第七更 何も知らない


 芙蓉町の中心地、夜半を前にしてなお往来の絶えない通りに、『喫茶ロアイヤル』はひっそりと佇んでいる。バロック調の内装と、主張しすぎないクラッシック音楽が心地良い、歴史ある喫茶店である。


 その奥でソファにどっかりと腰を下ろし、長い足を行儀悪く組み、生クリームの浮いたアイスミルクティーをストローで啜る、黒スーツの男が居た。ネイビーのドレスシャツと臙脂色のネクタイのせいで、明らかにただのサラリーマンには見えない。死んだ魚のような目で壁にかけられた絵画を眺めていた彼が、ベルの音を聞いて入り口に目を向ける。長身の、カーキのコーチジャケットを着た一際目立つ髪色の青年が、きょろきょろとあたりを見回していた。それを見た谷松が、片手を軽く挙げる。高野は小さくあっと言って、谷松の前まで来て、軽く会釈した。


「こんばんは、ハチくん」

「ハチじゃないです、神音さん。今日はありがとうございます」

席について手拭きの封を切る高野の元に、影のようにウエイトレスが寄ってくる。ホットコーヒー、ブラックで、という高野の言葉に、静かに答えてまた影のように去る。

「どう? 調子」

「あ……はい。良いです」

「そうなん?」

咥えていたアイスミルクティーのストローから口を離し、にやにやと笑う。

「突然雀荘に連れてかれて、変な連中に囲まれて、生活一変して、三ヶ月経つけど、調子良いんだ?」

揶揄うように谷松が言う。

「いや……まあ、そうですけど。みなさん良くしてくれますし」

半笑いで頭をかく高野の元に、コーヒーが運ばれてきた。ストローで生クリームを崩しながら、谷松は何度か頷いている。

「良い奴かどうかはともかく、ハチくんには優しいよな、みんな」

「……へへ。そっすね、へへ」

「困ってることとかないん?」

グラスの淵に付いたクリームを舐め取り、ちらりと高野に目線を寄越す。

「情報料のお釣り分くらいはカウンセリングしてやるよ」

「へは……」

冗談ではなく本当に金とるんだな、と思いながら財布をポケットの中で握りしめ、高野は苦笑いを漏らす。

「うーん……困ったことはないんですけど」


 少し思案して、あの、と高野は言い出しにくそうに眉根を寄せる。

「……やくさんと先生って、不仲なんですかね」

「へ? ああ、なんで? 仲良しじゃん」

「……」

高野の唇が僅かに開き、そのまま固まる。

「アホ面すんなって。アレね、ああいうもんだから、慣れた方がいいぜ。あー、なんてーの、馬が合わないんじゃね?」

「慣れ……」

高野は思い出す。顔を合わせると無駄に突っかかりあう二人のこと、じゃれあいと言われればその程度だが手が出る日もあったこと、薬師寺を罵る時だけやたらと饒舌になる安田のこと、安田にだけ信じられないほど口が悪い薬師寺のこと。

 そんな高野を見て口の端を上げた谷松の、血の色の瞳が、きらりと光った。

「……ここだけの話、あいつら、二人きりにするとすげえ落ち着いて喋るぜ」

「……。…………」

絶句した高野を見て、また笑みを深める。

「ま、信じるか信じないかはお前次第だけど。さて、他に聞きたいことは?」

「え。あ……そう、ですね」

我に返った高野が、コーヒーのカップに手を伸ばす。 


「みなさんは、その……知り合って、長いんですか?」

「ん? そうだな、一番長いのはさくちゃんと先生かな。確か中学から面識あんだっけ? ちょっと忘れたけど。やくちゃんとさくちゃんは、ほら、店の並びが近いだろ? オープン当初からってことで、そこそこ長いっぽいぜ。詳しくは知らねえけどな。で、俺が三人と知り合ったのは十年くらい前」

「へえ……」

高野はコーヒーを飲むことも忘れて聞き入る。

「そんなに長いんですね……」

「そーだねー。なんだかんだね。いろいろあったなー。別に知らなくていいことばっかだけど」

谷松はそう言って、ミルクティーを啜った。

「んじゃ、そろそろ本題に入ろうか?」

はっとして、高野がカップから口を離した。


「哀原成海について、調べがついたぜ」

高野が小さく息を飲む。

「君がどれくらい彼のこと知ってるのかはわからないけど、とりあえず一番大事なことから言おうか」

谷松がミルクティーをストローでかき混ぜ、氷の音が涼しげに響く。

「哀原成海は運び屋だ」

高野がカップを置いて、眉を顰める。

「……運び……や……?」

「最近、ウチの縄張りに面倒な連中が入ってきててね。ヤクばら撒かれたりシマの店荒らされたり、迷惑してんだ。まあ、とにかくあまりよろしくない奴らがいる感じなんだけど」

深刻な表情でじっと耳を傾ける高野を前に、谷松はミルクティーを音を立てて啜る。

「……そいつらの後ろに西木組っていう……詳しく話してもしょーがねえから端折るけど、俺の組のライバル組織っていうの? それがいるみたいでさ」

ジャケットの内ポケットからボールペンを出して、谷松が紙ナプキンに『西木』と書いた。

「あんま、良い思い出ないんだよね、ここ」

「……はあ」

「昔、うちの下っ端が迷惑かけてね。こっちの落ち度だから、そいつの処遇にケチつける気はないんだけど。でもやっぱり内容聞いたら、ちょい胸糞わりぃなって」

「……というと」

「舌があれば話はできるだろっつって、まず歯ァ全部抜かれたんだと」

「……」

「続きも聞く?」

「いえ、いいです……」

「哀原成海はどうやら、この西木組に雇われてる運び屋らしい」

ペン先で文字を示し、谷松はアームレストに頬杖をつく。

「……運び屋……」

「わかる?」

わかるような、わからないような、というのが本音だった。ただ、危険な行為であるということだけ、本能的に感じ取れた。


「……成海が……なんで、そんな……」

谷松は、俯いた高野を見つめる。

「これはあんまり確かな情報じゃねーけど」

わずかに低くなった谷松の声に、高野は顔を上げる。

「哀原成海には、親が残した多額の借金があったらしくてな。そいつが原因で西木に首根っこ掴まれてるんじゃねーか……ってウワサ」

「……そんなの……」

また俯いた高野が、ぐ、と組んだ手に力を込める。

「そんなの」

零した声が膝の上に落ちる。谷松は、高野に検分するような視線を向けていた。

「成海が……かわいそうじゃないですか……」

絞り出すような高野の言葉に、谷松は一瞬キョトンとする。それからしばし、物珍しげに高野を眺めて、ふむ、と呟いた。

「高野くんは、哀原成海を助けたいんだ?」

「……え」

高野が目を見張る。目の前の谷松は、底知れぬ笑みを浮かべていた。

「……助ける……? そんな……で、できないです、そんなこと」

「なんで?」

「なんで、って、だって……」

吃りながら、高野は谷松から目を逸らす。

「だって、お、俺には……なにもない、し、それに俺」

俺は、と高野が言う。

「……成海のこと、何も知らない」

谷松は、ゆっくりと笑みを深めた。


「俺が手伝ってあげる」

「……へ?」

高野の丸い月のような目に、ぐっと前のめりに近づいた谷松が映る。

「お前が本当に哀原成海のこと助けたいなら、高野くん。俺がお前を手伝ってやるよ」

「……えぇ⁈」

高野の驚愕の声を遮るように、谷松がポケットから携帯電話を取り出し、少し操作して画面を突きつける。それを前に、皿のような高野の目が、一層見開かれた。

「……か、神音さん、これ」

「お膳立てなら俺に任せな。ただし、ウチの組としては非公式に動かせてもらう。となると、こいつに依頼するのは、俺じゃない」

突きつけられた画面には、ある男の名前が表示されていた。

「……安田全を使うのは、お前だよ、高野くん」

「……ッ⁈」


ぞくりと背筋を走ったのが、恐怖か興奮か、はたまた名もない何かか──高野にはわからなかった。けれど確かに思い出したのは、彼の言葉。必要なのは、全てを見ようとすること。そして──自分を信じること。じわり、と高野の目に光が宿る。

 谷松が、悪魔のように微笑む。

「さて……どうする?」


   *


 ホットコーヒーから湯気が立ち上る。

 両手でカップを持ってソファに座る女が、それをじっと見つめていた。

「ひょっとして口に合わなかった?」

磐長の優しい声に、ハッとして顔を上げる。

「あっ……いえ、そんな。とても美味しいです」

「なら良かった」

磐長はにっこりと微笑み、その向かいに腰掛ける。隣で薬師寺は、脚を組んで彼女を見ていた。

「……で、なんて呼んだらいい? 君のこと」

感情の読めない声で、薬師寺が尋ねる。

「……別に。好きに呼んでくれて構わない」

「名乗るつもりはないってことね」

「……」

肯定の意を示す沈黙に、薬師寺が溜息をつく。そうして窓の外をちらりと見やってから、ひらめいた顔で手を打つ。

「あ! んじゃ、ケロコちゃんでどお?」

「はっ?」

「雨の日に緑のコートで現れたから、カエルのけろこちゃん。迷子の迷子のけろこちゃん~って感じ」

「な……! わ、私はカエルじゃ……!」

眉を釣り上げて、彼女は怒鳴った。撫子色のポニーテールが揺れる。

「わ、それいいね。けろこちゃんかあ、よろしくね」

柔い笑みと共に磐長が手を差し出し、彼女は──けろこは勢いを削がれ、叫びを飲みこむ。

「……ッ、……ハイ……」

渋々といった様子で、出された手を握る。大きな磐長の手は、イメージに反して冷たい。


 薬師寺は、髪の毛をいじりながら気怠げに話しかける。

「そんで? 西木の連中に追われてるって?」

手を離した彼女の目が、す、と細められる。

「……そうよ。あいつら、私を見つけたら殺す気だわ」

「あんたカタギでしょ? なにしたらそんなことになんの」

けろこがゆっくりとカップを持つ。薄紅に塗られた爪が、陶磁器を小さく引っ掻く。薬師寺はじっとそれを見つめた。

「……話したくないなら、無理にとは言わないよ。けど事情を聞かないと助けられるものも助けられないんだ。……たまたま君が駆け込んだところがやくのバーで、偶然だけどおれ達は君に手を貸せるかもしれないから、せっかくなら……話してみてほしいな」

磐長の声は、どこまでも優しい。けろこは上目遣いに彼の目を見た。その翡翠の色に、詰めていた息を吐いて頷く。


「……西木の……組長の、息子と。……そういう関係だったの」

薬師寺が片眉をぴくりと動かす。

「その人には、いわゆる許嫁がいて……でも、親の決めた結婚だって言ってた。私のことは……本当に、大切だけど、表立って一緒にいることはできないって。私はそれでも良かった……けど、それがバレちゃった」

けろこはカップを見つめて小さく笑う。

「……それで、追われてるってわけ?」

「そうよ」

話は終わりとばかりに、けろこがコーヒーを飲む。薬師寺は組んだ足の上で頬杖をついて、ぼんやりとそれを見ていた。


 それだけで、ヤクザが、堅気を殺そうとするだろうか。仮にそうだとして、その追手から逃げられるだろうか。

 薬師寺は、何か確信に近い違和感を感じていた。

「話してくれてありがとう」

磐長が、けろこのカップに追加のコーヒーを注ぐ。

「……もしかしたら君の力になれるかもしれない。少し待っててくれる?」

彼女はようやく微笑み、小さく頷いた。

「……」

薬師寺は一瞬考えて、すぐに立ち上がり笑みを見せる。

「オッケー。そしたら、オレちょっと連絡してくるから」

そう言って携帯電話を取り出し、奥の部屋に向かう。

「……もしもし、神音ちゃん?」

扉が閉まる直前、聞こえた声に、けろこはじっと耳を傾けていた。


「……」

カップに注がれたコーヒーを見る。水面には、薄く微笑むけろこが映っていた。





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