高野が後部座席から身を乗り出し、運転席の谷松を見た。

「じ、じゃあ、今、成海危ないってことですか?!」

「いやわからねえ。俺もわからねえから急いでんだけどね」

「……ッ……」

もどかしげな表情で、高野が座り直す。隣の安田は、缶コーヒーを飲んでいた。窓の外を眺めるその紫の隻眼に、少し欠けた丸い月が映っている。


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