第三更 海の底の月


「マスター、こっち掃除終わりました」

高野が声を上げると、磐長がスタッフルームから顔を出す。

「ありがとう! ゴミまとめておいてくれる?」

「あ、もうまとめたんで、俺捨ててきます!」

「助かる! サンキュー高野」

ふたつの黒いゴミ袋の口を縛って、両手に持つ。『雀荘すずめ』と書かれたガラスの重い扉を、肩で開ける。

「よっと……」

外に出て、高野はふと空を見上げる。短い春の終わりを告げる、京都の夜が広がっていた。高野がここに初めて来たあの夜から、三か月が経とうとしていた。


   *


「麻雀打てるか」

静かな、けれど芯のある声。

「は……?」

凍りついた高野の思考を、谷松の溜息が引き戻す。

「まーた始まったよ……気にしなくていいぜ、高野くん」

肩をすくめる谷松に続いて、薬師寺がニヤニヤと笑いながら言う。

「でたでた、コミュ障。やだねーこれだから友達いないんだよ、いい歳して人とロクに話せな……」

言いかけた薬師寺の頬を、銀髪の男が平手で打った。

 あまりに突然のことに、高野の方が大きく肩を震わせた。小さな悲鳴も、薬師寺のものか高野のものかわからなかった。薬師寺は頬を押さえて男を振り向く。

「……ってえなあ! 何すんだよ安田ぁ!」

怒号を気にも留めず、男はその横をすり抜ける。

「うるさいぞジジイ」

「誰がジジイだ誰が! 信っじらんないマジ……コイツ……顔を……オレの美貌を……」

安田、と呼ばれたその男は、不貞腐れた様子で雀卓の席に着いた。それを目で追っていた高野は、彼の右目と視線が合い、身を硬くする。

「とも、彼は高野くん。今日から住み込みでバイトすることになったから」

コーヒーのポットを持った磐長が、高野の横に立った。それから高野のほうを見て微笑む。

「あいつの名前は『やすだとも』。全てと書いてともだよ。全はね、麻雀の代打ち師だから……代打ち師ってわかる?」

「だい……」

「代わりに打つ人ってこと。こいつは俺の組の取り引きで、麻雀打って金もらってるの」

谷松が割って入って答えた。磐長の入れたコーヒーを受け取り、だらしなくソファに座り音をたててそれを啜る。

「く……組の取り引き、ですか」

高野が僅かに青ざめたが、カップに口をつける谷松は気づかない。


「てかさー、高野くん、麻雀知らないんだね! 意外じゃない? イマドキの子って麻雀で遊ばないのかあ」

頬を撫でながら雀卓に肘をついて、薬師寺が首を傾げる。

「そもそもいくつなの? 高野くんって」

「あ……今年、二十三です」

「わかーい!」

薬師寺の声に、逆に高野が驚く。見た感じ、さほど歳は変わらないと思っていた。そういえば先ほど、安田から『ジジイ』と呼ばれていたが、まさか、あの人より年上なのだろうか、などと思索する。

「ひょっとして大学生?」

マグカップにコーヒーを注ぎながら、磐長が高野に問いかける。

「まあ、はい、一応……」

「へえ。どこ大?」

谷松が口をはさむ。

「京社です。あの……京都社業大学って……」

「ああ、あの鵺川の上手の?」

「あ、そうです。と言っても、その、もうほとんど行ってないんですけど……」

「なんで? もう卒業?」

悪意のない谷松の質問に、高野の声は少しずつ小さくなっていく。

「いや、まあその……行ってたけど途中で……みたいな……」

「おい」

その声に、すぐさま顔を上げる。

「麻雀できるのかって聞いてるんだが」

安田が、卓に手を置いて、右目だけで真っ直ぐに高野を見た。ぐ、と高野は膝の上で拳を握る。

「……えっと、やったこと……は……ないです……」

途端、ふい、と目を逸らして、安田がマグカップのコーヒーを飲む。あ、と高野が焦る。失望された。

「ルールも知らないの?」

「あ……あんまり、知らないです……」

「つまらん。寝る」

「お前そのでけえカップ一杯分、もう飲んだの?」

谷松の声に答えず、安田は席を離れる。向けられた背に、高野の中の正体不明の火が、燃えた。勢いよく立ち上がり、身を乗り出す。

「あ、あの!」

安田が、ゆっくりと振り返る。

「ま、マージャン、覚えてきます! 明日までに! 絶対!」

「……」


 沈黙が流れる。安田は表情は変えないままだった。高野は、自分でも何故こんなに必死に追いすがったのか、わからなかった。この人に失望されたくない、という焦燥に似た気持ちが、確かにある。それがただの自己肯定感を守るためのものなのか、それとも、この人だから、感じるものなのか──高野にはまだ、わからなかった。


 数秒、絡んだ視線は安田のほうから解かれた。顔を背け休憩室のドアノブに手をかける。

「その必要はない」

「……ッ……!」

氷の刃に貫かれたような感覚が、高野を襲った。やはり失望された、と噛み締めた奥歯が痛い。何か言おうと再び口を開いた瞬間、安田がそれを遮った。

「俺が明日、一から教えてやる」

「っ、……へ?」

彼は振り向きもせず、休憩室へと戻っていく。

「寝る」

その背中に、三人が一斉に声をかけた。

「おやすみ」

「おやすー」

「永眠しろ!」

扉が閉まる。三人が一斉に高野を見た。思わず縮こまって、何事かと順番に顔色を伺う。

 谷松がにやりと笑った。

「……気に入られちまったみたいじゃん、高野くん」

「はへ?」

薬師寺が憐れみと呆れを含んだ目線を寄越す。

「言っとくけど、明日から地獄だと思うよ」

「な……なんでですか」

「あいつの教え方、やっばいもん」

「やばいってどうやばいんですか? やくさん?……なんで黙るんですか⁈」

磐長が困ったように微笑み、小さく首を傾げた。

「……とりあえず、今日はもう寝たほうがいいね。ドンマイ、高野くん」

「ど、ドンマイってそんな、マスターまで……!」

高野の悲痛な声が、暁の薄暗い部屋に響いた。


   *


 翌日。深夜。

 薬師寺と磐長、安田の三人が、雀卓について牌を中央の穴に流し込んでいる。安田の向かいに座る高野が僅かに身じろぎ、椅子が小さく音を立てる。安田の背後に立つ谷松は、それを愉快そうに見ていた。

「さて、六翻役まで説明したわけだけど、何か質問ある?」

谷松の質問に、高野は苦笑いで返す。質問も何も、まだほとんど覚えられていない。

「て言っても、突然全部教えられてもわからないよね。やってるうちに少しずつ覚えていくから大丈夫だよ」

「あ……なら良かったっス……」

磐長からの助け舟に、少し胸を撫で下ろす。

「とりあえず、ピンフタンヤオイーペイコーあたり覚えておけばなんとかなるんじゃない?」

「あとは鳴けるか、だな。鳴きのルールはオッケー?」

安田の肩に腕を乗せ、谷松が高野を見る。鬱陶しそうな顔の安田が手元のボタンを押すと、卓上に牌の山が並んだ。

「たぶん、覚えたと思うんですけど……ポンが同じの三枚で、チーが並んだ三枚……カンは同じの四枚、ですよね」

「正解。とはいえ、鳴くと〈食い下がり〉つって点数が低くなったり、そもそも役ができなかったりすることがあるから注意ね。ちなみに俺は基本鳴きません」

「……鳴きでブラフを張ることもできる。使い方によっては、盾にも矛にもなるな」

高野がふんふんと頷く。意外なことに安田は、それなりに丁寧に麻雀のルールや駆け引きを教えてくれる。とはいえ言葉数は少なく、周りの三人がリードしている感は否めないが。


「ええと……あの、カンをすると一枚牌を引きますよね?」

おずおずと、高野が切り出す。

「リンシャンハイだね。ドラ表示牌の三つ隣から、一枚ツモるんだ」

磐長の声に合わせて、安田が山から牌を取り、手元に並べる。数枚確認しながら、手牌に明カンを用意して見せた。

「それで、もしそのツモった牌が上がり牌だったら、そのまま上がれるんですか?」

「特殊役だから説明してなかったね。もちろん上がれるし、その場合はさらに一翻役がつく」

安田が手を伸ばし、リンシャンハイとしてツモった一索で、三槓子を作った。

「嶺上開花」

安田の宣言に、高野は目を輝かせた。

「か……かっこいい!」

「というと、アレも説明し忘れてたな」

そう言うと谷松は、安田の三槓子から一枚抜き、高野の前に置く。

「その局の最後の牌をツモって、それが上がり牌の時ね」

安田が牌を再び手元に戻す。

「その場合も一翻役がつく」

牌のぶつかる高い音が鳴った。揃え直した十四枚を、倒す。

「海底摸月」

「……はいていもーゆえ?」

「意味は、海の底の月を掬う」

頷いた安田の銀色の前髪が、水面のように揺らめいた。

「すごい……綺麗な役だ……」

「ちなみに、ハイテイとリンシャンは複合しないんだ。そもそも複合しそうな状況が滅多にないけどね」

付け足された磐長の言葉を、高野はどこか浮足だった気持ちで聞いていた。漫画やアニメで多少触れる程度で満足して、実際にやることには興味が無かった麻雀が、こんなに奥が深くておもしろいものだったとは。思っていたよりずっと、かっこよくて美しい。高野は感動して、少しだけ頬を上気させた。


「そんだけ理解してんなら、もういいんじゃない? そろそろ役満の説明したげなよ~」

「そうだね……覚えやすいしね」

「役満……ですか?」

単語だけは、高野も聞いたことがあった。とても強い上がり手、ということくらいしか知らなかったので、首を傾げて正面の谷松を見る。

「役満っていうのはね、それだけで十三翻になる役のことさ」

「じ、じゅうさん……?」

「点数計算についてはまた後日、だね。とりあえず始めようか、全」

磐長に視線だけで答えた安田が、どこからか手袋を取り出した。黒い革のそれを、両手につける。高野がそれを不思議そうに見つめていると、気付いた安田が、両手を広げて見せた。

「気になるか?」

「あ……まあ……」

「大したものじゃない。強いて言うなら……勝負服、といったところだ」

そう言って、わずかに口角を上げる。笑うのか、この人、と高野は思った。


 牌の混ざる音で我に返る。山が現れて、誰からともなく長い息を吐く音がした。高野が見回すと、薬師寺は苦虫を噛み潰したような表情をしている。磐長も何かに挑むような顔で、谷松だけが楽しくてたまらないという風に見える。

 一体何が始まるんだ、と高野は少々身構えた。


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