第八更 約束


 薄暗いワンルームの床で、哀原成海は目を覚ます。

 起き上がり、腕時計を見る。時刻は十五時を少し回った頃。夜から仕事をはじめ、朝に家に戻る生活をしている彼にとっては、いつも通りの起床時間だ。被っていた薄い毛布を畳んで、立ち上がる。


 哀原成海は、運び屋だ。

 彼がこの町に来たのは、二年ほど前になる。今はもう顔さえ覚えていない男の紹介で、この仕事を始めた。それまでは一、二ヶ月周期で職を転々としていた成海も、思いのほか合っていたのか、運び屋だけは長く続いている。


 成海の両親と姉が揃って事故で死んだのは、成海が十五歳の時だった。

 それまでは、裕福とはいかずとも、彼は不自由のない生活を送っていた。一度に全てを失ったとき、一人で生きるすべを持たない程度には、ごく普通の子供だった。さらに悪いことに、彼は、他人に頼ることが嫌いだった。


 成海は一人で生きようと決めた。例え真っ当とは言えない手段を用いたとしても。

 グラスを取って、水道水を満たし、それを飲む。冷蔵庫を開けると、炊いて小分けにしていた白米がいくつか、ラップにくるんであった。一つ取って、電子レンジに放り込む。温めの間、回るターンテーブルを眺めて、成海は考える。


 人生は、ひとつ失敗するだけで、あとはもう坂道を転がり落ちるだけだ。元に戻ることなんてできない。落としたものは戻らない。壊れたものは直らない。そして自分の最初の失敗といえば——きっとあの時、死にたくないと思った事なのだろう。

 金もなく、信頼できる人もいない、これから先どうすれば生きていけるかなんて何もわからなかったのに、それでいて誰にも頼りたくはなかったのに、それでも僕は、心底死にたくないと思ってしまった。それが間違いだった。世の中には死ぬ手段がごまんとあるけれど、生きる手段はもっと多い。手が汚れることを厭わなければ、尚更。


 白米を取り出し、そのままラップごと軽く握る。熱い。やけどしそうに赤くなったこの手は、縋り付いた生の泥で、すっかり穢れている。

 子供を躊躇いなく働かせるような人間や場所に出会えたのは、むしろ幸福だったかもしれない。一度その世界に足を踏み入れたら、後は簡単だった。人伝に新たな仕事を紹介してもらって、そこで出会った人にまた別の仕事を斡旋してもらう、その繰り返しだ。多くの人間に出会った。多くの世界を見てきた。背負った業の数など、考えたくもない。


 ラップを剥いて、白米を頬張る。電気と水が通る六畳一間は、組から与えられたものだ。ヤクザはわかりやすくて良い。忠実であれば、指示されたことをきちんとこなしてさえいれば、正当に評価される。大型バイクを一台渡され、好きに使っていいと言われたときは、久しぶりにとても嬉しかった。

 雇い主の極道組織については、何も知らないし、知ろうとも思わない。だが、運び屋を始める際、この部屋と免許証を与えてもらい、運転技術も一通り教えてくれたことには、一応感謝をしていた。

 おかげでこうして、生きている。


「……」

無言のまま米を食べ終え、ラップを捨てる。着替えをして、身支度を整える。組から支給された携帯電話を確認して、いつも通り、仕事に行く準備を整える。ヘルメットを手に取り、閉め切ったカーテンの隙間から、僅かに差す光を見た。

 赤く染まり始めた太陽が、傾いている。昼と呼ぶにはあまりに遅い。朝は遠く、夜よりもずっと明るい、夕焼けにはまだ早い空。

 ふと、成海は、自分がまだ本当に死にたくないと思っているのだろうか、と考えた。

 薄い疑念は眩しさに溶けて、消えた。思い出したように彼は、ヘルメットを抱え、その部屋を出た。


   *


 薄暗いマンションの一室、極端に物の少ない部屋の真ん中で、安田はソファに座って目を閉じている。控えめなノックの音を聞いて、ゆっくりと目を開いた。

「……入れ」

「……失礼します」

するりと入ってきたのは、フードを被った高野だった。部屋を照らすのは、窓から差す月明かりだけだ。薄灯に目を凝らし、安田の背中を視認して、一瞬立ち止まる。それから意を決したようにフードを脱いで、安田の目の前まで歩いてきた。

 しばし黙ってそれを見つめていた安田が、静かに口を開く。

「……大方の話は神音に聞いた」

「……はい」

高野は、返事と同時に崩れ落ちるようにその場に膝をつき、躊躇いなく頭を床に付ける。


「……俺に、雇われてください。お願いします」


安田の顔に、感情はない。ただ紫の隻眼が、冷たく月の光を反射している。

「……俺が働くのに、理由は問わない。これまでも、組がどうのとかはどうでもよかった。金さえ積まれれば、どんな事情があっても、俺は打つ。……だが、お前が何故そこまでするのか……多少、興味がある」

高野は答えない。ただ無言で、土下座を続けている。

「……ヒーロー気取りか? 助けたいとかいう、その男。ただの顔見知りなんだろう」

「……」

高野は、答えない。

「お前は一体何のためにこんなことしてる?」

「……」

高野の頭を、じっと見つめる。安田に彼の心情は測れなかった。その目を見れば何かわかるかもしれない、と考えてから、すぐにそれを打ち消した。きっと自分には、一生かかってもわからない。直感のような考えに至って、安田はただ目を閉じた。取り出した煙草に火をつけ、一口吸う。


「……まぁいい」

煙と共に吐き出された、溜息に似たその声に、高野が顔を上げる。灯火がその黄金色の目に映って、安田は眩しささえ覚えた。

「ただし」

安田が煙草を立てる。煙がふわりと立ち上り、幽霊のように消える。

「百万だ。それが俺の動く最低金額」

高野の息を飲む音が、安田にも聞こえた。

「お前のダチを助けるためだろうが、お前が依頼人だろうが、そんなことは関係ない。どうする?」


 高野がゆっくりと俯く。その両の目が隠れてから数秒、小さく声が漏れた。

「……クク……」

笑い声だった。

「神音さんの言う通りだ……先生」

静かに立ち上がる。安田を見下ろす黄金の瞳は、月より鋭い光を湛え、まるで星のようだった。

「甘いよ」

声は穏やかで、安田は静かにそれを見つめる。星をこんなに近くで見たのは初めてだ、と思う。

「……そうだろ? だって」

高野は不敵に笑った。

「あんたを買うんだ……百万なんて、安すぎる……!」


 月明かりを背にした星の眩しさに、安田はほんの一瞬目を閉じた。ふと、この青年が、どこまでいけるのか、知りたいと思った。開いた紫の目に彼を映し、にやりと笑って煙草を握り潰す。

「契約成立だ」

高野が驚いたように目を丸くする。つい先程まであんな挑発的な表情をしていたのに、と安田は小さく鼻で笑った。それから身を乗り出し、鋭い視線で高野を見上げる。

「打ってやるよ高野。お前のために」


   *


 深夜の芙蓉町、廃ビルの並ぶ通りを歩きながら、谷松は携帯電話を耳に当てている。

「……そうかい。やくちゃんがそう言うんなら、間違いねーだろうな」

胸ポケットから片手で煙草の箱を取り出し、一本咥える。

「ちょうどいいじゃねーの。偶然にしちゃあ出来すぎなぐらいだ。……神様の思し召しかね?」

ふざけたように言って、オイルライターを出す。馬の彫られたそれで、煙草に火をつけた。リボンのように煙が上る。

「……はは。心配いらねえって。さっき高野くんにも言ったんだけどさ。やくちゃんだって知ってるでしょ?」

谷松はにやりと笑い、春の夜空に光る星を見上げた。

「あいつは身内に甘いんだよ」


   *


 深い海のような瞳が、星を見上げる。暗い路地裏で、成海は空を見ていた。ビルの隙間から覗くそれは、狭く遠い。

「……」

「な、るみ!」

呼ばれた名前に、驚いて振り返る。高野が壁に手をついてこちらを見ていた。駆けてきたのか呼吸が荒い。

「……高野⁈」

「よ、良かった……今日、会えた……!」

高野が額の汗を拭いながら笑う。成海は動揺していた。思わず踏み出した一歩に合わせて、黒髪が揺れる。

「……ど、どうして、」

「俺……助けるから!」

その声を遮り、高野が叫ぶように言った。拳を握りしめ、真っ直ぐに成海を見つめる。その視線に、成海は僅かに怯んだ。

「絶対、お前のこと助けるから……!」

「……」


 成海の目から、光が消えた。刹那、透けて見えたのは絶望か諦念か、もしくは——一縷の望みか。それをすぐに微笑みに変えて、成海が一歩、高野に近づく。

「……うん。わかった」

高野が大きく頷く。零した笑みは、屈託なく輝いていた。


「……約束」

「……うん。約束」

春の夜の風が、二人の間に吹いていた。

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