第六更 雷に似ている


 薬師寺が携帯を片手に、窓に寄りかかり雨の降る外を見る。

「……あーそうなんだ。タイミング悪かったね、ごめんごめん」

「んや、大丈夫。高野くんには終わったらまた聞いてみるわ」

電話口から谷松の返事が聞こえる。僅かな雨のノイズと、雑踏と足音。薬師寺は視線を戻し、薄暗い無人のバーを眺めた。

「そうしてあげて。オレもなんか気になるし」

「気になる?」

なにが? と聞く谷松の声は、いつもより少し陰りを帯びている。雨に辟易しているのだろう。

「……ちょっとおもしろいことになりそう、っていうか?」

くすりともせず、ぼんやりと、それでいて何か確信めいたように薬師寺が言う。一瞬おいて、くつくつという谷松の笑い声が入った。

「アンタの勘は当たるからなァ」

「……まあね」

谷松は歩みを止め、高層マンションの軒下に入り、その壁にもたれる。

「じゃ、そういうことで」

「ん、よろー」


   *


 谷松が電話を切るのと同時に、自動ドアが開き、安田が出てきた。

「よぉ、先生。ご機嫌いかが?」

ちらりと空を見上げて、眉根を寄せる。

「……最高だな」

「そりゃ何より」

二人は雨の中、傘をささずに歩き出した。

「腹が減った……」

「まーた何も食ってねえのか」

「家に食う物がなかった」

呆れて首を振る谷松の、焦茶色の跳ねた髪から、水滴が飛ぶ。

「……終わったら、あの喫茶店連れてってやるよ。ド深夜までやってるとこ。サトウだっけ」

「……何時までやってる?」

「確か二時」

安田がこくりと頷いた。今日は早く終わりそうだな、と谷松は胸中でほくそ笑む。


「今日のお相手だけど」

胸ポケットから煙草の箱を取り出しつつ、安田はまた首肯する。

「最近ウチの縄張り荒らしてる奴らがいてね。少々のおイタは、おやっさんもほっとけっちゅーから見逃してたんだが、どうもキナ臭くなってきてな」

安田が百円ライターで煙草に火をつけようとするが、雨で濡れて上手くいかず、舌打ちをする。それを横目に、谷松が続けた。

「盗みやるわシャブ撒くわ乱闘騒ぎ起こすわ、勘弁だぜ本当。あーそう、やくちゃんとこのこないだのアレも、そこが絡んでるっぽくてよ。覚えてる? 覚えてねえか。いいよ覚えてなくて」

「覚えてない」

「まぁこれはオフレコだけど、ひょっとすると俺の周り探られてんのかもしれねえんだわ。となると」

安田が湿気た煙草を握りしめ、言葉を切った谷松を見る。谷松は口の端で薄く笑っていた。

「すずめも時間の問題だな」

「……そうか」

「俺の見立てだと、裏に西木組がいるような感じなんだよな。だから俺のことマークしてんのかもって思ってんだけど。西木組って知ってる? 知らねえよな。いいよ知らんで」

「知らん」

安田は新たな煙草を取り出し、咥える。

「そんでね、今日はちょっとシッポ掴んだから、先生に勝っていただいて穏便にお取り引きをしたい訳ですよ」

「ハッ。どうせ殴って吐かせる癖によく言う」

「それは蓋を開けてみてのお楽しみだぜ。アンタは勝ってくれればそれでいーの」

谷松がスーツのポケットからオイルライターを取り出し、安田の煙草に火をつけた。雨の中でもよく燃えるその火は、安田の目の前で青く揺れ、パチン、と蓋が閉まる音とともに消えた。

「んじゃ、行くか」

「ン」


   *


 薬師寺は谷松との通話を切り、振り向いて窓の外を見る。

「うわ、すごい降ってきたな……」

独り言は暖色の間接照明に吸い込まれ、二十三時前を指す時計の、秒針の音が響く。そう広くない店に詰め込まれ、これでもかと存在を主張するグランドピアノまで歩いて行き、その蓋を閉めながら小さく歌う。

「……Killing me softly with his song……♪」

黒いボディに光が反射して、ふと入り口の方を見る。

「……て、いけね、ネオン消すの忘れてた」

呟いて、入り口付近にある看板ネオンのスイッチを消しに行く。手を伸ばしたその時、勢いよくドアが開いた。

「うわッ⁈」

「……ッ!」

飛び込んできたものを、思わず薬師寺が受け止める。濡れた緑色。モッズコートを被った女だと気づくまでに、数秒。


 彼女の鋭い視線が、薬師寺を射抜いた。

「──お願い、助けて……!」


 見開いた薬師寺の目に、彼女が映る。水を含んだコートが落ちた。青いドレス、撫子色の長い髪と瞳。

 扉の閉まる音が、静かに、外界と彼らを断絶した。


   *


 顔にかかる朝日の眩しさに、高野が目を覚ます。いつのまにか寝ていたらしい。ソファから起き上がり、カーテンを閉め忘れた窓の方を見ると、雨は止んでいた。水滴が陽の光を反射して、目を細める。高野の気分と反比例するような、とても良い朝だった。


 瞬間、ドアの開く大きな音がして、高野が飛び上がる。

「わっ⁈」

「ん? 高野くん? あ、寝てた?」

入口を見ると、ずぶ濡れの谷松と安田が立っていた。

「か、神音さん! 先生も!」

慌てて駆け寄ると、谷松の方は頬とシャツに血が付いている。

「ふ、二人とも……どうしたんですか⁉︎」

「あーいや、普通に雨で濡れた」

「でも神音さん、血が……っ!」

「あ? ああ……これは返り血」

「返り血……⁈」

どちらにせよ穏やかではないのだが、谷松は意に介さず、スラックスの裾を絞っている。リノリウムの床に小さな水たまりができた。

 隣で雨水を滴らせる安田が、店内を見回して呟いた。

「……さくは?」

「えっ……あ、マスターなら、まだです。いつもは九時過ぎに来ますけど……」

時計は午前八時過ぎを指している。

「そうか」

安田は濡れたジャケットを脱いで、カウンターに座る。

「オイ、一旦帰ろうぜ。ここの無事は確認したしいいだろ?」

スラックスを払いながら言う谷松に、高野が僅かに首を傾げた。

「……ここの、無事?」

ふ、と谷松の表情が真顔になり、すぐに高野に向かってウインクをする。

「ちょっとね」

「……?」

「俺ァ帰るからなー先生も着替えねえと風邪ひくぞ」

高野に背を向け、谷松は再び出て行こうとする。

「あ、か、神音さん! 俺聞きたいことが……」

切羽詰まったような高野の声に、谷松は首だけで振り返った。

「そうだそうだ……『哀原成海』、だろ?」

「え……! なんで知って……」

「やくちゃんから聞いたよ。いいぜ、調べてやる」

「い、いいんですか⁈」

その代わり、と呟く。

「大二枚な」

「ぐっ……金とるんすか……!」

にやりと笑った谷松が、濡れて張り付いた髪をかき上げる。

「そうだな……今日の夜十時に、四条の西にあるロアイヤルって喫茶店、来れる?」

「……行けます、行きます、もちろん!」

「んじゃ、待ってるよ」

そう言うと、谷松は片手を振りながら出て行った。高野はその背中に頭を下げる。

「ありがとうございます……!」


「……」

安田はそれを、カウンターに肘をついて見ていた。振り向いた高野が、目が合って、そっと視線をそらしながら頭をかく。

「えと……服、大丈夫ですか? タオルか、着替えか……」

「ん。その辺は勝手にやる」

「あ、ですよね……」

半分ここに住み着いているような安田に比べれば、高野はまだまだ新参者だ。恥ずかしくなって、俯いた。


 沈黙。気まずそうに高野が半笑いで安田の表情を伺う。

「……どうしました?」

「……いや」

ゆら、と安田が動き、高野のほうに体を向けた。銀の細い髪から、水が滴った。紫水晶のような右目を、朝日が煌めかせる。高野は緊張に似た何かを感じて、身を強張らせた。安田の薄い唇が僅かに開く。

「食いっぱぐれたんだ……」

「……はい?」

「メシを……食いっぱぐれた。腹が減ったし雨だったし走って疲れて眠いし動きたくない……」

「……」

虚ろな目でぼやく安田に、高野の力が抜ける。あー、と呟き、頬をかきながらカウンターに入って、冷蔵庫やブレッドケースの中を確認する。

「トーストと茹で卵で良ければ、準備できますけど……」

「……頼む」

常より眠たげな目が、さらに細められる。そうしていると陽の光に照らされて、長い睫毛が際立つな、と高野は思ったが、その造形美に反して中身は今にも意識を手放しそうな腹ぺこの三十路男性だ。

「準備するんで、その間に着替えた方が良いですよ、本当風邪引きます」

「そう……だな……」

重い身体を引きずるようにして、安田が立ち上がる。食パンを出す高野が手を止めて、あ、と言った。顔を向けた安田に、照れたような表情を見せる。

「その……コーヒー、淹れましょうか? ……マスターほど上手くないけど……」

「……ああ。頼んだ」

彼の顔を見て、高野は一瞬目を見開いた。それから、嬉しそうに頷く。

「はいっ!」


 勝手知ったる様子で、トーストとコーヒーの用意をする。磨かれたサイフォンがきらきらと光った。安田は奥の部屋に引っ込んで、着替えを済ませ、またすぐにカウンターに戻ってきた。席に座り、アルコールランプに火を付ける高野をじっと見つめている。ふと目線を逸らし、窓の外の芙蓉町の景色を眺めた。

「良い朝だな」

小さく漏れた言葉に、高野は柔く微笑んで応える。

「……はい。俺、雨上がりの空って、好きです」

安田が高野を見る。高野は、雨は嫌いですけど、と笑った。ガラスのフラスコに、慣れた手つきでフィルターを付ける。

「そうか……」

頬杖をついた安田は、ぼんやりと窓の外を眺めている。


「高野……」

「え……は、はい」

パンの焼ける香りが、鼻をくすぐる。こぽこぽとフラスコの水が泡立ち始める。細めた隻眼で、金色に光る高野の瞳を、安田が見つめた。

「お前の麻雀は悪くない」

「……え!」

高野の表情が、一瞬でぱっと明るくなった。

「まだ不安定だが、時々……速くて重く……眩しい。お前の手は……雷に似ている。意識して出せるようになれば、きっと強い博徒になれる」

見据えられて、高野は耳を熱くした。強い、博徒に。その言葉を反芻する。腹の底から湧き上がるような喜びと、心臓を高鳴らす恐怖に似た興奮。

「必要なのは目だ」

その言葉に、ごくりと生唾を飲む。

「……目……」

「そうだ」

紫の瞳の奥に、炎が見えた気がした。激しく燃える赤と、静かに焦がす青が、混ざった紫の篝火。

「見えているものばかり見るな。見えないけれど見るべきところが、見えなくなる。必要なのは、全てを見ようとすること。それから……自分を信じること。それだけだ」

「……」

安田の言葉は、高野の深いところに刻まれた。理解はできなくとも、身体でその真意を感じた。烙印のように熱を持つその言葉を、拳を握って噛み締める。高野は一つ頷き、にっと笑った。

「……わかりました。絶対、忘れません」

安田が微笑む。滅多に見せることのない、とても優しい笑みだった。そのまま崩れるように、カウンターに突っ伏す。

「……え⁈ ちょ、せ、先生⁈」

慌てる高野に、安田の籠った声がもごもごと聞こえる。

「な、なんですか?」

「限界だ。寝る。コーヒーができたら起こせ」

言うなり寝息をたてはじめ、何も返事を返さなくなった安田を見つめて、高野は呆然とする。トースターのタイマーの音が、小気味よく響いた。

「……さっきの、寝ぼけて適当に言われたんじゃないよな……?」

あまり考えたくない可能性から目を逸らすように、高野はサイフォンの漏斗を手に取り、溜息をついた。


   *


 バーのカウンターに突っ伏して眠る一人の女性の肩に、薬師寺がそっと毛布をかける。隣の席に、濡れた緑のコートが置かれていた。薬師寺はそれを見て、ふっと笑う。

「……雨の日に飛び込んできた、緑色の女の子、ね」

店の奥に向かって歩きながら、携帯電話を取り出し、手慣れた様子で連絡先を表示する。

「さながら、迷子の迷子の……カエルちゃん、て感じ?」

歌うように独り言を言って、グランドピアノの前に立ち、携帯電話を耳に当てる。


「……もしもし、神音ちゃん? 今大丈夫?」

窓の外は暁光に照らされ、その眩しさに目を細め笑う。

「……おもしろい話があるんだけど、聞く?」

ピアノに身を預ける薬師寺の背を、女が組んだ腕の隙間から覗き見ていることに、彼は気づいていなかった。

「西の木から来たカエルちゃんの話なんだけど……」

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