第九更 あの晩の話

 大通りから外れた、交通量の少ない道の傍らに、一台の車が停車していた。月明かりに照らされた、白緑のミニクーパー。それに背を預けた男が、通話終了と表示された画面を見つめている。

「……」

男は窓越しに車内を覗きこむ。後部座席には、肘をついて外を見るけろこが座っていた。桜の色をした瞳が、何を映しているかはわからない。

 携帯電話を仕舞いながら、薬師寺が困ったように笑った。

「さ~て……上手くやってよね、神音ちゃん」


   *


「はいはーい、準備できた? 高野くぅん」

耳に当てた携帯電話から響いた呑気な谷松の声に、高野は強張らせた頬をひくりと動かした。着慣れないスーツに身を包み、締まる首元に少し辟易している。高級そうなスーツだが、谷松から借りる時に『死んだ組員のやつ』と聞いてしまったので、正直なところあまり身に着けたくはなかった。後ろには同じくスーツを着た磐長と、雀卓の前に座って煙草を吸う安田が居る。

「……はい。今から向かいます」

「オッケー、車はもう向かわせてあるから。あと十分くらいで着くと思うぜ」

「わかりました」

谷松は喫茶ロアイヤルのソファに腰掛け、アイスティーをストローで混ぜながら、携帯電話に耳を押し付けて首を傾げた。

「……何? ひょっとして緊張してる?」

「しますよ、そりゃ……」

「後ろに立って見てるだけだよ。なんなら立ったまま寝とけばいいし」

「どんだけ肝座ってんすか……」

「大丈夫? うんこ行った?」

「行きましたよ」

ストローを咥えたまま、谷松がにやりと笑う。

「あーそうだ、最後にもっかい確認な。俺との約束、覚えてる?」

「……余計なことはしない、言わない、聞かない」

「完璧。そんじゃ、地獄で会おうぜ」

ぷつり、という音の後、規則的な電子音を鳴らす端末を耳から離す。

「……」

無言でそれを見つめる高野に目をやり、安田が煙草を揉み消した。立ち上がり、横を通りざまに、低く呟く。

「とっとと行くぞ」

「あっ……はい!」

緊張した面持ちの高野を覗き込み、磐長が微笑む。

「心配しないで、高野。大丈夫だから」

栗色の髪がふわりと舞った。強張った面持ちのまま、高野は静かに頷く。それから二人の後ろを歩き、すずめを出た。重いガラスの扉を閉じ、鍵をかける。

「……あ……」

ガラスに丸く、光が反射する。見上げた春の夜空には、月が輝いていた。


   *


 高野は腕を組み、窓の外に流れる街灯を見つめていた。安田に頭を下げたあの日から、一週間も経っていない。たった数日で全ての手筈を整えた谷松は、何者なのだろうか。その条件や対戦相手のことは、何も知らせてくれなかった。一体どうやって、誰と、何を話したのか。考えても無駄だとわかっていながら、高野は何度も、そんな疑問を反芻していた。眉間に皺を寄せ、目を閉じる。これから安田の代打ちに同行するというのも、いまだに実感が湧かない。


 薄く目を開けて、ちらりと横を見やる。高野の隣で、安田が足を組み目を閉じている。

 高野はまた、車窓に目を向けた。僅かに欠けた、丸い月が出ている。本当にこれで、成海を助けられるのだろうか、とぼんやり考えながら、また瞼を閉じた。


   *


「よぉやるわ、お前も」

その声に、谷松が顔を上げる。向かいのソファには、シルバーグレーの髪をオールバックにした初老の男性が、どっかりと座っている。白いスラックスに派手な柄シャツと、首元から覗く金のチェーンが、明らかに堅気の人間ではないことを示していた。その呆れたような表情を見ながら、谷松は音を立ててアイスティーを飲み、にやりと笑う。

「おやっさんたら、何のこと言ってんすか?」

「隠す気もない癖によう言う」

「隠したって無駄でしょう。おやっさんは知ってて止めなかった。だから俺もやめなかっただけ」

「止めたところでやめへんやろが、お前こそ」

「ンハハ」

おやっさん、と呼ばれたその男こそ、京都の裏社会を牛耳る鈴鳴組の組長その人である。


「……しかしまた、なんで堅気のガキに全を使わせたんや」

「ん?」

谷松の態度は、自分が属する組の長に対する物としては、随分砕けている。組長はそれを意に介さず、慣れっこだというように、首を傾げた谷松を訝しげに見た。

「お前にしちゃ、回りくどいことするやないけ。鈴鳴で預かって、適当に片付けられたやろ、西木とのいざこざのおまけなんざ」

少し考えた後、薄く笑って、谷松が目を逸らす。

「……そうね。おまけね。確かに、成海くんはおまけだな……忠犬ハチ公くんは、そうは思ってないだろうけど」

「あ? なんやて?」

眉を顰めた組長に向かって、胡散臭い作り笑いを見せる。

「いやあ、だってウチが安田に金払わなくて済むなら、そっちの方がいいっしょ? 節約っすよ節約」

「……」

「……引くなよ、おやっさん。冗談だ」

組長が首筋を掻きながら、冗談に聞こえへん、と言う。

「最初はマジで、俺が関わってると西木に思われたくなかったんすよ。ほら……色々あったし?」

「……まあな」

「でも流石にバレてたな。とはいえ、一番関わりたくない奴らとは会わなくてよさそうってわかったし、むしろカードとしては面白いのが揃ってるし、今回お話する兄さん達のことは俺もよく知ってるし、なんならいくつか知らない方がいいことも知ってる。建設的な会話ができそうだな、銃弾さえ飛んでこなければ」

谷松の口数と反比例するように、組長が項垂れていく。

「……ワシは時々、お前の育て方を間違えたんか思う時があるわ」

「今更? 反省するのが十年遅いぜ」

組長はじっとりと谷松を睨め付けながら、ティーカップに口を付ける。

「……なんや、楽しそうにしやがって」

「え?」

「気ぃついとらんのけ。生き生きしとるぞ、お前、今」

一瞬きょとんとした谷松が、すぐに歯を見せてニッと笑った。

「別に、楽しくなんかねぇーよ」


   *


 殺風景な廊下に足音が響いている。車で連れてこられたのは、廃ビルだった。中は僅かな明かりしかなく、薄暗い高野の視界には、前を歩く安田と磐長、黒いスーツの男の後頭部がかろうじて映っていた。先頭を歩く、彼らを出迎えたその男は、恐らく相手の──西木組の構成員なのだろう。

 高野は安田の頭をじっと見た。白銀の髪が蛍光灯に透けている。彼はいつもこうやって、こんなふうに、誰かと戦いにいくのだろうか、と頭の片隅で考えた。

 辿り着いた先で、黒服の男が、扉を開ける。高野は二人の肩越しに、中を覗き見た。広い部屋の真ん中に雀卓が置かれ、周りには黒スーツの男が二、三人立っている。卓の前には、既に一人の男が座っている。あれが今日、先生と打つ相手か、と高野は目を凝らす。

 磐長が真っ先に部屋に入る。数歩進み、足を止める。

「……!」

高野は立ち止まった磐長の横に立ち、不思議そうにその表情を伺った。驚きと、僅かな焦りが見える。

 安田はそれに構わず、ゆっくりと歩いていき、卓の前に立った。

「……神音が」

隻眼を細める。

「妙ににやついてると思ったら、そういうことか」

男が顔を上げる。黒い瞳に、安田の姿が映った。眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな声で呟く。

「……なんだ、覚えているのか、俺のことを。とっくに忘れられていると思っていたが」

「顔を見たら思い出した」

安田が、男の向かいに座る。


「……吉鯖」

そう呼ばれた男が、椅子に背を預け、手を組む。少し長めの黒髪が、顔に影を落としている。口元だけを歪め、皮肉げに一笑した。

「さすがの貴様でも、あの晩のことは忘れられないか。だが見直した、名前まで覚えているとはな」

安田が無言で腕を組み、吉鯖を見据える。高野は一体何の話かわからず、ただ立ち尽くす。その高野を、吉鯖がじろりと見た。

「!」

「……」

つ、と目を背けられて、高野は小さく安堵する。そのまま吉鯖は、高野の隣に立つ磐長に視線を向けた。

「貴様も、忘れたとは言わせないぞ、磐長」

磐長の顔に、既に感情はない。これまで見たことのないその表情に、高野は恐れに似た何かを覚える。

「座れよ。貴様の席はここだろう」

吉鯖が安田の横の席を指差す。磐長が一瞬躊躇うような素振りを見せた後、ゆっくりと歩いていく。


「せっかくこうして久しぶりに会ったんだ。思い出話に花を咲かせるのも悪くない」

見るからに思ってもいないことを言う吉鯖を横目に、磐長が卓に着く。吉鯖は口の端を上げた。

「……貴様の左目が無くなった、あの晩の話でもしようじゃないか」

動揺から、高野の肩が揺れた。

 これまで高野は、安田の左目の話題を出すことを、意図的に避けてきた。誰に言われたわけでもないが、自分はまだ触れるべきではないと思っていた。けれど、当然、興味がなかったわけではない。

 安田は、無表情で座っている。静かに、その残された右目を閉じる。





 ──……瞼の裏に蘇るのは、まだ幼さの残る自身の姿だった。雀卓を前に、その牌の山を、両の目で見つめる。

「……あんたに勝てば、約束どおり、こいつの店からは手引いてもらえるんだな」

向かいには、両目を閉じた老人が座っている。和装に身を包み、白髪を後ろで一つにまとめた、穏やかな物腰の老人。

 後に安田が、師匠、と呼ぶことになる、その人。横には、今より少し若い谷松が居た。

「……そうだな。だが、お前さん、負けた時には……」

「わかってる」

老人の声を遮り、安田が言い放った。隣に座る磐長の、深緑の瞳に、安田がはめた革手袋が映った。


「……始めようぜ」


   *


 夜明けの空が広がっている。助手席に座った薬師寺が、ダッシュボードに上げた足を組み、倒したシートにだらしなく体重を預けている。手元には、女物の赤い財布があった。窓の外の海を、朝日が照らす。

「……」

薬師寺は財布からカードを取り出し、慣れた手つきで素早くめくる。数枚目でひたと手を止め、僅かな明かりに照らしたそれを、じっと見つめる。

「……ふーん」


 その手の中にあったのは、保険証だった。

「……《六原 慧子ろくはら けいこ》」

薬師寺は記された名前を、呼ぶ。振り向いて後部座席を見る。けろこは、――慧子は、座ったまま眠っていた。保険証に視線を戻し、薬師寺は小さく唇を尖らせ、呟いた。


「……良い名前じゃん」


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