第四更 路地裏


 初めは大三元。清老頭、大喜和、四槓子、字一色、四暗刻……安田は次々と役満を上がっていく。独壇場だった。まるで仕組まれていたかのように、けれど高野は嫌でも理解させられる。イカサマでも何でもない、これがこの男の実力であると。少しずつ、背筋が冷えていく。素人目にも、その異常さは明らかだった。

「あ〜もう! なんなんだよこの時間……」

「やくちゃん、いくらなんでも振り込みすぎ」

とうとう卓に倒れ伏した薬師寺に向かって、谷松が揶揄うように言う。

「大丈夫? 高野くん」

磐長の優しい声に、高野は無言で何度か頷いてみせた。大丈夫かそうでないかで言えば、あまりの情報量の多さに、既に高野の頭はパンク気味だった。

「トバすねー先生。高野くん、休憩するかい?」

「……いや……大丈夫です。続けてください」

「おお。いいね、やる気だね」

「無理しないでね、高野くん」

溢れていく映像記憶を、高野は必死で反芻する。曖昧な知識は、後でいくらでも調べられる。だけど今は、もっとこの人の麻雀を見たい。脳に焼き付けたいのは牌姿ではなく、安田の所作や纏った空気だった。


 その局、高野は平和と断么九の複合役を作ろうとしていた。リャンシャンテンまで持っていったところで、安田が高野の捨てた發牌を指差す。

「ロン。オールグリーン」

手牌が倒れる音に、高野の悲鳴が重なった。突如現れた横文字の役に狼狽える。

「お、オールグリーン? って、なんですか?」

「オールグリーンは元々、アメリカで作られた役だよ。中国語だとリューイーソーっていってね、漢字で書くと緑一色。清一色の上位互換って感じかな」

言われて改めて、高野は安田の手牌を見直す。確かに、そこに並ぶのは緑の竹林だった。

「防御も教えなきゃだぜ、先生……高野くん、こいつの副露見て」

谷松が、安田の鳴いた索子のチーとポンを指す。

「あと河も。索子がほとんど捨てられてないだろ。今回はわかりやすく緑一色を狙ってるってことを、捨て牌と副露で示してくれた……んだと思うんだけど」

安田の顔色を伺う。相変わらず左目は閉じたまま、無表情で一つ頷いた。

「自分で説明しろよ」

谷松は苦笑いするが、安田は素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。高野は示された河をじっと見つめた。

「……つまり、捨てられた牌と開けられた牌をよく見て、ロンされないようにしなきゃいけないってこと……ですよね……?」

「簡単に言うとそーねー。つっても、実際はブラフ張られてることもあるから、そこまで読まなきゃいけないんだけど」

薬師寺が退屈そうに答える。

「さ、どんどんいこうぜぇ~」

谷松の声に、それぞれ牌を崩した。


 次局、高野は教わった通り他家の河を観察していた。どれだけ見てもわかることなどほとんどないが、その中でも特に、安田の河は全く傾向が読めない。鳴きも無く、どんな役を狙っているのか想像もつかなかった。訝しみながら切った高野の一萬を見て、安田が手牌を倒した。

「ロン。国士無双」

「……はぁ⁈」

開けられた十三枚を見て、高野が腰を浮かす。

「なん……っじゃこりゃ⁈」

その反応を見て、薬師寺が口元を押さえくつくつと笑った。谷松もニヤつきながら、安田の頭に腕を乗せた。

「なかなか出さねえなと思ったら、やっぱりとっておいてたな? 先生」

「重い。やめろ」

高野は何度もその手牌を眺め、法則を探す。全く揃っていないそれらに、こんなの役として成立するのか、と眉を顰める。

「これは国士無双。それぞれの一・九牌と字牌を揃えて、そのうちのどれかで頭を作ると成立する役だよ。これはその中でも十三面待ちで、ダブル役満だね」

「だ、ダブル役満?」

「単純に点数が役満の倍になるんだよ。初心者にこんなの教えてもって感じだけどね~」

口を開けて呆然とそれを聞く。

「先生はこれがお好きだもんな。ゴミ手が役満に化けるヤバイやつ」

そう言った谷松を横目で見て、安田は革手袋の指を組んだ。

「……運だけで勝ち取る、起死回生の手だ。燃えるだろ?」

安田が挑戦的な笑みを浮かべる。それを見て高野は、脱力したように椅子に座り、並んだ国士無双を前に、思わず頬を緩めた。

「そんなの……すげえ、かっこいいじゃないですか」

恐怖と、それを上回る興奮に、高野の背筋がぞくぞくと震えた。その表情を見て、安田は目を細める。


「ふふ、今日はこのくらいにしとこうか。お疲れ様、高野くん」

磐長の言葉を皮切りに、薬師寺が立ち上がり伸びをする。

「終わった終わったー、もうこりごりだよ」

そのまま猫のように目を光らせ、高野を見ながら安田に人差し指を向ける。

「言っとくけどね高野ちゃん、こいつの麻雀なんか初心者が参考にしちゃダメだよ」

「エッ……」

「まあこれはホント」

同調した谷松を見て、高野の顔が困惑で溶けていく。

「おい」

安田が薬師寺の胸ぐらを掴み、無理矢理引き寄せて椅子に座らせた。どこかがぶつかる鈍い音がして、卓が揺れる。

「いってぇええなクソ! なんなの⁈」

悲鳴を上げた薬師寺に見向きもせず、磐長の方を見て安田が不機嫌そうに言う。

「チューレンが出てない。もう一回やる」

「ハァ⁈ やるわけないじゃん、バカじゃないの⁈」

「おいおい、まさか出すつもりだったのかよお前……」

非難轟々の二人と苦笑いする磐長を眺めて、高野は不思議そうに首を傾げた。

「……あのね、高野くん。今、全が言ったチューレンっていうのは、正式名称を九蓮宝燈……」

見かねた磐長が、卓上の牌を集めて、萬子を順番にずらりと並べる。

「……これに、このうちのどれか一つの牌をもってきたら完成。索子でも筒子でも同じだよ」

美しい牌姿に、高野はほうと溜息をつく。一目でわかる希少価値の高さに、目を細めた。先程の二人の反応も納得だ。

「その上鳴くと消えるから、滅多にお目にかかれないSSR役だぜ。先生も今まで一回しか出したことないんだよなー」

安田がむっとした顔で腕を組む。

「……お前らが手を抜いてる今なら、余裕で出せる」

「やめろマジで、お前のそれは冗談に聞こえねえ」

「冗談じゃないが」

会話を中断させるように、薬師寺が高野に声をかける。

「あのねえ、それ、アメリカじゃヘブンズドアって呼ばれてて、上がるとその日に死ぬって言われてんだよ? この人生きてるから都市伝説だけどさぁ」

そう言って安田の頭を軽く叩いた。銀糸が舞う。

「ま、片目はなくなってるけどね!」

けらけら笑う薬師寺の言葉に、苦笑いしていた高野の背筋がさっと冷える。


 やっぱり、ないんだ、左目。ずっとまぶたを開けないから、どこかでそんな気はしていたけれど。一体どんな経緯で、その目を失ったのだろうか。自分が知る日は来るのだろうか。


「……さて、これで無事、ハチくんはすずめの店員試験合格、というわけだ」

谷松の適当な拍手に、高野ははっとする。

「ハチじゃないです。てか、え、試験、だったんですか、これ」

「そんな大層なものじゃないけどね」

くすりと笑い、磐長が高野に何かを手渡した。

「これ……エプロン?」

「そう。ここの制服みたいなものだよ」

言われて、初めて会った時からずっと磐長がつけているものと、同じエプロンだと気づいた。深い緑色のそれは、目の前の雀卓に敷かれたフェルトと同じ色だった。喜色を浮かべ、高野はそれを広げて見る。

「ありがとうございます……!」

磐長も優しく微笑む。

「ようこそ、高野くん。歓迎するよ」

高野が目を輝かせたまま、ぱっと立ち上がり、頭を下げる。

「……よ……よろしくお願いします!」

高野を見る四人の目には、優しさと好奇心が滲んでいた。

「さーて帰って店開きするかあ!」

薬師寺が立ち上がり、首を回す。

「おい先生、こんなところで運使おうとすんじゃねーよ。今日はもう終わり終わり」

「じゃあ高野くん、うちも準備するから手伝ってくれる?」

「あ……はい!」

高野が慌ててエプロンを身につける。ふと、まだ卓に座ったまま、冷め切ったコーヒーを啜っている安田をちらりと見た。目が合うと安田がにやりと笑う。

「……続き」

「えっ」

「また明日な」

高野の腹の底に、熱く重い喜びが湧いた。溢れる笑みを拳を握って引き締めて、安田をしっかり見据える。

「ありがとうございます……!」


   *


「……なんていうのも、もう三か月前か」

両手に持ったゴミ袋を、『雀荘すずめ』の入っている雑居ビルの裏路地に置く。一つ息をついて、手を払う。目を細めた高野の睫毛に水滴が乗った。見上げると、霧のような小雨が降りはじめている。


 高野は『雀荘すずめ』で出会った彼らについて考えた。


 マスターと呼ばれる店主の磐長朔弥は、初対面の時の印象と違わず、穏やかで柔らかい物腰の裏に想像もつかないほどの強さを持っていた。フィジカルもメンタルも、だ。あの面々をなんだかんだでまとめているのだから、相当のものだ。それと金には厳しいところがあるらしく、時々谷松や薬師寺に冷ややかな声で数字と期日などを伝えている場面もあった。


 その薬師寺一真は、すずめの近くでバーを営んでいるらしい。高野はまだ行ったことがないが、谷松曰く「やくちゃんらしくセンスよくてしゃれててエロティックで飯がうまいバー」とのことだ。仕事柄かもともとの性質か、抜群のコミュニケーション力で猫のようにするりと人の懐に入る様は、恐ろしさすら感じさせる。しかしここ最近で高野は、彼が頻繁に嘘を言って人をからかうのが好きらしいということに気付き始めていた。まあ、その嘘というのも他愛のないものだが。


 谷松神音は、予想通り『表向きパチ屋のオーナーをしている指定暴力団の一員』だった。彼の属する組織は京都一帯がシマらしく、決して小さくはないその組の中でも、谷松はそこそこの地位にいるようだ。妙に気さくで飄々とした、いわばつかみどころのない人。それでいて時々物騒で冷酷な一面を見せる彼は、どうやら”敬虔な”クリスチャンらしい。


 そして、安田全。無口でいつも眠たげな、隻眼の雀士。理由は不明だが、谷松と薬師寺から先生と呼ばれているので、高野もそう呼ぶようになっていた。すずめに最も入り浸っているが、麻雀を打つのは気まぐれで、その時間の大半をコーヒーを飲むかうたたね寝するかに費やしている。未だ謎の多い彼に、しかし高野は憧れに似た何かを感じずにはいられなかった。


 三ヶ月の間、雀荘の手伝いの片手間に、高野は時折麻雀を打っていた。実力としてはようやく形になってきた、というところだ。役もまだうろ覚えで、勝てることはあまりないが、けれど着々と、麻雀の楽しさにハマりつつあった。


「やべ、濡れる……早く戻ろう」

小雨は僅かに雨足を強めていた。慌てて戻ろうとして、ふと路地裏の奥に目を留める。

「……?」

人影が見えた気がして、立ち止まる。雨粒の向こうで動いたそれを、何故か無視できなかった。理由もなく、吸い込まれるように、高野は、そちらへ歩みを進めた。


   *


 薄暗い部屋の中、雀卓に向かう安田が、対面に並んだ手牌を順に倒して開ける。その背後の窓を、雨が濡らしていた。隣では谷松が、机に伏して眠っている。

 音もなくドアを開けて、磐長が入ってきた。

「……神音、起こさなくて大丈夫かな」

「仕事があれば、いつもどおり勝手に起きるだろう。寝かせておけ」

言いながら安田は十三枚目を倒し、じっとそれらを見つめた。濁った深い紫の目が、牌に描かれた緑色の鳥を映す。

「とも」

呼ばれて、顔を上げる。磐長が複雑な表情で、安田の手元のマグカップを指さした。

「そのコーヒー、何杯目?」

「……忘れた」

取り上げられる前に、安田はそれを飲み干す。

「一日三杯までにしときなって言ってるのに……」

「三杯なんて、一瞬だ。午前中も保ちやしない」

「起きたの昼前でしょ」

「……」

返す言葉もない。空になったカップを置いて、ポケットから煙草を取り出す。

「今日も高野と打ってたの?」

「ああ」

火をつけて、一つ煙を吐く。磐長はその表情を見て、一瞬驚いた顔をしてから、すぐに微笑んだ。

「……楽しそうだね、全」

「ああ——」

安田が笑みを浮かべて、開いた手牌を指でなぞる。

「見ろ、さく」

呼ばれた磐長が彼の手元を見た。索子の清一色かつ、一通が絡むイーシャンテン。上がれば倍満以上確定の、良形だ。

「これ……高野の?」

目を丸くした磐長に、安田が頷く。短く揃えた爪が、牌を小さく弾いた。

「……おもしろくなりそうだ」


   *


 雨はすっかり本降りになっていた。土砂降りの中、高野は路地裏に立ちすくむ。視線の先で、フードを目深に被った男が、身を隠すように壁にもたれていた。

「……お前……」

男は高野の声に、びくりと身構える。顔を上げた拍子にフードが落ち、その顔が露わになる。

 青い瞳が、夜の中で光った気がした。その鋭い輝きに、高野は彼を思い出す。


「……哀原……成海……?」


高野の呟きは、雨音に溶けて、暗いアスファルトに落ちた。

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