第十更 「俺に触るな」


―― 十年前 京都某所 ――


「俺が勝てば約束どおり、こいつの店からは手引いてもらうぞ」

安田は手袋をはめて、双眸で目の前の老人を見据える。

「……いいでしょう」

老人が、小さく頷く。横で谷松は押し黙りそれを見ていた。

 安田の隣にいる磐長が、俯いて目を細める。


 彼の心は、不思議なほど凪いでいた。その落ち着きは、けれどとても愚かなものだった。

 磐長朔弥は子供だった。甘かった。迂闊だった。彼は、安田全の勝つことを、信じて疑わなかった。


 しゃきん、と牌が十三枚並べられる。谷松がちらりと横目で安田を見てから、牌を一枚切る。安田の口元が僅かに歪む。

「カン」

谷松は無言で牌を渡した。しばらく、牌のぶつかる音だけが響いた。窓のない部屋を蛍光灯が灼いている。

「……カン」

 安田の声を聞いた谷松が、睨むようにしてにやりと笑う。銀髪の年若い見慣れぬ代打ち師が、一体どんな麻雀を打つのかと警戒していたが、この様子ではただの博打狂いだろうと高を括る。

 次の番に、安田は再びカンを宣言した。眉を顰めた谷松に対し、老人は表情を変えることはなかった。

「自摸」

言葉を発したのは、安田ではなく、隣の磐長だった。

「平和。……カンドラ、三。満貫です」

「……!」

谷松が訝しむような目で見る。一体、何を考えているのか。安田の顔に、感情は見られない。磐長が黙って積み棒を置く。


 そこから先は、もはや谷松も磐長も、蚊帳の外だった。

 安田がするりと、なんでもないことのように、国士無双を上がる。老人が小さく、なるほど、と呟いた。それからすぐに、老人は門前・三色同順・純全帯にドラが乗った跳満を見せつけた。安田の動揺は、ささやかではあったが、しかし決定的だった。畳みかけるように老人は、嶺上開花を、満貫を、数え役満を、上がった。


 南二局。安田は十三枚の牌を並べ、静かに目を伏せる。

「……ご老人、」

視線を上げ、双眸で卓を見据える。麻雀牌が冷たい蛍光灯に照らされている。

「あんた、めくらか?」

「……如何にも」

磐長が無言のまま、安田の方を横目で不安げに見た。安田は目を閉じて俯く。

「……教えてくれ」

膝の上で組んだ革の手袋が、軋む。

「あんたには何が視える?」

「………」

老人は閉じた瞼を開けることなく、ほんの少しだけ、空を仰いだ。

「すべてだ」

「……」

安田がゆっくりと目を開け、配牌を見る。互いの呼吸さえ聞こえそうなほどの静寂が流れる。音もなく、安田の右手が動き、牌を一枚切った。磐長の揺れる瞳が、安田を見つめる。映った彼の横顔は、青白くぼんやりと光っていた。


   *


「……ッチ……長引かせやがって。……おい、お師匠の方はどうなってる」

吉鯖は、高速道路を走る黒いセダンの後部座席で、不機嫌そうな表情で足を組んでいた。

「は……あの借金踏み倒した雀荘の息子ですが……」

運転手が応える。藍色の髪を左の側頭部だけ刈り上げた、アシンメトリーの特徴的な髪型の青年だ。車窓には高速道路の明かりが走っている。

「なんでも銀髪の若い男……を連れてきて、そいつが代打ちだと……」

「……誰だそれは」

「わからんそうです、詳しいことは何も……近頃芙蓉周辺の雀荘に現れる荒らしちゃうか、とのことですが」

「荒らし、だと?」

窓に向けていた視線を、吉鯖が前へやる。街灯に照らされた運転手の左耳に、銀のピアスが光っている。

「強いらしいんですわ、相当。ほんでえらいレートで金巻き上げていきよる。銀髪で目立ちますしね。なんでも今回は……目を賭けてるらしいですよ」

「……目?」

「ええ。けったいな趣味しとる」

吉鯖は少し黙り、足を組み替えた。長い前髪を払い、また窓の外を見る。

「名前は?」

「安田全、と」

「……知らんな」

シートに体を預け、息を吐く。

「……こんなクソのような雑務さえなければ、俺がお師匠のサポートで入っていたはずなんだがな。谷松に任せていると思うと、よくわからんゴミの処理もまともにできるのか、不安でたまらん」

「はは……谷松さんもお強いやないですか」

吉鯖は眉を顰め、少し体を乗り出した。

「俺よりもか」

「とんでもない」

運転手は、前を見据えたまま笑う。

「しかしまぁ、今回はさすがに兄貴の……徹さんの出番はないんとちゃいますか。着く頃には決着もついとるやろうと思いますよ」

彼は——吉鯖徹は、不機嫌そうに腕を組み、ひとつ溜息をついた。


   *

 

 磐長は、何度でもこの日のことを思い出し、何度でも考える。

 おれが子供じゃなかったら? 思慮深かったら? 全を止めていたら? 周到だったら? 馬鹿じゃなかったら? ……全の勝利を、ほんの僅かにでも、疑っていたら?


 老人が、めくった牌をそのまま開いて置く。

「……自摸、一気通貫、ホンイツ、跳満。六千オール」

十三枚の牌が倒れる。安田は俯いたまま顔を上げない。

 磐長が、彼を見て思わず声を上げる。

「……ッ! とも、」

その瞬間、安田が勢いよく立ち上がった。その表情は、見えない。

「っあ」

磐長も腰を浮かせる。黒服の男が、安田の腕を掴んだ。

「……めろ」

安田は振り払うが、もう一人の黒服に取り押さえられる。

「やめろ。……やめろっつってんだろ」

暴れる安田を、数名の男が羽交い絞めにした。

「やめろ‼︎ 俺に触るな‼︎」

絶叫が、響いた。

 卓についたままの谷松と老人が、黙ってそれを見る。瞳に温度はない。

「離せ! 俺は、っやめろ!」

「……、っ……! ぁ……」

伸ばした磐長の手が空を切り、掠れた声を堪えるように息を飲む。

「嫌だ、やめろ! はな、離せ、触るな、俺に触るなッ」

もがく安田の背後に、一人の男が近づく。黒髪が揺れた。谷松が、吉鯖、と呼ぼうとしてやめる。その手に握られたスタンガンに気づいたからだ。

 一閃の電流が、安田の首筋に流れる。

「ッぎ……!」

「ともッ‼︎」

磐長が椅子を蹴り立つ。気絶した安田は、黒服に引きずられるように部屋を出る。追いかけようとした磐長の肩を、谷松が捕らえた。

「まぁ落ち着きな、お兄さん。行っても無駄だぜ」

「……っ!」

睨むように谷松を見た磐長が、その真っ直ぐな冷たい視線に押し黙る。


 ──おれが子供じゃなかったら? 思慮深かったら? 全を止めていたら? 周到だったら? 馬鹿じゃなかったら? 全の勝利を、ほんの僅かにでも、疑っていたら?

 この日のことを思い出して、何度でも考えるその問いの答えは、いつも変わらない。


 考えたって無駄だ。だって、全の勝利を、誰よりも信じて疑わなかったのは。

 間違いなく、安田全だったのだから。


   *


「……が、俺にとってはそんなことはどうでもいい」

吉鯖が組んだ手の上に顎を乗せ、薄く笑った。高野は、黙って磐長を見た。その顔から感情を読み取ることは、できない。

「貴様の眼球にこれっぽっちも興味などない。俺が貴様に思い出させたいのはその後だ」

「はっ……覚えてるが?」

安田はせせら笑い、隻眼で、吉鯖を見据える。

「確か神音がさくに持ち掛けたんだったか? 取引……とか言ってな。老い先短い師匠の跡継ぎ、俺が引き受ければ『すずめ』の差し押さえは見逃してやるって」

ポケットから出した煙草の箱を卓に置き、安田は咥えた一本に火を点ける。

「ま……俺の左目は帰ってきやしなかったが。それで? お前はクビにでもなったのか?」

「そうだ」

紫煙が立ち上る。吉鯖の視界が霞む。

「元々、鈴鳴の次期代打ち師になる予定だった俺は、お役御免というわけだ。……お師匠の弟子も外されたな。貴様……俺がそれで納得するとでも思うか」

「……」

「貴様と一度も戦うことのないままで。俺が。納得するはずがない」

「……そうか」

安田が煙を吐く。吉鯖は眉間の皺をますます深くした。

「それで……西木の犬になってまで、俺と戦いたいと」

「……その通りだが?」

安田の口元は緩く弧を描いている。

「……悪くない」

その言葉に、吉鯖も不敵に笑った。

「始めるぞ」

「ああ」

安田がつけた手袋の革が鳴く。牌の山が卓に現れた。高野は息を飲み、微かに高まる自分の鼓動を聞いていた。


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