第五更 曇天


「あいはら、なるみ……くん?」

閉店後のすずめでモップをかけていた磐長が、高野の方を見る。

「はい。俺と同い年で、髪は黒くて肩ぐらいまであって、目が濃い青で……」

「高野の友達ってことだよね?」

「あ……まあ、そうです……」

僅かに表情を曇らせ、言葉を濁す高野に、磐長が少し首を傾げる。

「……その子をこないだ、ここの裏路地で見たって……それが何か気になるの?」

高野は窓を拭く手を止めて、空に浮かぶ三日月を見つめた。

「気になる……というか……」


   *


 あの夜。

「……哀原……成海……?」

どこかぐったりとした様子で壁にもたれていた成海が、その声で瞬時に身構えた。

「……ッ⁈」

高野のほうへ身体を向け、フードを被り、ポケットに右手を入れる。その動きに高野は驚いて、少し後ずさった。

「あ、ご、ごめん。俺、高野……なんだけど、お……覚えてる……?」

成海の険しい顔に、動揺が走った。ゆっくりと、ポケットから手を出す。

「たか……の……」

呟いた成海の声は、動揺しているものの、僅かな安堵を含んでいた。

「あ、覚えてる……よ。高野……八千だよね……」

「……! そう! あー良かった、人違いじゃなかった……」

胸を撫で下ろした高野を見て、成海も小さく微笑む。

「久しぶり……だね。驚いた……」

「お、俺もびっくりしたよ。てかこんなとこで何して……」

その時、大通りから人の声が聞こえてきた。成海が、ぱっとそちらを見て目を見開く。

「……ッごめん、高野……僕、もう、行かなきゃ」

「え? あ、成海、ちょっと待っ……!」

引き留める高野に背を向けて、成海は走り去った。呆然と立ちすくむ高野を、雨が濡らす。

「……」

伸ばした手を握り、高野はしばし、闇の向こうをじっと見つめていた。


   *


 二日前のその出来事以来、高野はずっと、成海のことが気がかりだった。

「……なんか、ヤバそうな雰囲気だったっていうか……」

わからないけれど、なんとなく、何か大変なことに巻き込まれてるんじゃないか。そう思うと、どうしても忘れることができなかった。高野は雑巾を握りしめ、俯く。それを見て磐長も、少し心配そうに眉を下げる。

「うーん……少なくとも、この店には来てないだろうね……店の裏路地で会ったって言ってたけど、たぶんおれは見たことないと思う」

「そう……ですよね。変なこと聞いて、すみません……」

高野の金色の目に、影が射す。磐長は顎に手を当てて考える仕草をした。そしてぱちん、と指を鳴らし、微笑む。

「……この辺に出入りしてる人のことなら、ひょっとするとやくのほうが詳しいかもしれない」

「え……やくさんが?」

「うん。記憶力もいいし。一度聞いてごらん」

磐長が高野を見つめる。その瞳は、僅かに輝いて見えた。


   *


「やくのバーはこの店の二軒隣だよ。ぎりぎりまだ店開いてる時間だろうから、行っておいで」


 磐長に言われ、すずめを飛び出してきたはいいものの、いざその扉の前まで来て高野は立ちすくんでいた。木製のひっそりとしたドアの上で光る、《BARシンハライト》のネオンを見上げる。閉店間際とはいえ、営業中に突然押しかけていいものか、と逡巡する。何よりこんな、隠れ家的なお洒落なバーに入ったことがないので、単純に緊張していた。

「……いや! 行こう! お邪魔します!」

自ら奮い立たせるようにそう言って、勢いよくドアを開け、店に飛び込む。その瞬間、頰の横を何かが掠めた。反射で高野の喉から悲鳴が漏れる。

「……」

顔の横を飛んでいったものが何か確認するため振り向くと、壁にかかったダーツの的が目に入った。

「あれ? 高野ちゃんじゃん! どしたの?」

薬師寺の声が近づいてくるのを感じながら、数秒かけて状況を理解する。店に客はいない。先ほど自分の頬を掠めたのは、恐らく、彼の放ったダーツだろう。

「……いや……その、すみません急に……」

高野の視線の先、ダーツの的には、真っ直ぐ縦一列に、五本の矢が刺さっていた。

「やくさん……ダーツ上手いんすね……」

「え、そお? ありがとね!」

さっきの、刺さってたら俺、どうなってたんだろう。頭の片隅で考えながら、薬師寺の方を向く。爽やかな笑顔を向けられ、高野は引き攣った笑いを見せた。


   *


「……それで、その……アイハラナルミ? て子のこと、探してるんだ?」

「そう……ですね。探してる、というか、気になってるというか……」

高野はカウンターに座って、カクテルをステアする薬師寺を見つめていた。氷が涼しげな音を立てる。グラスにそれを注ぎながら、薬師寺は小首を傾げた。

「ごめんけど、オレも名前に心当たりはないな。見た目聞く限り、会ったこともないと思う。オレ、芙蓉町に頻繁に出入りしてる人間なら、大概は知ってるはずなんだけど……」

「え、マジすか……?」

一体何者なんだ、と高野が怯む。


「どうぞ。コロネーションです」

す、と出された金色の透き通る液体に、高野は目を輝かせた。

「ありがとうございます……! すみません、閉店間際に突然来た上に、ご馳走になってしまって……」

「いいのいいの。あ、何かおつまみ出そうか? 仕込みで作ったポテサラがあるんだけど」

そう言うと薬師寺が、冷蔵庫から何やら取り出して皿に盛る。

「お、お気遣いなく!」

慌てる高野の前に、小皿が置かれる。

「やくにーちゃん特製ポテサラでーす」

「わーすみません、ありがとうございます……」

高野が頭を下げながら両手を合わせ、フォークで一口食べる。

「……⁈ なんすかこれ、うまっ……!」

「いける口だね〜高野ちゃん」

グラスを拭きながら、薬師寺が笑う。

「食ったことない味がする! これ普通のポテトサラダじゃないですよね?」

「お! わかる? いぶりがっこって知ってるかな、オレのポテサラにはそれが入ってるの」

高野は大きく頷き、また口に運ぶ。

「お酒と合うから、飲んでみて」

示されたカクテルを、慌てて手に取る。

「すげえ、綺麗ですね……コロネーション? でしたっけ」

「そう。ハチくんの目の色に似てるでしょ?」

星でも飛んできそうなウインクを見せる薬師寺に、ハチじゃないです、と言いながら高野が照れたように笑う。グラスに口をつけ、ほうと目を細めた。

「美味い……」

少しずつ、味わうように何度も飲む。微笑みながらそれを見ていた薬師寺が、ふとグラスを拭く手を止め、真剣な表情になる。

「……その子、話の途中で急に走って行っちゃったんだっけ?」

「あ……そうです。えっと……近くを人が通る気配がして、慌てて……」

フォークを咥えた高野が少し顔を顰める。

「黒いパーカーを着て、フードを被って?」

「……はい」

薬師寺の桃色の目が、バーの静かな照明を反射して鈍く光る。常から人懐っこい笑みを浮かべている彼が、無表情でどこか遠くを見る姿に、高野は僅かに胸をざわつかせた。


「ん~……話聞いてる感じだと、もしかするとオレってより……」

うわごとのように呟いて、不安げな高野に気づき、薬師寺はグラスを置いて笑顔を見せる。

「てか、どういう関係なの? その成海ちゃんて子と」

「えっと、中学の時同級生で。中二と中三、同じクラスだったんですけど、中三の春に成海は引っ越しちゃって……」

「へー! 中三に引っ越しってなかなかレアケースじゃない?」

「まあ……確かに」

「高野ちゃんってずっと京都なの?」

「ですね」

空になった小皿に、薬師寺がポテトサラダを追加する。

「え、あ……いいんですか? こんなに食べて……」

「遠慮しないで」

ボウルにラップをかけながら、薬師寺は片眉を上げてみせる。

「それで、その引越し先ってどこだったの?」

「……え?」

「中三の春に引っ越しちゃったんでしょ? どこに引越したのかなって」

高野は一瞬眉根を潜め、それからすぐに目を閉じて首を振った。

「引越し先は、知りません……」

僅かに薬師寺の目に、探るような色がさす。

「……高野ちゃんは、その成海ちゃんと、仲は良かったの?」

「仲……」

俯いてカクテルグラスを見つめる高野は、どこか捨てられた子犬のような雰囲気を纏っている。

「……別に、仲良かったってほどでもない、かもしれないです。喋ったことはあるけど、休日に会って遊んだこともなかったし、全然、あいつのことは何も……」


 話しながら、高野は自覚する。そうだ。成海のこと、俺は何も知らない。それなのに、こんな風に首を突っ込もうとするのは、お門違いではないだろうか──


 薬師寺は、品定めするような目でじっと、高野を見ていた。興味の無い実験動物を、ただ観察するような冷めた目。

「……あのさ、高野ちゃん」

「あ、は、はい」

顔を上げた高野が見た薬師寺は、いつも通りの人懐こい笑みを浮かべていた。

「もし本気なら、なんだけど。神音ちゃんにその子のこと聞いてみたら?」

「え……神音さんに?」

戸惑う高野に、薬師寺の目が三日月の形に細められる。

「うん。あのね、オレが把握してるのは、芙蓉町に出入りしてるオモテの人間だけ。裏のことは知らないんだよ」

だからさ、と笑う薬師寺を、高野は呼吸も忘れて見つめた。

「ひょっとするとさ、その子」

カクテルの水面が光を反射して、そのピンクサファイアのような瞳を照らす。

「……そういうことかもしれないよ?」


   *


 雀荘すずめ、深夜。明かりもつけず、闇の中、高野は一人ソファに座っていた。頭の中で、薬師寺の言葉が反響する。


 そういうこと。


 高野は天を仰ぐ。その言葉に含まれた、様々な意味をひとつひとつ、想像する。どれもフィクションのようでいて、現実でもおかしくないような、可能性の数々。

 雨に濡れた成海がフラッシュバックする。暗い夜の海のような瞳と、冷たい春時雨。

 高野はソファに背を預け、窓の外を見遣る。降り出した雨がガラスを叩いている。街灯に反射して光るそれをじっと見つめ、思う。

 もし、そうだったら。今想像したような事が、成海の身に起きていたら。成海が何か危険な事に巻き込まれてたとしたら。それを知って、自分は、一体どうしたいというのだろうか。


 黄金色の両の目が、曇天の向こうの星のように鈍く光った。


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