第十一更 唯一無二の完成解

 卓を見ていた高野の背を、冷や汗が伝った。吉鯖と安田は、互いに譲ることなく、猛攻を続けている。高野がこれまで片手で数えるほどしか上ったことのない役を、二人は、ほとんど交互に上がり続けていた。


「自摸。二千・四千」

タン、と牌の倒れる音がする。吉鯖が宣言し、安田は無表情のまま牌を崩した。 

 早い。ついていくのがやっとの状態で、高野は必死に安田の手牌を確認する。配牌時点で、七対子のイーシャンテンになっていた。ゾッとして思わず俯く。


 吉鯖は自分の牌を見つめ、考えていた。可能な限り、待ちを広くする。スピードと再現性の高さだけを求める。それが、吉鯖の編み出した打ち方だった。安田全、その麻雀は、狙った獲物を決して逃さない。ベタオリでさえ、安田の思惑通りにしか、牌は動かないだろう。唯一無二の完成解は、そこに辿り着くまでに——避けようのない、絶対的なタイムラグを生む。そのことを、吉鯖は知っていた。

 白虎を刺すなら、その隙しかない。

「自摸。四千オール」

「……」

安田は静かに、吉鯖を見つめていた。


 その後、安田の四暗刻が三巡目でリャンシャンテンを迎えるも、吉鯖の面前一ドラに潰される。高野は僅かに焦りを見せ始めたが、安田は顔色一つ変えず、ただ黙って煙草をふかしていた。

 と、ポケットの携帯電話が震えて、高野の肩が跳ねる。

「……すみませ、」

慌てて部屋を出て、電話に答える。

「か、神音さん?」

「よぉ高野くん、緊急事態だあ」

「えっ?」

全く緊急事態ではなさそうな、谷松の間延びした声に、高野は思わず聞き返す。

「決着まだついてないよな?」

「あ……そうですね、えっと、今の点数は……」

「いや、いいよ。状況は大体わかってんだ。それより高野くん、ちょいとマズくてさ」

言葉を切った谷松の電話口の向こうで、微かにエンジン音が聞こえた。

「やくちゃんと女のほうが追っ手にばれたらしい」

「え……! だ、大丈夫なんですか⁈」

「たぶん。今はまだ、な。けど人手が必要なんだわ。強いやつがね」

「つ、つよいやつ、ですか」

「うん」

高野は真剣な眼差しで、指示を待つ。

「さくちゃんを寄越してくれる?」

「……え?」

拍子抜けた声を上げる高野に、谷松が僅かに笑った。

「自分が呼び出されたと思った? ダメダメ、お前はちゃんとその目で勝負見届けなきゃ。お前のための勝負なんだからよ。というわけで、さくちゃんの席にお前が座んな」

「は、えぇ⁈ 嘘でしょ神音さん⁈」

「嘘なわけあるかいな。おヒキくらい今のお前ならヨユーだろ」

「で、でも俺、おおお俺ですか⁈」

「そうだよ。俺は露骨に関われねぇもん。まあもうバレてっけど」

高野は携帯を握り締め、焦って自分でもよくわからないことを口走る。

「か、神音さん、俺、俺マジでヤバいんですけど……」

「だーいじょぶだって。お前のタイピンにつけた盗聴器からやりとりは拾ってる、なんかあったら駆けつけてやるよ」

「え?! うわ、いつの間にそんな……」

咄嗟にネクタイを確認する高野の耳に、谷松の声が響く。

「時間ねーぞ、早くさくちゃんと代わんな」

「ッ……はい!」

半ばやけくそで高野が電話を切って、部屋に戻る。

「マスター!」

高野が音をたてて扉を開くと、磐長が驚いた表情でこちらを見た。

「高野……⁈」

高野は真っ直ぐ磐長を見つめる。横目で見ていた安田は、ただ黙って指を組んだ。


   *

 

「……さてさて」

通話を切った谷松は、目の前の扉を流し見る。

「舞台は整った……なーんてな。俺、案外脚本家とか向いてんじゃねーの?」

一人呟くが、それを聞く者はいない。

「ついでにお祈りもしておいてやるかァ」

扉に向き直り、目を閉じ、胸に右手を当てる。覚えている数少ない聖書の一節を、誦じた。

「『幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん』」

ゆっくりと瞼を開ける。ちらつく蛍光灯が赤い瞳に反射した。ドアノブをひねり片手を上げ、部屋に入る。

「どうもー、谷松です~! あーららみなさんお揃いやないですの、叔父貴もお久しぶりです~!」

違和感たっぷりの京都弁を振りまきながら、谷松は胡散臭い笑顔で部屋を見回した。

「ほな、今日はお手柔らかにお願いしますねぇ」


   *

 

 薬師寺が思い切りハンドルを切った。助手席のけろこは、頭を伏せたままドアミラーを覗き見る。

「……来てる、右!」

「了解ッ」

タイヤが唸りをあげ、細い路地に横幅いっぱい車が進入した。

「こんだけ細けりゃ、あんな大きい車来れないで……」

薬師寺が言い終える前に、激しい衝撃を感じ、けろこが悲鳴を上げた。ハイエースに追突されたミニクーパーはバランスを失い、大通りに飛び出し、壁にぶつかって停車する。

「……っつぅ~……!」

背中をしたたか打ち付け顔を顰めた薬師寺が、はっとして慌ててけろこを見る。彼女は前かがみになって唇を噛んでいた。薄紅の髪が乱れている。

「けろこちゃん!」

「……だい、じょうぶ」

顔を上げたけろこの表情が、恐怖に歪んだ。薬師寺が言葉を発するより先に、運転席側の窓ガラスが割られる。伸びてきた手を振り解き、けろこを庇おうとしたが、助手席側のドアが開かれ、彼女は引きずり降ろされた。

「いやっ……!」

「ッおい!」

けろこが車外に出たその時、彼女を捕まえていた男が突然吹っ飛んだ。驚いて振り返ると、蹴りの姿勢で立ったまま冷ややかに見下ろす磐長が居た。

「……女子供に乱暴は、いかがなものかなあ」

「あ……!」

「無事?」

けろこに微笑みかける磐長の目は、打って変わって優しい。怯えながらも頷いたけろこを見て、磐長は薬師寺の方に視線を向けた。ボンネットを滑るように超えていくと、薬師寺の腕を掴んでいた男に肘鉄を入れる。鈍い音が響いて、けろこが小さく息を呑んだ。

「た……助かったぁ~! ありがとう、さくちゃん!」

薬師寺が腕を軽く振ってからハンドルを握り直した。後部座席に乗り込んだ磐長を見て、慌ててけろこも助手席に座る。

「行こう。撒くぞ!」

「任せて!」

大破寸前のミニクーパーが、夜の京都を全速力で走り抜けた。

 

   *


 高野が、安田の横の席に着く。煙草に火を点けながら、横目でそれを見た安田が、低い声で呟いた。

「高野」

「ッはい!」

明らかに緊張し切った様子の高野に、安田はにやりと笑いかけ、煙を吐く。

「勝ちにこい。差し込みだのベタオリだのは考えるな」

「え」

金色の双眸が揺れる。安田は勢いよく煙草を灰皿に押し付けた。


「……これはお前の勝負だ」


高野が小さく息を呑んだ。その目が鋭くなり、それから一度閉じられる。短く息を吐くと、ネクタイを緩めた。高野は、前を見据えて覚悟を決めたように頷く。

「わかりました」

安田は口角を上げたまま、前に向き直る。


「……御託は結構だ、再開する」

そう言うと吉鯖は、腹立たしげに牌に手を伸ばした。配牌が終わり、高野はその手牌を指先でなぞる。

 やらなければならないこと、やるべきことは決まっていた。あと必要なのは、全てを見ようとすること。それから──。


   *


 下唇を噛みながら、眉根を寄せて高野が牌を切る。

「ロン。三色同刻・ドラ一」

「っ⁈」

吉鯖が牌を倒す。その並びを見て、高野は目眩さえ覚えた。読めない。いや、当然だ。読ませるつもりなど、毛頭ないのだろうから。この男に、自分が勝つことなど、可能なのか。そんな考えをかき消すように、小さく首を振る。集中しろ、と自分に言い聞かせて、高野は手牌を並べた。

 安田はその様子を、腕を組んでじっと眺めていた。


   *

 

「……見えなくなった。とりあえずは撒いたかな」

車の後部座席から後ろを見ていた磐長が、前に向き直り運転席の薬師寺に言う。

「はー……怖かった」

「……」

けろこが助手席で体を抱き、息をつく。安堵と共に、僅かに手が震え始める。怯えてはいたものの、その目に宿った強い光が消えることはなかった。薬師寺は横目でそれを見て、何も言わず目を逸らす。

「この車……これだけぐちゃぐちゃになっちゃってると、もう捨てたほうがいいかもね……」

磐長がぼやくように呟く。

「え……マジ? めちゃくちゃ気に入ってたんだけど、これ……まあいっか。また神音ちゃんに、いい車回してって頼もうっと」

「とりあえず神音から、集合場所の連絡が来てる」

磐長は暗がりの中、携帯電話を操作する。

「集合場所? どこ?」

振り向いた薬師寺に、場所だけが書かれた短いメールを突き付けた。

「京都北丹。夕鶴港」


 

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